8.ただ、それだけ(天恵7年5月中旬)
――――走ればいいじゃん。難しいこと考えずにさあ。
物事を難しく考えるのは苦手だ。でも、だからこそ。それが翔太の、嘘偽りのない想いだ。
翔太にとって、走るというのは、ボールを追いかけるための手段に過ぎなかった。――あの日までは。小雪舞うあの春の日、初めて久蓮の走りを目にしたあの日。その日沸き上がった、その思い。それは――。
――――純粋に、"走りたい、彼のように" 。
それが全てだった。衝動のままに、彼を追いかけた。そして、あの時、反対がわの歩道にいた蒼の手を掴んだのは、彼もまた、瞳を輝かせてあの走りを見ていたからだ。そして、なにかから、助けてくれと言わんばかりに、彼――久蓮に手を伸ばしている、ように見えたからだ。衝動だった。けれど、翔太は確信していた。蒼は自分達の仲間になると。
だからこそ、翔太にはよく分からなかった。どうして、蒼が頑なに走ることを拒むのか。昨日のインカレだってそうだ。……それを言ったら、怒られたけど。あの時間近で見た蒼の瞳は、揺れていた。本当は、走りたいと。
「走ればいいと、おもうんだけどなあ」
ぽつり、呟いた言葉は学生食堂の喧騒に消える。
だって、翔太は思うのだ。蒼は久蓮側の人間だと。彼等は、ランナーの多くが望み、追い求めて、そして辿り着けない世界の内側に、既に立っているのだから。もし自分なら、逃すはずがない。
「あー……、……うーん」
考えが煮詰まってきたのを感じて、翔太は頭を抱えた。先程から奇行を繰り返す自分を、友人達が生暖かく見ているのを感じる。
――――こういうときは、あの人だ。あの、全てを見通すような瞳をした、あの人。あの日から彼が、翔太の北極星なのだから。
思い立ったが吉日、とばかりに、翔太は席を立って走り出した。驚く友人達に謝りながら。
*
十分後。理学部のとある研究室の前に、翔太はいた。広大な極北大の敷地にブツブツと文句をこぼしながらも、目的のひとを探す。
「大学が広いってのも、良いことばっかじゃないな……」
「あれ、君、この階のコじゃないよね? うちの先生に用事かな?」
「あ、えっと。久蓮、さんに……」
――――うわあ、きれいな人だあ。
しばらく廊下をうろうろしていたところで、白衣の女学生にそう声をかけられた。翔太は女性に見とれながらも、返事をする。
「久蓮……篠崎くん?」
「そうです!」
「OK。ちょっと待ってね」
女性の口から告げられた目的の人物の名前に、翔太は食い気味に返事をした。そんな翔太の様子に女性は笑うと、部屋へと入っていった。
「篠崎くん、ちょっと今手が離せなくて。もうすぐ終わるって言うから、中で待っててくれる?」
少しして戻ってきた女性は、そう言って翔太を部屋の中へと招き入れた。お礼を言って彼女に続く。
中は想像していた実験室ではなく、デスクにパソコンのある普通の部屋だった。院生部屋、というらしい。久蓮はその一番奥で、ヘッドフォンを首から下げながら、パソコンに向かっていた。タイピングの速度がとてもふつうではない。しかも、意味の解らない文字が、その画面には並んでいる。なんだか、怖い。
「声掛けても大丈夫だよ」
「えっ、でも……」
「大丈夫大丈夫。この子頭おかしいから」
「唯ちゃん先輩ひどっ」
とても忙しそうな久蓮の様子に、声をかけられずにいると、女性はさらりと告げる。それでも翔太が迷っていると、彼女はまた笑った。
さらりと吐かれた台詞は、なんだか結構酷いことを言っている気がする。案の定、その言葉に、画面から視線を外さないまま、久蓮が文句を言った。タイピングのペースは依然、異常だ。
「よお、モモ。お前だったとはね。ということは、蒼のことか?」
そして、翔太に声をかけてきた。予想外だ、と驚いてみせる久蓮だが、その実翔太の用件をかんたんに言い当てた。返事をうかがうように、ちらりとこちらへ視線をよこした久蓮に、翔太は無言のままに頷いて見せる。
「となると……ちょっと待ってな? この時間からここへ来たってことは、時間は有るだろ? 悪いけど、これ見ながらちょっと待ってて」
数瞬考えた後に久蓮は、デスクトップを軽く操作すると、久蓮はそれをこちらへ向けた。そしてまた、今まで弄っていたノートパソコンへと意識を戻した。開かれているのは、YouTubeだ。
「なんですか?」
「今年の箱根ダイジェスト。お前、六連昴知らなかっただろ? それに映ってるから。青谷九区な」
――――六連、昴……昴さん!
六連昴――それは、昨日、一万メートルの応援をしているときに、ベンチにとつぜん現れた、"新入部員" だった。とても落ち着いた柔らかい雰囲気のその青年は"極北大学大学院生命科学院一年、六連昴" と名乗った。その瞬間に巻き起こった騒ぎの意味を、翔太はよくわからなかった。
ただ、"昴"の佇まいは、彼が只者ではないのだということを、翔太に伝えてはいたけれど。
――――心強い味方、いいことだよ!…ね?
あのとき、なぜか一人苦い顔をしながら昴を見つめる久蓮の、その表情に首をかしげたことは、強く印象に残っている。
「私も見たーい」
「どれ、僕にも見せてください」
「教授まで……どうぞ」
久蓮の言葉に"唯ちゃん先輩" と教授が乗っかって、プチ鑑賞会が始まった。




