第8話
軽く昼を済ませてからフィリップは訓練室に向かった。
訓練室に着くと、滝のような汗を流している女性が立っていた。フィリップは彼女の名前を呼ぶ。
「モーガン」
「…………」
特殊訓練室で相変わらず鍛錬に打ち込んでいるのはベルだった。
たった一人で体を動かして、型を確認して。彼女の必死さは凄まじいものだった。
「そろそろ昼にした方がいいんじゃないかい?」
まだ昼は済ませていないだろうと思いフィリップが提案すると、ベルは首を小さく二度横に振った。
「まだだよ……」
「キミはストイックだよね。ボクはキミのそういうところ、嫌いじゃない」
彼女の訓練を眺めながら告げて、フィリップは彼女の前に立った。
「邪魔なんだけど」
鍛錬の手を止めて汗を拭いながら目の前に立ったフィリップにそう言う。
「一人でやるのも限界があるだろ?」
だから付き合ってあげるよ、と言ってフィリップは構えを取った。
「そうかい」
副団長が関わりさえしなければベルという女性は基本的にマトモな部類だ。理性的な話ができないわけではない。
これは魅力的な誘いであったはずだ。
「でも、いらないよ」
ただ、ベルはフィリップの誘いを断った。
「どうして」
フィリップとしても対戦形式での訓練を行った方が身につくものも多いと思っていた為か、疑問が多く浮かび上がる。
「アンタには本気で強くなりたいって意思を感じないんだよ」
興味がないと言うように、ベルは視線を逸らした。
フィリップは握り拳を力強く握り締める。
「……それは違うだろ。それに、キミは強くなりたいんじゃなくて、副団長に置いていかれたくないだけだ」
そして彼はへらりと笑うと拳を緩め、指摘した。
オスカーに対する執着心が理性を振り切っている。
だから、他の者の努力も認められず、言葉も聞けなくて強くなる事が出来ていないという事をフィリップはよく理解していた。
「アンタ……!」
図星だった。
確かにオスカーに置いて行かれたくはない。それでも本気で強くなりたいとも思っていた。そのはずだった。
「本気で強くなりたいんだったら、エマのように相手の言う事を聞く事も覚えるんだね。彼女は貪欲だ」
ベルの頭の中に先日、自分を打ち負かした少女の顔が過ぎる。あの時は油断しただけだ。今、戦えば違う結果になる。
「誰かの言葉を聞く事もできないならキミはいつまでもそこで足踏みを続ける。それにキミは新入りのアガターにも負けたんだ」
「アンタが止めなければ!」
「負けてたよ、キミは」
フィリップが止めていなかったとしてもベルにはアリエルに勝つことはできなかったはずだ。
「強くなりたいなら、置いて行かれたくないなら現実を受け止めろよモーガンッ!」
何かが爆発したような感覚がした。
「フィリィィイイップ!!!!」
暴走列車が走り出した。
ベルに燃料を投下したのは紛れもなくフィリップだ。
こうなる事もわかっていたのに。それでもフィリップがこんな事をしたのは、自分を本気ではないと言われたからだった。
殴ろうと迫るベルを見て、フィリップは即座に反応する。
迫り来る右拳。
その先を見る。
狙いは顔、紙一重で避けてカウンターで肩を殴り抜く。
「ぐっ……」
呻き声を上げるが、ベルの勢いは止まらない。直ぐに態勢を戻して、左拳を放つ。
最小の動きでしゃがむ様にして避けると伸びた左腕の肘部分に掌底を放つ。
「っ」
ベルの左腕が止まる。
フィリップの掌底による肘への衝撃がベルの左腕の可動を遅らせる。
一瞬の遅れが、全体の遅れへとつながる。
隙だらけの胴体。
迷いなくフィリップは拳をベルの腹に叩き込んだ。
「ぐぁっ……」
胃の中が逆流する様な感覚。
思わずベルは腹を抑えて蹲る。
「げほっ、げほっ」
むせるベルの姿を無感動にフィリップは見下ろしていた。
「これで分かったろ」
事実が突きつけられる。
どこまでも冷たく、淡白な物言いだった。この現実がベルには受け止められない。認められない。
自分の努力がフィリップに劣っているとは彼女には思えなかった。
男女の性差が体力的な差を作り出しているのか。いや、そんなものは関係ない。彼と彼女では、そんな言い訳も出来ないほどの技術的な差があった。
それでも、ベルの頭には言い訳も湧いてくることがなく、真っ白になっていた。
過ったのは。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
自分を見て、失望した様な顔を浮かべたオスカーの姿だ。
鮮明にオスカーの顔が浮かんで、彼が「失望した」と吐き捨てた。
見捨てないでくれ、と願ってベルは立ち上がる。
背中を見せた今のフィリップになら。
仲間に向ける様な感情とは言い難い、どす黒く暗いモノを抱いて彼女は走り出して、力強く右手を振りかぶった。
けれど右手が届くことはなかった。
「あの」
止められたからだ。
「何しようとしてるんですか?」
金髪の少女に。
「…………」
感情がごちゃごちゃと煩くて仕方がない。
「ああ……」
目の前に立っている少女は力強く、最初に会った時と同じ様に手首を握っている。
「アンタには関係ない」
冷静になったのかベルが言い放つとアリエルの手を振り払う。アリエルの手が緩んだのも、ベルが理性を取り戻したように見えたからだ。
「悪かったよ、モーガン」
彼の謝罪の言葉もベルにとってはどうでも良かった。ただ彼の謝罪を聞き流して彼女は訓練所を後にする。
「何があったの?」
この場にいたのはアリエルだけではなかった。エマ、アーノルド、クリストファーもいたのだ。
エマの質問にフィリップが誤魔化す様に笑いながら答える。
「別に何でもないさ。単なる意見の行き違いだよ」
フィリップの答えにアーノルドとクリストファーが仕方ないなと言いたげに笑った。
仕方ない。
フィリップはこういう奴なのだから。意見の行き違いも少なくない。ベルが相手であれば尚更に。
フィリップという男に対する信頼はそれなりの物があって、彼が何でもないと言ったのなら、きっと本当に何でもない事なのだろう。
ただ、『牙』に入隊して日の浅いアリエルだけは、どこか納得がいっていない様な顔をしていた。
ベル・モーガンという女性にとってはオスカー・ハワードは好意を寄せるに足る人間であった。
通り過ぎていく人の中、感情が壊れてしまいそうになるほどの暴力と人種差別的発言に晒されて、全ての人が嫌いになってしまいそうな中で差し込んだ一筋の光だった。
汚れることなど彼には関係なかったのだろうか。
ベル・モーガンは少しの不安を感じながらも彼の手を握った。
「ベルさん!」
何故、誰も彼女のそばに居ないのか。
誰かが居てやることが出来たのではないか。あの場にいた全ての者が、フィリップを見て、どうしてベルという、たった一人の女性を見ないのか。
そんな疑問がアリエルを突き動かしていた。
廊下を歩く、自分よりも大きな背中の女性をアリエルは早足で追いかけて、名前を呼ぶ。
「何だい?」
何とも興味なさげな顔をして彼女は振り向いた。
声をかけた後、何をしようか、何を話そうか決めていなかったアリエルはワタワタと手を動かして提案を一つ。
「ご、ご飯とかどうですか?」
吃りながら、顔色を窺いながら吐き出した。
ご飯の提案をしたが、アリエルはつい先ほどに昼食を取ったばかりで、余り空腹を感じてはいなかった。
ただ、アリエルはベルという女性のことを知りたかった。
彼女のことを知らなければ納得がいかない。
「何でアンタとアタシが……」
先程の失態からか、不機嫌ではあるものの勢いと言う物が失われている。
「単純に私がそうしたいだけです」
「気を使わなくて良いから。……気持ち悪い。それに、アタシは嫌われるのには慣れてるから」
嫌われることに慣れていると、自分で言っていて、つくづく嫌な人生を送っていたモノだ。などと思って、ベルは溜息を吐いた。
「気を使うって……。だって寂しくないんですか?」
「寂しい……? 何が?」
ベルには自覚がない。
いつ寂しそうに見せたのか。
「私には、ベルさん、気を使いすぎてるように見えるんですよ」
気を使う。
何のことやら。自分勝手に振る舞っているという自覚は有るが、誰かに対し気を使った覚えなどない。
「だって、誰にも頼ろうとしてないじゃないですか」
気を使うなと言って、気を使う。
相手に気にするなと、自分のことは良いのだと言って鬱屈とした物が溜まっていく。
先程の様子を見て、アリエルにはそれがなんとなく伝わった。彼女は人に頼ることが出来ない。
「…………アンタには関係ないよ」
「なら、私もベルさんの事情関係ないですね」
子供の様な屁理屈を捏ねて、アリエルはベルの手を握った。その暖かさが、優しさが、どうしてか涙を誘った。
目尻から意図しなかった雫が頬を伝って垂れ落ちる。
「ほら、ご飯食べましょうよ」
無邪気な笑顔がベルの瞳に映った。
「ーーアタシは、まだアンタの事、認めてないからね」
ベルは小さく呟きながらも、少しばかり微笑みを顔に浮かべて歩き出した。