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七月 絶望の先に希望の光が見えた

  七月


 梅雨が例年より早く明け、東京に来て貴之は初めての夏を経験する。六月の地点で室別市の真夏並みの気温のため、真夏になればあまりの暑さに蒸発してしまうのではないか? と不安になっていた貴之であった。

 その不安は大方的中しており、熱気の影響で横断歩道のアスファルトが揺らいでいるのを見て、これが蜃気楼かと錯覚してしまうくらい、東京の真夏は衝撃的な暑さであった。幸い、独身寮にはエアコンが備えられていたため、大変重宝している。エアコンがなければとっくに熱中症になって病院に運ばれていた。

 室別市に住んでいた時にはエアコンが必要な期間は二週間程度であり、設置費用の損得勘定を考えれば明らかに大損するため、エアコンとは縁のない環境で育った。正直ここまでエアコンが快適だと、貴之は思わなかった。

 外の熱気もあってか、春先以上に外出するのに気が滅入っていると思われたが、事情が違う。七月に入ると毎週末有希子とデートをしているからだ。

 最近は平日と休日の人生のパロメーターが、グランドキャニオンのように高低差が激しい。平日(日曜日の夜含む)はマイナスゲージがマックスであるが、週末(金曜日の夜含む)はプラスゲージがマックスである。その振れ幅は、まるで直流電源の波形やデジタル信号の〇と一の羅列のように直角に推移している。


五日

 この日は、六本木の高層階にある高級ホテルのラウンジに貴之と有希子は来ていた。夜の街のイメージがある六本木であるが、近年はミッドタウンや六本木ヒルズなど、家族連れにも受け打入れられる街になってきている、さらに、二人とも夜遊びがあまり好きなタイプではない。二人がこのラウンジにいる只今の時刻は午前一一時四〇分だ。見事なまでの朝型人間である。

 二〇代前半でありながら、どこか落ち着いており、ワイワイガヤガヤ騒ぐよりは、上質な時間を味わいたい方が性に合っている。と言ったものの、大学時代を人口一〇万人の街で過ごしたせいか、都会での遊び方をあまり知らなかっただけである。

 そのため、二〇歳そこそこの若造が高級ホテルのラウンジなんぞ一〇年早いわ! と突っ込む面倒な人がいるかもしれないが、飲み会で二次会・三次会に費やすよりは経済的にも優しいのである。

「この前のホテルのアフタヌーンティーセットも豪華だったけど、このホテルのもすっごく豪華だね」

 有希子はこの前のように、またしても三段セットのアフタヌーンティーセットをスマホのカメラで激写する。貴之にとっては、この前の表参道と今目の前に置かれているアフタヌーンティーセットの違いが判らず、まるで間違い探しをしているようであった。

 しかも、今回選んだホテルのアフタヌーンティーセットは、前回のホテルより二〇〇〇円も値上がりしている。サービス料というものを込みで、二人で一三〇〇〇円といったところか。一体吉野家の牛丼五杯分の値段の違いが、このセットのどこにあるというのだろうか疑問に思う貴之である。

「ほら、すっごくいい写真が撮れた。この前撮ったアフタヌーンティーセットの写真も、一緒に送るね」

 いいよ、と言ったが、貴之はある重大なことに気が付いたが、時すでに遅し。テーブルに置いてあった貴之のスマートフォンの画面に、送信者の名前と写真が表示された。すなわち、でかでかと有希子の隠し撮り写真が映し出されたのだ。有希子は表示された写真を見た途端、驚愕の声を上げた。

「あぁーー!! な、なに、この写真?」

 しまった!! 

 盗撮したのがバレてしまった。

 これはピンチだ。

 人生の終わりだ。

 そろりと有希子の表情を見ると、険しい目つきをしている。

 正直怖い。これは、怒っていることが目に見えた。きっと僕のことを軽蔑するに違いない。どうやって釈明をしようか。盗撮した容疑で、迷惑防止条例の違反で逮捕されてもおかしくはない。本気で・・・

冷や汗が出始めた中、言い訳を考えるべく、貴之の脳内はフル回転で働き始めた。

「こんなかわいくない写真を電話帳に登録されちゃ困るわ。目の開きだって七割くらいしかないし。なんだか頭が悪そーなイメージに見えるわ。もっとかわいい写真を使ってもらわないと」

 ・・・あれ? そっち? 怒っている方向性が違う。盗撮したことについてはおとがめなし? いや、盗撮であることがバレてはいない。

 よかった。これは計算外のラッキーだ。首の皮一枚繋がった。土壇場からの逆転だ。被害届は提出されなかった。逮捕されなくて済むんだ。

「ほら、かわいく撮ってよ」

 今度は、堂々と有希子の写真を撮ることができた。それも、前に盗撮した時以上の可愛さが写った写真を。カメラ目線で、こちらに向かって、微笑んでいる写真を撮ることができた。前回の写真はややピンボケしていたが、今回の写真は、完全にピントが合っており、おまけに、有希子のお墨付きまでもらった。まさに、自分だけの有希子写真を撮ることができた。

 撮影した写真の出来に、すっかりご満悦の有希子である。

「私、いい女かな?」

 貴之が撮影した自身の写真を見た有希子の発言に、貴之は飲み始めたアールグレイを噴き出した。これは天然な発言なのか。この発言が天然であれば、大学祭の時のメイド喫茶で有希子さん目当てのヤローが集まるのも、頷ける。

「も、もちろん、かわいい女性だよ」

 本当にぃ? という疑いの目で貴之を見る有希子。貴之にとっては、その上目遣いの目がかわいいのだと言いたかった。

 有希子は、会社の同期で飲みに行き、その時が会社という枠組みの中でも楽しい時間だったことを、話し始めた。

「これが、会社の同期と一緒に飲み会を開いた時の写真」

 有希子がスマートフォンの中にある写真を見せたのは、居酒屋で一〇人くらいが写っている写真だ。部内の中は険悪でも、どうやら会社の同期とのつながりは良好らしい。全員が屈託ない笑顔を見せている。有希子の隣の女性は、有希子の腕をがっしりと握っている。女子ならではの愛好表現だ。これが男同士で腕をがっしり組んで写真を撮れば、間違いなく二丁目系として見られる。

 どうやら、有希子はこの女性と友人らしい。そういえば、会社で楽しかったことがあったときには、大体『マスイさん』という名前が出てくるが、この女性のことだろうか。聞いてみようと思ったが、別の話題に移ったため、結局写真に写っている女性の名前は分からずじまいであった。

 六本木でのアフタヌーンティーを堪能した二人は、近くの国立新美術館に立ち寄った。美術館に行ったのは、当初は六本木ヒルズに行こうとしたものの、少し遠かったこともあり、他に行きたい場所が見当たらなかったためである。

 この日開催されていた展覧会は、日本の文化を伝える企画であった。ロビーのポスターで、半年前にはルノワール展が開かれていたことを有希子は知り、残念そうにがっくりとした。西洋の絵画に、少し興味があったためだ。

 一方の貴之は、芸術に関しては全くの無知であり、ルノワールと聞いてもさっぱりであったが、イレーヌ嬢の絵をスマホで見て『かわいい』と口走った結果、有希子から軽い腹パンを受けてしまった。

 やがて、この日も夕食を前にお開きとなった。やや余韻を残したのは、一週間後笑顔で会うことを約束したかのようだ。ご褒美がなければ、会社で過ごす平日の五日間は生きてはいけない。お互いに・・・


一二日

 この日は、有希子さんと三回目のデートだと、意気込む貴之。徐々に、五月病の症状が和らいでいくように見えてきた。昨日は、有希子さんと明日会えると思っただけで、出社の足取りが軽かった。もっとも、鮫田や牧岡課長らの嫌がらせにも似た罵倒は毎日のようにあったが。

 今回のデートの場所はいつものホテルラウンジではなく、見渡す限り一直線の道が続く緑道公園であった。有希子のリクエストだ。

 東京という大都会でありながら、一面緑に囲まれており、都心から少し離れた場所にあるため、人の姿もほとんどなかった。梅雨が明け、澄み渡った青空が、辺りの草木を明るくしている。貴之は、時折室別市に戻って来たのかと錯覚するくらい、静かでのんびりした場所であった。東京にもこれだけ安らげる場所があったことに驚く。

 地下鉄の駅から約一〇分くらい歩き、公園内の中央付近にあるベンチに、二人は腰かけた。

「実は、今日はお弁当作ってきたの」

「え゛ぇっ! ほ、本当?」

「な、何? 気に入らないとでもいうの?」

「いやいやいやいや、そんなことは決してございません」

 思わず驚愕の声を上げる貴之。歓喜の声を上げたつもりであったが、有希子にはうれしさがあまり伝わらなかったようだ。どこに好きな女性の手作りお弁当を嫌う男がいるというのだ。せっかくのお弁当を口にすることができなくなると、貴之は内心ひやひや物であった。欲を言えば、このところ有希子とのアフタヌーンティーデートは正直予算がかかりすぎて、今月の生活費がピンチだったことも、貴之は喜んだに違いない。

 やがて、公園のベンチに腰掛けていた二人は、有希子が作ったお弁当を食べ始めた。まるでピクニックだ。今日は快晴とあって外で食べるご飯が最高においしい。

 有希子が作ったお弁当のラインナップは、おにぎり・唐揚げ・卵焼き・ポテトサラダなど、多種多様なおかずが並んでいた。男はこういった手料理に心を簡単に奪われるのである。


 二人は、澄み渡った空に遠くから見える入道雲とあたりを飛び交う鳥を眺めながら、日向ぼっこのような恰好をしていた。さすがに真夏の都会での日向ぼっこは熱中症の恐れがあるため、日陰での日向ぼっこではあるが。

「たかゆき・・・」

 微かに有希子から声が聞こえた。貴之は、一瞬独り言を話しているかのような小さな声だったため、反応していいものか悩んでいた。

「私と、付き合ってください」

「・・・えっ、い、今なんて?」

「だ、だから! 私と付き合ってください!」

「えぇ!! ほ、本当に!?」

「な、なに? 不満でもあるというの?」

「ないないないないないないないない!!! 不満なんかあるわけない!!!」

 生きててよかった。

これまでにない多幸感が、貴之の身体を駆け巡った。道端神社での願掛けから約半年で、有希子と付き合うという願いが叶った。地獄の底から、目の前に一本のロープが下りてきて、そのまま天国まで引っ張りあげられたかのようだ。

 人どおりが少ない緑道公園を選んだのは、告白するのを他人に聞かれないためだったのか。

 晴れて恋人同士となった二人は、青空の元で屈託のない話をしていた。室別で過ごした大学時代にあまり接点がなかったことから、どんな大学ライフを送っていたか、ひたすら話をしていた。

「有希子さんは、室別の街にいるにはもったいない大学生活じゃない。大学も東京ならもっと素晴らしい人生になったかもね」

「そう思ったこともあったけどね。あと、もう恋人同士なんだから、さん付けはやめてくれない。なんだか他人扱いされているみたい」

 貴之の心臓が高鳴った。いや、さっきから高鳴りっぱなしであるが、さらに心臓のペースが跳ね上がった。

「そ、それじゃ、遠慮なく。ゆ、有希子はさぁ・・・」

「貴之から呼び捨てにされると、なんか変な感じね。でも、そのうち慣れるよね」


 貴之にとっては、このまま時間が止まってほしいかと、またしても思っていた。だが、現実は非常なもので、楽しいピクニックのようなデートが終わりを告げた。二人は地下鉄に乗り家路に向かった。貴之が途中の駅で降りて、この日はお開きとなった。

 ホームに降りた貴之が手を大きく振る様子を、有希子は車内で微笑みながら軽く手を振った。

———単純な男ね、貴之は。それが彼のいいところだけど。でも、ずっとこの楽しみが続けばいいのだけど・・・

 地下鉄の車窓が暗闇に移されたころ、有希子はやや不安な表情で、高鳴る左胸を押さえていた。


 独身寮に着いた貴之は、有希子と付き合うことになった報告を、弘志と昭一にした。

 昭一から『おめでとう』と返信がすぐに来た。短い文面だが、すぐに送信してくれたことに、昭一の優しさを感じる。昭一の妻である、まりなさんにも話が伝わり、友人の有希子が付き合い始めたことが新野家で話題にあがるだろう。

 弘志からは、『三月に三人で岬で告白したことが、俺より先にお前が叶えるなんてな。まるで、ノーラン・ライアンの一〇〇マイルの剛速球を、見事にホームランに打ち返したな。俺も負けてはいられない。何としても東京で一旗揚げてやる』と、相変わらずマニアックな野球ネタの返信がしばらくしてから来た。

 マニアックな野球ネタをメールで打つにはあまり長文のためだろうか、途中で挫折したようだ。なので、バッターや球場などが省略されているのだろう。それに、相変わらず何かしらのことで一旗揚げてると意気込んでいるのは、なんとも弘志らしい。

 貴之が有希子と付き合えたことは、これまでの人生で最大にして最高の出来事であった。このことだけ言えば、人生の絶頂期であることは間違いない。もっとも、これまでの人生があまりに平凡であったためだろうか。

 だが、貴之は腑に落ちないことがあった。祝杯をあげるために、帰りにコンビニで購入した缶ビールを飲みながら、椅子に腰かけ物思いにふけっていた。

 ———人生がこんなに簡単にうまくいっていいのか? 

 あの神社での願掛けから半年で、意中の有希子と恋人になるなんて、あまりに出来すぎじゃないか? 

 それも、有希子の方から告白をしてくるだなんて。なんだか怖くなってきた。落とし穴のような罠が待ち構えているのか。これまでの全ての出来事には裏があるのか。プライベートは順調だけど、会社生活はがけっぷちに追い込まれているじゃないか。それは、有希子も同じことだけど。

 この先、何か不吉なことが起きるような・・・

 だけど、どんなことがあっても、僕は淡々と生きていこう———

 真夏の熱帯夜で、寝付けない貴之が、ビールを片手に決意した。




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