15.見据えた目標(天恵7年6月上旬)
木々に緑が生い茂り、極北の短い初夏が始まった。
あの"特別メニュー" があった、その週末。はっとするほどに、からりと晴れた空の下。いつもの通り集合を終え、メニューを始める、その前のことだった。
皆がアップをし終わり、集まってきたそのタイミングにて、ひどくしかめっ面をした久蓮が、真平の名前を呼んだ。びくりと肩を揺らした真平が、怯えるように久蓮を見る。
「お前。今日は、帰れ」
「嫌です」
声色はいつも通り。けれども、いつもより強い久蓮の言葉を、真平が即座に拒否した。それは、久蓮のことを信頼している真平の、とても珍しい反応だった。
真平の珍しい反応に気を取られて、聞き流しそうになった、不穏な単語。ほんの少しだけ、声を低くした久蓮の雰囲気に、こちらまでびくりとしてしまう。
「脚。痛むんだろ? 直ぐに病院行ってきな」
「嫌です」
「……真平」
「なんとも、ありません。走れます」
「それは、脚庇うのをやめてから言いな。……お前、隠れて練習してたろ」
怪我。真平が? そんな素振り、まったく気づかなかったのに。眉を下げながら告げられる久蓮の言葉は衝撃で翔太は言葉を発することもできなかった。
場に流れるのは、不穏な空気だ。俯いて表情の窺えない真平は、けれども口を開いた。
「……のに?」
「え?」
「四年前、あなたは走ったのに?」
俯いて、小さく呟いたその声は、ひどく掠れていた。
久蓮が、目を見開いて、一瞬動きが止まった。久蓮の周りから、静かに空気が冷えていく気配がする。見守る誰一人、動けない中、真平が悲痛に続けた。
「蒼と昴さんがいるから、もうボクはいらないの?!」
静かに、二人の視線が、絡んだ。
「お前がそう思うなら、――そうかもな」
「久蓮!?」
冷たい冷たい、久蓮の返し。すとんと落ちた久蓮の無表情が、恐ろしい。凍りついたこの場に、悲鳴のような範昭の声が響いた。固まった空気のなか、溜息混じりに久蓮が言葉を続けている。その声色は――。
――――怒ってる……? いや、違う。これは――。
「お前、何の為に、ここまでのしあがってきたのさ。予選会の先に、何もないとでも?」
今度目を見開いたのは、真平の方だった。ぱくぱくと開け閉めされる口からは、しかし、何も音は零れなかった。
「それくらいにしましょう、主将」
柔らかい、昴の声が、割って入った。それと同時に、久蓮の硬い空気がかき消えた。翔太は、無意識に詰めていた息を吐く。
「僕は今から病院なのですが……真平さん、ご一緒してもいいですか?」
「……すみませんでした」
穏やかな昴の言葉に、真平が無言のまま頷いた。そして、自身が告げた言葉に心底後悔している――そんな表情で、久蓮へと謝罪ひとつ、真平は昴と一緒に帰っていった。
「――ありゃ? わい等、タイミング悪かった?」
凍り付いた空気を壊すように、のほほんとした声が響く。場の空気にそぐわない、緩い声。突然の、聞き覚えのある声は――。
――――みゃーちゃんさんだ!
確信をもって振り返ると、そこには二人の極教大生が立っていた。
*
敵情視察、なんて言って、極大の練習に参加した宮田兄弟――悠と晃は、蒼と共にAチームで楽しそうに競り合っていた。
――――良い、なあ……楽しそう。
彼らの熱いバトルを遠くに眺めながら、翔太は自分がなんだかとても焦っていることに気が付いた。蒼の瞳に、久蓮と走ったときのような焔が煌めいていたから。
「よ、久しぶりやな。桃谷クン」
「……みゃーちゃんさん」
練習後、芝生に寝っ転がって何かを話している蒼と晃を見つめていた翔太に、悠がにこにこと声をかけてきた。
「頑張っとる?」
「はい! ……でも、」
「"このままじゃ、如月クンに置いてかれちゃう" ――やんな?」
「――!!」
まさに今思っていたことを言い当てられて、翔太は目を見開いた。
「こればっかりは、やるしかないでー。毎日の練習を無駄にしぃひんように、ギリギリを攻めてな」
柔らかく苦笑する悠のその言葉を、ゆっくりと噛み締める。
「チャレンジや、桃谷クン。何事もな」
「……チャレンジ」
いまのままではダメなのだと。そう言われているような気がした。
*
翌日。昨日、あんなにきれいに晴れていたのがウソのように、暗い曇が空を覆っている、日曜日の今日。それはまるで、今の雰囲気そのままだと、翔太は思った。
全員が集まっての、練習始めの集合。顔色の悪い真平と、笑みを浮かべていない、久蓮の表情。
「疲労骨折、全治二ヶ月半」
そう告げる久蓮の口調は重い。真平が悔しそうに顔を歪めながら俯いている。その拳は、強く握りしめられて――。
皆がざわついている。
――――しんぺー先輩が、駅伝に出られない……!?
あんなに速いのに。翔太は、その事実に固まった。怪我。サッカーをやっていた頃も、周りのチームメイトやライバル達が、怪我で欠場なんてことはよくあった。自分も、怪我で試合に出られず悔しい思いをしたことだってある。
翔太たちが入部して、初めてのミーティング。そこで涙を流していた彼を想う。久蓮が走る――久蓮と走れることを、あんなにも喜んでいたのだ。悔しくないはずがない。
思わず真平に声をかけようとして数歩あゆみ寄り、そしてはたと立ち止まった。一体、自分はなんと声をかけるつもりだったのだろう。"大丈夫ですよ。あなたの分も、おれたちが頑張ります"――?
――――バカにしてる。かける言葉なんて、思いつけない。……それに。今、しんぺー先輩が欲しいのは、きっと久蓮さんの言葉だけだ。
だから。今の翔太にできることは、ただ一つ。速くなることだ。一秒でも速く。怪我をした真平が――自分を責めることがないように。
翔太は拳を握り締め、気合いを入れた。
――――やってやる……!




