20.根拠のない確信(天恵7年7月上旬)
―――― おかしい。絶対に、おかしいんだ。
「はっ、はあ、っ、はあっ」
酷く荒い呼吸を零しながら、蒼は先を睨んで走り続けている。グラウンドを駆けるその姿を、翔太は傍らの芝生でストレッチしながら眺めていた。
定められたメニューは終わった。けれども、蒼は未だ練習を終えることなく、独り強く地面を蹴って駆け出した。その顔には、べったりと焦りが貼り付いている。
――――蒼が、そんな顔して走らなきゃならないほどの何かが、久蓮さんにあったのかなぁ。
もし仮に……本当にそうだったとして。それでも久蓮は、蒼にこんな顔をして走って欲しいとは、思わないと思うのだけども。
「今日は、もう止めときな。蒼」
もう一本、と地面を強く蹴り出そうとした蒼を、真矢が止めた。傍らには、裕也もいる。様子のおかしい蒼を、心配しているのだとわかる――不安そうな顔。
「どうしてです!?」
「明らかにオーバーワークだろ、お前」
「そんなこと――」
「ないとは言わせないよ?」
半ば叫びにも似た声色の蒼は感情的だ。そのまま裕也の言葉を否定しようとした蒼を、真平が遮った。手には、久蓮が合宿でリリースした例のアプリ。表示されている画面はきっと今日の結果なのだろう。
「落ちすぎ」
真平は端的に指摘した。画面に映るグラフにも、その言葉を裏付ける明らかな下降線が示されていた。蒼も言葉に詰まっている様子だ。
「僕みたいに、なる気なの?」
「違います」
それでも、自身の足首を指しながら言った真平の言葉には、すぐに否定を返した。それはそうだろう。怪我をしたくて練習をする人などいない。でも、怪我をしてしまった真平が、そう言ってしまう程には、蒼が焦っているのも事実……。
「どうした。なんか焦ってないか?」
「なんか、……って。どうして、あんた等は……どうしてそんなに余裕なんですか……!」
「何?」
「全日に出るって……。最大の敵は帝北。全然、足りてないのに……!」
なんか焦っていないか? 裕也のその言葉に、蒼の目がきつく吊り上げるのを見て、翔太はドキリとした。いらいらとした視線をこちらに向ける蒼は、今にも裕也に掴みかかっていきそうだ。
「皆しっかりやってんだろ」
「それじゃ足りないって言ってるんですよ! 僕はっ!」
「どうしたのさ、あお!」
あくまでも冷静に会話をしようとしている裕也。けれど、蒼は酷く感情的だ。その瞳には、自分と皆への苛立ちが滲んでいる。ちょっと前までは、あんなに楽しそうに走っていたのに。その変わりように驚いて、翔太は思わず声をかけた。
「お前、この間からちょっとおかしいぞ?」
「おかしいのは、あんた等の方だ! ――このまま久蓮さんにおんぶにだっこでいいのかよ!」
「そんなこと……」
「思ってないって言うならもっと必死に走れよ」
眉を寄せて問いかける裕也に、蒼が叫んだ。
ああ、やっぱり。久蓮に何かあったのだ。だから、こんなにも蒼は焦っている。そうして、自分と皆で、久蓮の負担を減らそうとしているのだろうか――? でも、これじゃ、だめだ。
「研鑽なんて人それぞれだろ」
「蒼……」
「お前、自分が一握りだって解ってる?」
言葉を紡ぐ裕也の瞳には、呆れのような感情が浮かんでいる。硬く尖った声には、怒りすらも揺れているようだった。
「何でか今年ウチにはたくさんいるけどさ。普通、そんないないもんだろ。天才なんてさ」
「それが何だって言うんです」
「お前らがベストを一秒縮める間に、俺等が五秒縮めても、お前は俺等が努力してないって言うのか?」
「それは……。でも――」
そうだ。初心者の翔太の目から見ても、皆、それぞれ頑張っている。苦しい練習でも、手を抜いている人なんて一人もいない。でも、それをわかっていて、それでも蒼はまだ足りないと思っている。
――――どうしよう。こんな空気はいけない。
「何揉めてる」
このイヤな空気をどうにかしたくて、翔太が口を開きかけたとき、範昭の声が静かに響いた。救世主にも感じるその声に、翔太はただ振り返った。
「ノリ先輩……いつの間に……」
「どっちの言い分も解るがな。"オレは君達に楽しんでもらいたい" ――奴はそう言うぞ」
目を丸くする真平に少し口角を上げて微笑んで、範昭は蒼にそう告げた。その言葉に翔太は目を見開いた。
――――やっぱり。
範昭は、久蓮を引き合いに出した。蒼のこのおかしさの裏には、なにか久蓮の異常があるんだろう。それを、範昭もどこまでか知っている……。
蒼は、それでも納得できないと言うように、きゅっと眉を寄せた。そんな蒼の様子を見て、範昭はがしがしと頭を掻くと、蒼を掴んで踵を返した。
「こいつ、貰ってくぞ」
*
「ほーんと、どうしちゃったんだろ?」
「なんかちょっと……怖いですよね」
「何か、あったんですかね……」
何事かを話しながら、二人でダウンを始めた蒼と範昭を見つめながら、残された皆はぽつぽつと話し始めた。何かは判らないけれど、何かが違う。そんな意識を誰もが持っているのだろう。不安そうな先輩たちの顔を見ながら、翔太も溜息を吐いた。
ただ、この根拠のない確信を皆に話して、不安を煽るわけにはいかない。そう思った翔太はただ黙って、先輩たちの会話を聞いていた。




