13.特別メニュー(天恵7年6月上旬)
あの記録会から三日後。今日は、部内を凍り付かせた、昴と範昭の喧嘩の翌日だ。
とはいえ、翔太は、あまり心配していなかった。だって。二人ともが、久蓮が心配だという感情を、ありありと示していたから。だから翔太は、皆が皆、上級生たちの様子を不安そうにうかがっているのをよそに、今日の練習について考えていた。
特別メニュー。そんな、わくわくする響きが、今日の練習だ。集合が終わって、久蓮と並んでアップをしながらも、翔太はわくわくする心を抑えきれないでいた。トラックでは、他の皆が必死に競り合っている。そう、今日の練習は翔太のための特別メニュー、なのだ。
――――なんか、贅沢だよねー。
「いいかい、モモ。キミは、基本オレに着いて走れば良い。ただし、離されるな。勿論、ラストはオレを刺す気でいい」
それまで静かに隣を走っていた久蓮が、ぽつりと話し始めた。穏やかなその声に、翔太は静かに聞き入った。久蓮が告げたその言葉にしっかりと頷いて、翔太はしっかりと前を見据えた。
*
メニューが終わり、皆が集まった、トラック。そのスタート地点。ついに翔太の練習が始まる。蒼にストップウォッチを渡しながら、久蓮が皆にメニューの説明をしている。千メートルのレペを、二本。少なくすら感じるそれが、今日のメニュー。けれど、きっと、何かが起こるのだ。
ぽん、と、肩に手が置かれる。
「二本それぞれの感覚をよく覚えて、考えること。それがお前の役目な」
「はい」
「じゃ、皆は楽にしててくれ」
――――がんばるぞ!
そんな言葉と共に、久蓮に続いてスタートラインへと進む。翔太は決意と共に、息を大きく吸い込んだ。
「モモ、ぶっ飛ばすぞ。短距離走るつもりで着いてこい」
――――え?
蒼がスタートの合図を出す少し前。ぽつりと小さく呟いた、久蓮の声が耳に届いた。その言葉の意味が頭にしみこんでくるのと同時に、スタートの合図が出された。ぶっ飛ばす。そう言われて、覚悟と共に地面を蹴った。――その、筈だった。
驚きに目を見開いたその一瞬で、久蓮の姿は五歩は先に行ってしまっていた。
――――おれだって、本気で走りだしたはずなのに。
翔太は、千メートルという距離を忘れて、全力で着いていくことに決めた。久蓮も、そう言っていたことだ。もとより迷いはない。それは、"短距離走" だった。ただ、必死に久蓮を追いかける。
久蓮はといえば、追い付いた翔太をちらりと見やると、口角を上げて、こう言った。
「さっすがモモ。おいで」
ぞくり。身体に電流が走ったようだった。
その瞳に射抜かれて、久蓮に、並走する。その走りは、あの日、研究室でみた、あの動画の中の彼そのものだった。アグレッシブな走り。それは、まさにこの人のためにこそある表現だ。
「――四十五、四十六、四十七――」
蒼の読み上げるタイムのカウントが、風に千切れるように掠れて耳に届いた。そして、その勢いのまま、二周目に突入する。
――――楽しい……!
これが、彼らの見ていた世界なのだろうか。そんなことを考えながら、走る。ただ、目の前の天才を追って。
――――けど、これが、久蓮さんが教えたかったこと……?
「あ、れ……?」
ふと首を傾げた、そのとき。突然、身体が動かなくなった。がくり。そんな音が聞こえそうなほど、突然。腕が振れなくなり、脚が重くなった。
――――え、あれ……!? しんどいしんどい……っ!
久蓮の姿が、あっという間に小さくなっていく。
――――いやだ……! おいていかれたくない……!
久蓮が走りながら、ちらりと後ろを確認した。
「っモモ!! ……走れ!!」
自分だって、あんなに速く走っているのに。久蓮は翔太に檄を飛ばしてきた。動かない身体を必死に動かし、もがくように、翔太はゴールラインを割った。
「――三分四秒!」
声が遠い。がくりとゴール脇に倒れ込んだ。
「蒼、昴サン、乳酸抜いてやって。復活したら、二本目な」
「はい」
「任せろ」
久蓮が、そんな指示を出しているのをぼんやりと聞きながら、翔太は考えた。――一体、なにが起こったのだろうか。
*
「それでは、位置について――スタート!」
翔太が復活したのを確認して、二本目が始まった。今度は、あの飛び出しはなく、久蓮は普通に走り始めた。翔太はその後ろについていく。手足は、気持ち悪く軽いけれど、走れないほどではない。
「六十、六十一、六十二、六十三、六十四、六十五――」
六十五秒で、蒼達の横を通りすぎた――そんなことに気付く余裕が、今度はあった。ちらりと、目の前の久蓮を見る。開いた口、首筋を伝い流れる汗は、同じく走るひとのそれだった。
ホームストレートを通過して後残り一周。とん、と、翔太の背に、久蓮の手が触れた。いつの間にか、真横まで下がっていた久蓮を、翔太は反射的に振り返った。彼の、強い瞳が翔太を射抜いた。
「いけ……!」
――――っ!
翔太は弾かれるようにスパートをかけた。ぐん、と身体が動き、瞬間、久蓮の気配さえも後に残して――。
*
「――まだ、いけるっしょ」
「久蓮、さん……!」
後方に消えたはずの気配は、すぐに隣に並んできた。そんな風に翔太を誘った。その声は、挑戦的に。そして、――心底楽しそうに。釣られるように更にスピードを上げて競り合いながら、二人はゴールした。
「――二分四十六秒」
「!? ……?」
タイムを読み上げた蒼の声を聞きながらゴールした翔太は、そのタイムに目を見開いた。
――――今のほうが、速い……?
「な、モモ。結構、違うもんだろ? ――後は、自分で作っていきな。納得できるスタイルを、ね」
いたずら成功、とばかりに。にやりと笑う久蓮は、すっかりいつもの彼だ。あの焦熱の余韻は、ない。その笑顔を見つめながら。翔太はただその場に、縫い留められていた。




