9.しがらみ(天恵7年5月下旬)
往路は、始終青谷学院と早生田の一騎討ちの展開でレースが進んでいた。一位で往路をゴールした青谷。だが、復路、六区の山下りで差をつけられた青谷、襷は大きく遅れを取ったまま九区・昴の手へ。
画面の中で繰り広げられた彼の走りは正直、圧巻だった。特に後半の走りは。翔太には、なぜか、昴が、あの場に居ない誰かと競り合っているような、そんな気がした。それこそ――そんなわけ、ないのだけれど。そして昴が逆転し、十区へ。青谷は首位を守り、完全優勝を果たした。
*
ダイジェストとはいえ、驚くほどあっという間に感じた。それほど、惹き込まれる走りだった。
――――それにしても、"六連昴" のあの走りは。あれは……。
「蒼みたいだなぁ」
「お、モモ、鋭いなー」
翔太の呟きを、自身の画面に向かったままの久蓮が拾う。
「似てるよな。アイツらのアグレッシブな走りは」
アグレッシブ……アグレッシブか。確かにそうだ、あの、力強い走りは。もっと見ていたいと思わせる、それは――。
「ふむ。……もっと似ている人物を、僕は知っているんですがねぇ」
「……」
「六年前のインハイ五千メートル。僕は忘れられないんですよねぇ」
「六年前?」
「もう六年になるんだよな……」
久蓮の言葉に、教授がゆったりと返す。振り仰ぐと、その視線は久蓮に注がれている。黙ったままの久蓮に、教授が、六年、という言葉を続けた。翔太が感じたその数字への疑問は、とても小さな音となった。
次いでぽつりと呟かれた、久蓮の言葉。昨日のことのようだ。口の中で転がすように呟かれたその響きは甘く、宝物を愛でているかのようだった。
「観客が忘れられないのだから、本人たちはどれほどなのでしょう」
「昴サンに聞いてみたら?」
含みのある声で、笑みで。教授はゆったりと続けた。
ちろ。教授の方を流し見た久蓮は、すぐに視線を画面に戻して言う。その言葉に、教授は眉を下げた。
「彼、最近見ないんですよね。何処のチームに入ったのでしょう……」
「居ますよ、そこに」
「え?!」
天井を指しながら言う久蓮に、その意味を理解したのであろう教授は目を見開いた。久蓮は無言で頷く。
「ええっ!?」
「――!!」
更に驚く教授に負けず、翔太は声を失った。
――――そうか、この、六連昴が。あの、六連昴なのか……!
みんなが驚いていたのは、こういうことかと、今更ながらに納得した。だって、この彼が、あの彼だとは、すぐには結び付けられない。それくらい、別人だった。
混乱する教授と桃谷を尻目に、終わり、と呟いた久蓮はenterキーを叩いた。
――――あれ、……っていうか。それって、かなり……凄いことじゃないかな?
*
ことり。目の前に置かれたカップから、深煎りのコーヒーのいい匂いが鼻を掠めた。
「悪いね、お待たせモモ」
「突然来ちゃってごめんなさい」
自らの分を片手に席に着いた久蓮が、翔太へ告げる。コーヒーの香りと、久蓮の静かな声で、幾分混乱から脱した翔太は突然の訪問を詫びた。コーヒーに口をつけ一息。久蓮はゆるりと微笑むと、静かに目を伏せて、翔太の切り出しを待っている。
「おれは、蒼は走りたいんだと思うんです」
翔太は、言葉を選びながらゆっくりと話した。考えをまとめながらのそれは、とても辿々しくなってしまったけれど。走りたいから、ここにいる。それなら、走ればいい。それだけのはずなのに、どうして、と。
「ははっ、ほんと、その通りだよ、モモ」
てんでまとまらない語りからも、久蓮はその意図をわかってくれたようだった。お前は正しい、と笑った久蓮の表情には、ある種の諦めが伺えて、翔太はあれ、と思った。
「けどな、しがらみってのは多いものさ。蒼みたいな才能の有る奴なら尚更な」
――――し……がらみ?
久蓮の言うことは、時々とても難しい。桃谷がそう思っていることを察したのであろう、久蓮は薄く苦笑した。そしてほんの少しの間思案した久蓮は、翔太の目を覗き込んで言葉を続けた。
「難しかったか? そうだなぁ――モモはフォワードだったろ? ゴールを決めたい。当然、相手ディフェンスは邪魔するよな」
こくり、と。首肯する。
「正当に守備する奴もいれば、ユニフォームを掴んで倒してでも止める奴もいる。同じだよ。そういう奴は存外居るものさ。敵でも――チームメイトでもな」
――――そういう、こと……。
「蒼はそんな環境に嫌気がさして、走り止めるために極北へ来たんだろう」
「それじゃ」
――――引き込んだのは、悪いことだった……?
「それは違うね。きっかけは何であれ、結局のところ、蒼は自分で選んでここにいるのさ」
マイナスに沈みかけた翔太の思考を、即座に打ち消す久蓮。だから、モモは間違っていない、と。言う彼の瞳に嘘はなかった。自信を持てと、柔らかく笑う。
「それと、支えてやって」
久蓮のその言葉に、一も二もなく、翔太は頷いた。当然だ。仲間なんだから。その反応に、久蓮は優しく微笑んだ。
「……久蓮さんも、蒼と同じ……?」
「オレ?」
ぽつりと。零れた疑問は、無意識のものだった。ただ、なんとなく、そんな気がして――。その言葉に、久蓮は僅かに目を見開いた。
「オレは、違うね。オレはチームメイトには恵まれてたから。……オレには勿体無いくらいだ、今もね」
「久蓮さん……」
愛おしさ溢れる。そんな表情をされたら。羨ましいと思ってしまうじゃないか。自分も、久蓮の、そんな存在になりたい、――なんて。
「それにオレは――」
複雑に絡まった久蓮の、その感情はマイナスで。それがなんだかわからないけれど、そんな顔をしてはほしくないと、翔太は思った。言葉を続ける久蓮の表情には、隠しきれない悲壮が浮かんでいて、翔太は瞠目する。
そのセリフは、そのあと見せてもらった、六年前のレースと共に翔太の脳裏に焼き付いて消えなかった。
――――"オレは……走り続けるためにこそ、極北へ来たのさ"。




