25.全て掌の上?(天恵7年7月中旬)
翌日――日曜日。分厚い雲がボロボロと涙を零し、大粒のそれが地面を強く叩きつけていた。大雨だ。そんな中、皆は練習初めの集合に立っていた。
昨日の喧嘩もあってか、蒼の顔色を窺うような雰囲気に包まれている。いや、違う。このピリピリと張り詰めた雰囲気は、久蓮が作っている雰囲気だった。その久蓮はといえば、部員たちを表情の抜け落ちた顔でぐるりと見回し、小さく溜息を吐いた。
「蒼」
小さく、けれどもはっきりと、久蓮が蒼の名を呼んだ。ぴりりと、周囲の空気が揺れる。
「申し開き、ある?」
「……」
「そうか」
昨日の出来事のことを言っているのであろう久蓮の言葉に、けれど蒼は、ただ無言を返した。久蓮は、そんな蒼をじっと見詰め、そしてもう一度溜息を吐いた。
こんなに怖い久蓮は初めてだ。ぴりぴりと張りつめた雰囲気に、翔太もごくりと固唾を飲んで成りゆきを見守った。
「オッケー、分かった」
「久蓮!?」
久蓮の声色は、驚くほどに淡々として冷たかった。今まで、こんな空気を纏う久蓮など見たことはない。昴と範昭の一件の時でさえも、もっと――。翔太と同じことを考えたのだろうか、範昭が驚愕の声を上げた。久蓮はといえば、変わらず色のない瞳で範昭を見遣ると、すぐに蒼に視線を戻した。
「蒼、オレはね。ムリヤリ価値観を押し付けるのは間違ってると思ってる。キミがオレ達のために勝利に必死になってくれるのは、大いに結構。オレだって全力でその気持ちに応えるつもりさ」
その表情に、仄かに嬉しそうな笑みを浮かべて。久蓮は蒼に語りかけている。
「ケド、それを皆に強制させるのは違う。――絶対に。そんなことのために、オレは君と話をしたんじゃない」
一変して変わった調子。それは、厳しい非難の言葉だ。相も変わらず、冷えたトーン。そこから伝わってくる感情は、――怒り。直接それを受けていない翔太でさえも、その怒りに思わず身体を震わせた。
「久蓮さん……それでも……。僕は、これが間違ってると思わない!」
「……そ」
それを一身に受けた蒼は、それでも頑なだった。そこまで言うほどに、蒼は本気だということだ。自身の主張を言い切った蒼に、久蓮は素気なく一音だけを零した。冷めたその瞳に、一抹の悲しさが揺れる。
――――どうして? 悲しいの……久蓮さん?
「それでキミ、今、楽しいの?」
「そんなこと、言ってる場合ですか……!」
――――あ。
お互いの言い合いを聞いていて、翔太は納得した。なんだ、二人とも……ただお互いのことを想い合っているだけだ。
二人の真意を悟った翔太の心に、安心が広がった、そのとき――。
「つまり、そう簡単に揺らぐ決意じゃないワケだ。――方針変更。今日オレ、お前潰すわ」
空気が、凍った。
「久蓮!!」
「主将!?」
「センパイ!?」
一瞬の空白の後、落とされた久蓮の不穏な発言。先輩たちが慌てた驚きと制止の声を上げている。翔太は、そんな空気を余所に、ただ二人を見つめた。蒼との久蓮の周りだけが、切り取られた別世界であるかのように静寂だ。
「見せてやるから、死ぬ気で来い。――簡単に、ヘバんなよ」
ぽつり、ぽつりと、久蓮が言葉を紡ぐ。強く蒼を映す瞳は、冷たい怒りが揺らめいていた。
けれど。その様子に違和感を覚えて、翔太は首を傾げた。そう、久蓮の怒りの矛先は、なんだか蒼には向いていない気がして――。
*
結局、冷たい空気を纏ったままの久蓮と、苛立ちを覗かせる蒼。
相変わらずの大雨が地面を打っては跳ね返る中、ただ二人だけが並んだスタートライン。翔太は皆と共に傘をさしながら、その様子を見守った。
「用意はいいか?」
心配そうに眉を寄せながらも、そう問いを発した範昭。蒼と久蓮が頷いて、ついにレースは始まった。スタートから、久蓮は容赦ない飛び出しを見せた。追いかけた蒼に視線を投げると、さらにスピードが上がる。
「速ぇ……。あいつ、本気じゃねぇか……!」
「二十キロですよね……このレース……」
「これは……なかなかエグいことを考えましたね、久蓮さん……」
「え?」
範昭と真矢が不穏な呟きを零している。このペース、皆の目から見ても、やはり相当に速いらしい。そんななか、眉を寄せて呟かれた昴の言葉に、翔太は思わず首を傾げてしまった。
あっという間に道の反対側に戻ってきた二人のレースは、相変わらず久蓮が引っ張っている。そのペースは、外からみる翔太でさえ容赦ない乱高下をしているのがわかるほどだ。
「実戦は最大の練習……ですか。こんな質、下手なレースなんかよりよっぽど練習になりますよ」
「れん、しゅう……」
「ええ。それに、恐らく――」
練習――昴のその言葉は、いやに翔太の胸に引っ掛かった。昴は更に言葉を続け、そして眉を寄せて黙り込んでしまった。ちらりと視線を向けても、昴は何事かを考え込むばかりで、続きは返ってこなかった。
「――あお!!」
翔太は、思わず叫んだ。
それは、七キロ過ぎのことだった。しんどそうに足並みを乱しながらも、必死に喰らい付いていた蒼が、突然バランスを崩したのだ。
「ふくらはぎ、か」
「え!?」
低く呟かれた昴の言葉に、翔太はまじまじと蒼の後ろ姿を見つめた。脚がおかしいのならば、止めなければ! ――そう思った翔太を、けれど昴は制止した。
「止められない。……無駄にはできない」
それが何を指すのか、翔太には解らなかったけれど。
次の瞬間、目を疑う光景が視界に映った。久蓮がぐんとペースを上げ、それについていこうとした蒼が――電池が切れたかのようにアスファルトの上に倒れ込んだのだ。
「あお!?!?」
「っ――! 範昭さん、タオル! 部室まで運びましょう!!」
「っ、ああ! 翔太、昴さんと一緒に蒼頼む!」
「は、はい!!」
見守っていた面々は、弾かれたように動き出した。
大雨の中、その場から動くことなく立ち尽くしている久蓮と、そこに駆け寄る範昭へとちらりと視線を投げ、翔太は昴たちと一緒に、意識のない蒼を部室へと運んだ。




