18.月明りが照らす象牙色(天恵7年6月中旬)
とんとん、とんとん。
一人階段を降りていく、皆が寝静まった真夜中。目が覚めて、なんだかとても、喉が乾いたのだ。だから、水を買いに。翔太は一階の自動販売機を目指していた。
*
ピ、――ガシャン。自動販売機に辿り着き、目的の水を手にして、戻ろうと振り返ったとき。
「――?」
――――唯ちゃん先輩?
ロビーのソファには、独り座る唯がいた。電気の消えたそこは薄暗く、月明かりが照らし出した彼女の顔は、なんだかとても青白く見えた。
「……唯ちゃん先輩」
「……、……ああ、キミか。桃谷くん」
独り考え込んでいるその横顔が、なんだかとても淋しそうに――悲しそうに見えて。だから翔太は、思わず声をかけてしまったのだ。ゆるゆると顔を上げた彼女は、昼間の明るさはどこへやら。静かに反応を返した。
「眠れないんですか?」
「あー、うん。なんでもないよ、大丈夫」
「うそ。大丈夫なら、そんな顔しない」
翔太の問いかけに、いつも通りの笑顔を見せた唯。翔太はその答えをばっさりと否定した。少しの間、無言で見つめ合う。
――――反らしたら、……負けたらダメだ。
やがて、唯は苦笑を零した。
「ほんと、……篠崎くんの言う通り」
「?」
「皆の走る姿を見て、昔を思い出してたの。自分の現役時代と、篠崎くんと出会ったときを」
唯の独り言に、翔太は首をかしげた。そんな翔太に、唯は静かに言葉を紡いでいく。
「唯ちゃん先輩も陸上を?」
口に出してから、それは違うと思った。だって、今日ちらりと目にした唯の走りは、いつか久蓮が教えてくれた"球技の走り" だったから。
「違うよ。私がやってたのは、テニス」
――――ああ、それは。似合うだろうなぁ。
「どうして、やめちゃったんですか?」
現役時代、ということは、今はやっていないということだ。それでも、先ほど遠い目をしていた唯は、きっとテニスが好きで仕方がなかったのだろう。それがしっかりと伝わってくる――そんな表情だった。そう考えたら、自然、そんな言葉が口をついて出た。
「唯一無二のライバルが……いなくなってしまったから」
「それは……」
「なーんてね。区切りがついた、それだけだよ」
――――そう、なのだろうか。
淋しげな表情から一転。にっこりと笑ってそんなことを言う唯を、翔太はまじまじと見つめた。だって、先の言葉こそが、唯の本音に聞こえたから。
沈黙。そして、唯は苦笑した。
「大丈夫。ほんとに、もう、後悔はしてないよ。――篠崎くんに会えたから」
「……付き合ってるんですか?」
「私が? 篠崎くんと?」
ふ、と笑って告げた唯。本当に愛おしい。そんな表情で、告げるから。だから、そんな問いが零れてしまったのだ。唯はおかしそうに笑っている。
それでも。淋しそうなさっきよりも、余程いい。
「あはは、ないないない! 篠崎くんとか。絶対に面倒臭い。私、自分より頭良い子は嫌。でもね――」
からからと笑っていた唯は、ふ、とまじめな表情になった。
「付き合うとか彼氏とかよりよっぽど、あの子が大切だよ。何があっても走ることに直向きな所も、どんなに忙しくてもきっちり研究する真面目な所も。……思いもしない、魔法みたいなやり方で、私を掬い上げてくれた――優しい所も」
翔太は、口を挟めずに目を見開いた。ぽつりぽつりと語る彼女の瞳には、感謝も、憂いも、悲しみも、愛しさも。そして、いつも久蓮や蒼、昴たちが浮かべているあの焔も。――全てを混ぜ込んだような深い深い色が浮かんでいたから。
――――”魔法みたい” 。
唯はそう言ったけれど、翔太もその感覚はよく覚えがある。いつだって久蓮は、魔法みたいに、翔太たちにいろいろな景色を見せてくれている。唯が見たのは、一体どんな魔法、だったのだろうか。
「だからさ、桃谷くん。篠崎くんをお願いね」
「もちろんです! ……でも、たぶんそれは、――おれの役目じゃない」
――――これが、唯ちゃん先輩が、この合宿に参加した理由、なんだ。
久蓮を心配して、そして久蓮が、心のままに走れるように――。
唯は、静かに言葉を紡いだ。唯の言葉に間を開けずに頷いて、けれどもすぐに、否定した。久蓮を支えるのは、範昭や昴。蒼は共に競り合って上を目指し――。そんな翔太に、知ってる、と言って、唯は笑った。
「でも、いいの。キミに頼みたいから。あの子たちは、もちろん、篠崎くんを支えようとするだろうけど。それでも、キミも要る」
そんなに買ってもらえるほどに、今の自分に何かがあるだろうか? 翔太は心の中で首を傾げた。
そう言ってから彼女は苦笑して呟いた。
「これじゃ、私……篠崎くんのコトしか考えてないじゃんね」
自分を責めるような響きは一瞬で。それに翔太が反論しようと口を開くころには、彼女はもうすっかり元の様子に戻っていた。
「ま、いっか。テニスプレイヤーやってたら、多かれ少なかれ性格悪いものだもん。私は自分のエゴのままに、ね」
「唯ちゃん先輩は、いいひとだよ」
「……。ホラ、キミのそゆとこ。……それでいいの」
唯の言おうとしていることは、よくわからなかった。ただ、明るく吹っ切れたような声色に、翔太はなんだか安心した。その方が、唯には似合っている。
それにしても。翔太よりもよほど、久蓮のことを知っているであろう、唯。その彼女がこんなに心配するほどの何かが、久蓮にはあるということなのだろうか。翔太の側からは、あえて踏み込まないほうがいいと感じたあの時の違和が、その何か、なのだろうか?
けれど、そのままでいいのだと。そう言って頭を撫でた、唯に。翔太はこのままに突き進むことを決めた。そんな翔太を、唯はただ静かに笑んで見守っていた。




