1.正に"天恵"とも言うべき(天恵7年4月中旬)
「大丈夫ですか……? 久蓮さん」
「ん。来るべき時が、来ただけだよ」
それは、ここ――極北の大地が氷に包まれていた二月のことだった。その寒さのせいだけではなく、どこか硬い表情をしているように見える、憧れの先輩に、真平はそう声をかけたのだった。原因は、恐らく――極北だけでなく全国の陸上界を騒がせたあのニュースだろう、と真平は予想している。
『帝北学園大学に、駅伝部新設。関東の強豪校からも選手を集めているという。その駅伝部の監督に就任するのは、篠崎鉄人』
そのニュースを聞いても、久蓮はただ平然と笑っていたけれど。その瞳の奥に微かに揺れる動揺が、自分の気のせいだとはとても思えなかったのだ。
今だって久蓮は、真平の問いに、ゆるりと笑うのみだった。それは、高校時代のあの昏い笑みとは違う色をしていて、真平はひとまず胸を撫で下ろした。でも、それでも――。
「今度こそ。僕も――!」
実力の無かったあの時とは違う。ただチームの荷物でしかなかった悔しさは、今でも忘れられない。だから、ここまで努力してきたのだ。そして、十四分切りも視野に入る程までには記録を伸ばしてきた。漸くだ。まだ、足りないけれど、それでも、あの頃よりは――。
「さんきゅな。大丈夫。――楽しもーぜ」
「――っ! ……、はいっ!」
そんな想いは、きっとこの先輩には見透かされているのだろう。柔らかく笑みを浮かべた久蓮は、そう言って真平の頭を撫でた。
遂にやってきた"勝負の年" 、天恵七年度。この負けられない戦いの中で"楽しむ" ということは、なかなかに難しいかもしれない。それでも、今度こそ、役に立てる――いや、久蓮と共に闘うことができることこそが、歓びなのだ。だから――。
*
「――平……。真平?」
数ヵ月前を思い起こして思考に沈んでいた真平の鼓膜を、聞き慣れた同期の声が揺らした。意識を現実に引き戻され、焦点を結んだ視界に、眉を寄せた彼――富樫裕也の顔がアップで映った。
「え? ……あ、……ごめん、何?」
「何? じゃない、集合だ。いくぞ?」
「あ、うん!」
僅かな心配を乗せた、その声に連れられて、真平は駆け出した。
*
「というわけで。今回から、我が中長距離ブロックに参戦してくれる新入部員君だよ。ハイ、自己紹介して」
「どもっす。如月蒼です。……よろしくお願いします」
ゆるりとした雰囲気のいつもの集合で、けれども真平は大きく目を見開いて固まった。皆の前に立って、硬い表情で挨拶をした彼は、真平も知っている――信じられないことに、如月蒼なのだ。
――――なんで、こんな所に居るんだ……!!
自分の目が、耳が信じられない、そんな感覚に陥るのは久しぶりだった。けれど、確かに彼はその口で、如月蒼と名乗ったのだ。
銘華大附属の如月蒼と言えば、有名だ。昨年のインハイ五千メートル覇者なのだから。彼の学年では頭一つ抜けた実力で、関東の強豪校からも多くスカウトが来ている筈なのだが……。それでも事実、彼はここに居る。それが全てだ。
――――まさに"天恵" 、だ。
そう言わずして何と言おうか。――この"勝負の年" に、蒼が、そして翔太が入部するなど。方向性の異なる二人の荒削りの才能は、このチームにどんな風を吹かせるのだろうか。
またしても考え込んでいた真平は、久蓮の手が自身の頭の上に乗せられた感覚で、意識を現実に戻した。部員紹介は、どうやら自分の番になっていたらしい。
「それで、この彼が、我らがエース、岩本真平君だよー。ぴちぴちの二年生、オレの後輩。五千メートルのベストは十四分十五秒。今年は目指せ十三分台かな」
「……負けないよ」
未だ硬い表情をしている蒼をしっかりと見据える。単に緊張しているというふうではないその様子に、僅かに目を細めつつ、決意を持って、真平は告げた。インカレ覇者だろうと、変わらない。そう簡単に負けるわけにはいかないのだ。そうして、競い合って、高め合ってこそ、掴むことができるものがあるのだから。
「で、改めまして、オレは篠崎久蓮。ここの主将兼マネージャー」
「はぁ!?」
「ええぇ!?」
「なんでお前も驚いてんの」
久蓮が突如落とした爆弾発言に、蒼と翔太が驚きの声を上げた。翔太にそんな突っ込みを入れた蒼は、先程の硬さがいくらか和らいでいることに、気付いているだろうか。
ニヤニヤと笑う久蓮からは、"イタズラ成功ー" なんて言葉が聞こえてきそうだ。強制的に場の硬い空気を破壊するこんな手法は、高校時代からの久蓮の常套手段だった。
「で! 新たな部員を迎えた我々の今年の目標はー。ズバリ、全日に出ることでーす」
今日の夕飯の献立でも告げるかのように軽く告げられた目標――全日本大学駅伝対校選手権大会、出場。厳しいことには変わりない。昨年極教大にも敗れている中で、あの帝北までもが参戦するのだから。
久蓮の真意――それは、全日出場というよりも、打倒帝北大学というべきだろう。それは久蓮自身の事情だから、久蓮がそれを部員たちに伝えるわけがない。だから、このような設定になったのだろう。
「だーいじょうぶだって! オレたちならできる」
周囲の不安を感じ取ったのであろう久蓮がそう告げるも、重い空気は変わらない。けれど――。
「今年はオレも走るしね」
久蓮がそう告げた瞬間、確かに、空気が変わった。もちろん、自分も。無理もない。久蓮が走る――それは、真平にとっても実に三年振りの、待ち望んだ光景なのだから。




