九月 なぜ・・・
九月
遥と夢で再会できたことを、貴之は有希子に話した。すると、『よかったね』の一言で済まされた。確かに良かったのだが、単に僕の意識の中にある遥を作り上げているものではない。本当に遥の精神が現れたのだ。と言っても、信じてもらえないだろうと踏んで、あえてそれ以上貴之は夢のことについて話はしなかった。
お墓の前にあった手帳の話を、貴之は有希子にしてみた。お盆に二人でお墓参りをしたときには、なかった手帳が出てきたことを。すると、『よかったね』の一言で済まされた。確かに良かったのだが、一二年越しの想いが通じたことが何よりうれしかったことを話したかったが、よくよく考えれば付き合っている女性の前で話すことではないと踏んで、あえてそれ以上貴之は遥の手帳の中身について話はしなかった。
有希子と再会するのは、室別の駅で別れて以来だ。実に三週間ぶりの再会であったが、なんとなく、有希子の様子がおかしい。一緒にいても、どことなく元気がないように受け取ってしまう自分がいる。
遥の話をしたときに、『いい話だから』と涙した有希子であったが、遥が夢に出てきたことや遺言のような手帳が見つかったことについて、どうでもいいような態度を取るようなことは、どこかおかしい。
有希子はそんな冷たい態度はとらないはずだ。
これが俗に言う倦怠感か?
それにしては来るのが早すぎではないか?
まだ二ヵ月しか付き合っていないというのに。
気のせいか、有希子がやつれていき、顔色も段々と青白くなってきている。会社で相当やられているのか。例のお局様の嫌がらせがエスカレートしてきているのか。
会えない時はメッセージアプリで連絡を頻繁とまではいかないが、通勤途中や寝る前の時間に連絡していた。繋がっているとわかることで、お互いのメンタルは何とか保たれていた。本来なら、ずっと有希子と連絡を取っていたかったが、会社が僕を手放さない。平日に自分の時間がない日々が、いまだに続いている。
だが、メッセージアプリの文字だけでは、有希子の本心は読み取れない。メッセージの内容はこれまてほぼ同様な内容であるが、『楽しいことがあった』と書かれても、表情は悲しげになっていることだってある。
二〇日
九月の中盤になったときである。二人はいつものように、ホテルラウンジでデートをしていた。この日は、東京駅にほど近い外資系の高級ホテルで待ち合わせをした。貴之が先に待っていると、有希子が待ち合わせ時間通りにやってきた。この日も、ラウンジで話をした後、本屋にでも行く流れかなと貴之が思っていた時だ。
「実はね・・・私、実家に戻ることにしたの」
唐突な有希子の言葉に、思考回路が回らない貴之。実家に戻るとは、二,三日くらいの帰省のことだろうか。
だが、その表情を見る限り、単に帰省するのとはわけが違うように思えた。一体何があったのか。頭の中であらゆる疑問が出てきたため、ひとつひとつ確認をしていった。
「実家に帰るってことは、会社を辞めるってこと?」
「・・・そうなるわね。というより、もうやめてきたわ」
「えぇ!!?」
静粛な雰囲気のラウンジの中、ひとり雄たけびのような驚きの声を上げる貴之。何かしらの婦人会の集まりであろう数人が貴之の方を見ていたが、やがて何事もなかったかのように、おしゃべりをまた楽しみ始めた。
きっと有希子は今の会社に勤めることが限界だったのだろう。寿退社という手もあるが、会社を辞める理由で結婚を取る選択肢には、有希子には許せないのだろう。それに、会社から逃げるために寿退社をした女性は、結婚生活も上手くいかないことが多いらしい。現実逃避癖が強いから、結婚生活が嫌になると放り出してしまうのだ。
いや、そんな世間の評論家気取りのコメントを真に受けている場合じゃない。
貴之は重大なことに気が付ついた。
「実家の札幌に戻るってことは、もうこれまで通りに会えないってこと?」
有希子は黙ってうなずいた。どうやら、もう貴之と頻繁には会わないと、有希子は覚悟を決めていたようだ。
東京と札幌。つまりは遠距離恋愛になるということを貴之は覚悟した。だが・・・
「だから、貴之・・・私と別れてほしいの」
貴之は頭をハンマーで殴られる衝撃を感じた。
有希子が発した言葉を理解するのに時間がかかった。頭の整理が追い付かなかったのだ。もしくは、言葉の意味は理解できたが、頑なに否定したかったのか。
数十秒して、貴之は状況を理解した。別れるって、一体何があったんだと、まだ混乱する頭の中で、有希子に理由を聞こうとした。
「それは、僕がつまらない男だったから?」
貴之は、これまで付き合ってきた彼女二人に別れの理由を、『つまらない男』として突きつけられた過去があった。まさか、有希子にも同じ理由なのかと不安になった。まるで、死刑判決を言い渡される心境だ。
「違うわ。決して貴之が悪いわけではない。悪いのは、私の方なの。情けないけど、私は会社に負けてしまったわ。もう、東京での生活はできない。だけど、東京を離れることは、貴之と別れることになる。私には選択の余地はなかった。別れるしか残されていなかった」
うつむく貴之の目に、雫がぽたりぽたりと落ちてきたのが見えた。雨漏りではない。有希子が泣いているのだ。またひとつふたつと、雫が落ちていく。
「貴之、今まで楽しかったけど、もう会うことはないね・・・
さようなら」
有希子は、うつむいたまま席を立った。あまりに突然の別れ話だったため、貴之は、まだ頭の中が整理できない。
「ちょっとまって、有希子。そ、それなら、僕と一緒にいればいいじゃないか。そうさ。結婚して、家庭を築けばいいだけじゃないか。それを、相談もなしに僕のもとを去ろうだなんて、あまりにひどいよ」
徐々に声が大きくなる貴之。ちょうどピアノの生演奏が始まり、貴之の声は周りには聞こえなかった。
「結婚ね・・・その案もあったけど、今のままだとだめだわ。二人とも、とてもまともに生活なんかできないわ。お互い会社に対して嫌気がある。もし何かの拍子で貴之が会社を辞めたら、どうやって生活をしていけばいいの。まして、子供ができたらもう後には引けない。手遅れになる前に関係を終わらせることの方がいいわ」
有希子はやや不安な表情で、高鳴る左胸を押さえていた。
やがて、有希子はテーブルに飲食代として、五千円札をテーブルに置いて、席を立った。
「さようなら、貴之・・・」
貴之は有希子を追いかけようとした。だが、足が鉛のように重たく、動く気力がない。血の気も徐々に引いていき、有希子を制止するための声も出せなかった。貴之はその場で動くことができなく なり、座りつくしていた。
別れ話をされて、感情を露にすることがないのは、男の特徴だろうか、貴之は涙は見せなかった。
腹立たしい?
いや、それも違う。やけに第三者の目線に立っている自分がいる。
なぜここまで冷静になれているのだろうか。
それは、有希子の本心ではないことを見抜いていたためだ。
「有希子は、嘘をついている。本心では別れたくはないはずだ。何かを隠しているに違いない」
決して勘違いの思考ではない。有希子はうそをつくときに、下唇をよく前歯の奥に引っ込める癖があった。別れ話をされているとき、下唇はずっと前歯の奥にしまい込まれていた。そのため、どこか冷静になっている自分がいた。筋を通さないことは自身の法律が許さないという有希子が、どうしてこうも、筋が通らない別れ話を持ち出したのか。
一体、有希子が嘘をついてまで別れることを望んだ原因は何だ?
何が有希子を苦しめているんだ?
別れ話のほかにも、妙に気になっていることがある。有希子の顔色の悪さ加減だ。その表情はどこかで見たことがある。どこだろうか。心にもやもやが溜まって、解決できないことにいら立ちを見せる。顔色が悪いと言えば、遥が入院していたことを思い出す・・・
「有希子の表情は、遥が入院した時に見た表情だ!」
思い出した。あの時の遥は、前向きなことを言っていたけど、目が笑っていなかった。口元も完全な笑顔ではなかった。無理して笑顔を作っているような気がしていた。それに、何かこう、助けを求めているような。記憶のかすかに残っていた遥の病室での表情を必死に思い出そうとする貴之。
だが、結局のところ全て推測でしかない。一体何が原因で有希子は札幌に戻るのだろうか。そして、遠距離恋愛という選択をせず、なぜ別れを切り出したのだろう。
別れ話をされたことに、絶望で打ちひしがれるよりは、何が有希子に絶望を与えたことが気になっていた。
それは例の会社の人間関係か。
それとも、逃れられない運命からなのだろうか。
有希子が札幌の実家に戻ることがにわかに信じられなかった貴之は、翌日、普段は引きこもっている日曜日にも関わらず、ストーカーのように杉並区にある有希子の寮に押し掛けた。暑中見舞いと称して、有希子から聞き出した住所を、グーグルマップに入力して押し掛けたのだ。
有希子が住んでいた独身寮の入り口にはカギがかけられていた。若い独身女性が集う建物であれば、セキュリティは万全でなければ、入居者は不安でたまらないため、当然のことだろう。
あれこれ悩んだ挙句、インターホンで寮の管理人に有希子を呼び出すようにお願いをすることにした。
「あぁ、倉田さんね。おととい退去したわよ」
そっけないおばさんの声がインターホン越しに聞こえてきた。いかにも寮の管理人らしい不愛想な雰囲気だ。きっと、白髪染めをした茶髪にパーマをかけるためのカールを巻いて、エプロンとスリッパがセットで、ブルドックみたいな表情のややメタボがかった六〇代中ごろのようなおばさんなのだろうと、貴之は無礼な想像した。
管理人の答えは、有希子はすでに退去してしまったとのことだ。個人のプライバシーを簡単に教えていいものか、聞いているこっちが不安になる貴之である。
だが、本当に有希子は札幌に戻ってしまったのだ。おとといと言えば、ラウンジで有希子から別れ話を切り出された時よりも前の日だ。ひょっとしたら、僕と会った後すぐに羽田空港に向かったのだろうか?
いずれにせよ、有希子が札幌に戻ってしまった事実に変わりがないことがわかった。これ以上ここにいても、怪しまれるだけだ。がっくりとうなだれて帰ろうとしたとき、帰宅した寮の住人とすれ違った。有希子と同じ年くらいの女性だ。
貴之はふと、立ち止まる。それは、この女性を見たことがあったのだ。
慌てて、この女性に声をかけた。
「あ、あの、すみません。あなたは、倉田有希子さんの同僚の方ですよね?『マスイ』さんという名前でよろしいですよね」
えっ、という表情で貴之の方を見る。お互い初対面ではあったが、貴之は、この女性を有希子が写っている写真から知っていた。有希子が見せてくれた同期での飲み会で、有希子の隣で腕を組んでいた女性だ。
「あなたは、貴之さんで、いいんですよね。有希子の彼氏の」
「えぇ、そうです。正確に言えば、元カレですが」
どうやら、この女性も有希子の彼氏として、貴之の顔は知っているようだ。有希子が話したのであろう。何となく照れ臭くなる貴之である。
「私は、有希子の同僚の、増井という者です。有希子とは同期入社の関係でよく一緒に話をしてました。彼女とは同じフロアの別の部門で働いています。貴之さんのことは、有希子から常々話は聞いてました。苗字は言ってなかったので、初対面の方に下の名前で呼んで申し訳ありませんが」
名称については、別にかまわない貴之である。だが、これはラッキーだ。有希子の職場の様子が聞けるためだ。真相を探るために、貴之は増井に対して質問をする。
「有希子は突然会社を辞めて実家に帰るって言ったのですが、職場ではどんな様子でしたか?」
「そうですね・・・会社の寮の前では話しずらいので、場所を移しませんか? すぐそばに喫茶店がありますので」
辞職した社員の話を会社の寮の前で話すには、確かに荷が重い。貴之が後ろを振り返ると、街中でよく見かけるコーヒー喫茶特有の青と黄色で『KEY COFFEE』と書かれた看板が目に入った。それに、薄暗かった曇り空がさらに暗くなっていき、いつ雨が降ってもおかしくはなかった。雨に当たるのはごめんだと言わんばかりに、場所を移しましょうと、貴之は言った。
二人は、そのままコーヒーショップに向かった。店内に入ると、増井があたりを見回し、会社の人間がいないことを確認した。外資系のガヤガヤしたカフェというよりは、個人経営のこじんまりとした雰囲気で、赤い絨毯のようなソファー席が五つとカウンターが六席あった。
『いらっしゃいませ』と、五〇歳くらいのダンディな雰囲気のマスターから、ソファー席に案内されお水とメニューが机の上に置かれた。二人ともコーヒーの味など興味はなかったため、メニュー一番上の『当店オリジナル特製ブレンドコーヒー』を注文した後、職場での有希子について話を始めた。
「有希子は職場から強い風当たりを受けていて、人間関係がが良くないと、常々口にしていましたが、それは本当でしょうか?」
「はい。有希子は同性の私から見てもかわいくて、それだけではなくて愛嬌もあって飾らない性格でした。世の中で、外見と中身がこれだけ備わっている人がいるとは、思いもしませんでした。それが、有希子と同じ部署のお局様の機嫌を損ねたのでしょう。来る日も来る日も、嫌がらせの毎日でした。そのお局様は課長代理という役職でしたから、仕事の能力はそこそこあります。その特権を活かして、新入社員という何も仕事を知らないことをいいことに、仕事に対して過度にプレッシャーを与えているようでした」
貴之はおおよそ想像がついていた。なにせ、友人の結婚式の会場先まで嫌がらせの電話をしてくる根性のくさった人間なのだから。
「私は、有希子を助けてあげたかったのですが、有希子は『新入社員のうちは人権がないも同然よ』と言ってめげませんでした。有希子の部署の責任者は、放任主義のタイプのようで、新入社員の教育は、お局様に任せっきりなところがありました。その責任者は男性なので、女性特有のネチネチとした陰湿な態度に気が付かなったのでしょう」
増井の表情が暗くごもっていくのを貴之は見逃さなかった。無理をなさらずに、と声をかけた。
「すみません。あの時の光景がフラッシュバックのようによみがえってきたのでつい・・・それでも有希子は、前を向いて精いっぱい頑張っていました。ところが、ほんの三週間前です。突然会社を辞めたいと言い出したのです。どうして? と聞いてみても、『東京の生活に疲れた』と言って、それ以上は話してくれませんでした。私にはそれがどうしても腑に落ちないんです。確かにお局様の嫌がらせは限度を超えていました。ですが、有希子がそれだけで会社を辞めるとは思えません。まして、貴之さんという彼氏さんがいるにも関わらず、貴之さんを置いて自分だけ実家に戻るような人ではありません」
何かがおかしいと、貴之は感じた。有希子は会社のパワハラに嫌気がさしたから札幌に戻ると言っていた。だが、増井の話では会社が原因で実家に戻るわけではないとのことだ。貴之は、改めて確認をした。
「有希子は、会社が原因で実家に戻るって言ってましたけど、それは増井さんにとっては違うということでいいんですね」
「有希子は、貴之さんには会社が原因で実家に戻ると言ったのですね。勝手な推測かもしれませんが、有希子は退職理由には会社のパワハラとは一切口にせず、一身上の都合と言っていました」
一体何が原因で有希子は会社を辞めたのだろうか。会社ではお局様に八つ当たりされていたのは事実であろうが、それが原因ではないらしい。
となれば、私生活か? 違うとすれば、家庭環境か? さすがに、ここは他人が口出しできる問題ではない。それに、家庭の事情が絡めば、会社ではあまり口外してはいないだろう。
「つまりは、有希子はどうして会社を辞めたか、増井さんにとっても謎なんですね」
「はい。私も彼氏である貴之さんには全てを打ち明けていたのだと思っていましたが、どうやら有希子は本心を誰にも伝えないまま、実家に戻ってしまったようですね」
「有希子が、会社を辞めたのは、いつだったのでしょうか」
「二週間前です」
となれば、有希子と最後に会った昨日の地点では、会社を辞めたことは間違いない。裏は取れた。
「ただ、少し気がかりなことを、今思い出しました。会社を辞めることに関して、当初有希子の所属長は反対の立場でした。もちろん、その所属長は例のお局様のことではありません。ですが、有希子と会議室で話した後には、有希子の意見を尊重する姿勢に変わったのです。昔から頑固者と言われていた所属長が、簡単に意見を翻してしまったのを見ると、なんだかただ事ではないような気がしてきました」
会社には一身上の都合で、僕にはお局様に嫌気がさした。有希子はそう説明したのだと貴之は考えた。だが、話に出てきた所属長には、会社を辞める都合上、有希子は本当のことを話したに違いない。会社を辞めることに断固反対の頑固者が、あっさり了承したらしい。
つまり、お局様の嫌がらせが理由でないのは明らかだ。退社理由が社内の人間なら、断じて退職を許さないだろう。つまり、本当に一身上の都合であるのだ。
だが、貴之にはお局様に対する嫌がらせと言った。嘘をついていることは貴之は見抜いてはいたが。真相を知るのは、話に出てくる所属長だろうが、『部下のプライバシーを守るのが、上司の務めだ』と言わんばかりのタイプであろう。いや、うっかり口を滑らして部下のプライベートを口外したのがバレたことによる、自分の保身の心配をするタイプだろう。
事実、部下のプライベートは口外しないのが上司の鉄則であり、部下のプライベートをベラベラ話すことは、ハラスメントに該当する。
そのため、有希子の退職の真相を知ることは、貴之には出来なかった。打つ手はなかった。だが、有希子が本当に実家に戻ってしまったという事実だけは、確認が取れた。
「今日は休日のところ、お時間をいいただいてありがとうございました」
貴之は、話をしていただいたお礼にと言わんばかりに、『当店オリジナル特製ブレンドコーヒー』の勘定を増井の分まで出した。
コーヒー一杯六五〇円ということもあり、さらには、有希子と食べたアフタヌーンティーセットの一〇分の一の金額ということもあったため、財布にも何ら影響がなかった。だが、増井は申し訳なさそうな態度を取った。やはり、コーヒーはこれくらいの金額が普通だろうと、貴之はマスターからお釣りをもらう時にふと感じた。
「あ、あの・・・」
店を出て家路に向かおうとした貴之を、増井は引き留めた。
「私、有希子は最後まで・・・いや、今も貴之さんのことを信じていると思います。今日、貴之さんとお話をして、改めて思いました」
「増井さん・・・」
貴之は軽く会釈をして、再び家路にへと向かった。
帰りの京王井の頭線の電車を待っている途中で、有希子に電話をかけた。
何度かけても、電源が入っていないアナウンスが流れている。
『この電話は現在使われていません』とアナウンスされればあきらめもつくが、これまでは電源が入っていないだけで、今かければ電話がつながるかもしれないと思い、電話のコールボタンを押す。
そして、電話はいつも繋がらない。
メールを送信しても、アドレスが変わっているのか、『このメールは送信できませんでした』と返ってくる。電話番号と違って、メールアドレスの変更は時間も労力もかからない。昔は週一回のペースでメールアドレスを変える女子高生がわんさかいた。
SNSがらみは、LINEのアカウントは削除されていた。フェイスブックやツイッターなどの投稿系のSNSは、有希子は興味がないため一切登録していない。『自分のプライバシーを見ず知らずの人にさらけ出して、何が楽しいの?』と有希子は疑問を抱いていた。
つまり、連絡するツテはない。雨が降りしきる駅のホームで、貴之の心も雨のように土砂降りに泣いていたのかもしれない。
「思えば、別れ際の有希子は泣いていた。本当に顔も見たくない相手と別れるのであれば、本当に他人のような扱いで、感情がこもっていない表情を見せるものだ。むしろ、これで二度と会うことがないと分かると清々するものだ。あの時の有希子は本当に僕と別れたがっていたのか? 有希子に突きつけられた運命がなければ、きっと僕たちは別れなかったのかもしれない」
相変わらず電話に出ない有希子の携帯に諦めをつけ、通話の切ボタンを押した。画面に現れたのは、有希子の電話帳でカメラ目線で微笑んでいるプロフィール写真であった。
有希子の写真を見ながら、雨が降りしきる駅のホームで、貴之の心も雨のように土砂降りに泣いていた。
涙は見せなかったが。