六月 誰もが僕とは違って幸せに見えた
六月
ゴールデンウィークの連休から七月の海の日まで祝日は到来しない。すなわち、この六月は一年のうち祝日が一日もない。そのため、世間の一部では通称『暗黒の月』と呼ばれている。暗黒の原因は何も祝日だけではない。北海道にはない梅雨と呼ばれる時期が、本州では始まるためでもある。毎日がどんよりとした曇り空で、心の中も薄暗くなりつつある季節である。
そんな暗いイメージがつきまとう六月であるが、明るいイベントもある。
結婚式だ。
ジューンブライドと呼ばれる六月の結婚式ラッシュの背景には、ローマ神話の女神説に関連したユリの花がぴったりであり、結婚を司る女神ユノを象徴する花はユリである。つまり、結婚の女神が守護する六月に、その女神の花をまとって結婚式を挙げるというのが、大変ロマンチックであるというのが通説だ。
てっきり六月は明るいイベントがないから、その埋め合わせとして季節の関係ない結婚式を持ってきて、『ジューンブライド』となる単語を無理やり創ったのではないかと、貴之は無礼な思い込みをしていた。
そんなジューンブライドシーズンに結婚式を挙げる夫婦が、貴之の友人にいるのである。
昭一だ。
貴之は、昭一の結婚式に参加することが、置かれた状況では唯一の楽しみであり、希望でもある。だから、パワハラが蔓延している会社にも、自分を押し殺し、感情を捨てて出社することができた。
二〇日
昭一の披露宴前日、貴之は社会人として初めての有給休暇を使った。披露宴は土曜日のため、東京から新千歳空港まで飛行機で向かい、そこから室別市に向かうには前乗りするのが得策だ。
だが、鮫田は『新入社員のくせにもう有休を使うんだな、どうかしてるんじゃないのか? 普通新入社員というものは・・・』という説教を二時間していた。普通、有給休暇は社員の権利であるはずだが、どうやらこの会社で有給休暇を取ることは、戦犯扱いさせるらしい。
貴之の精神はすり減っていたが、地元の室別市に帰ってきて少しは肩の荷が降りたようだ。いっそこのまま室別市に居座りたい一心だ。
二ヵ月ぶり地元の空気に触れた。だが、二ヵ月しか期間がないためか、懐かしい思いは一切なかった。駅前から乗ったタクシーで窓の景色を見ても、街並みは何ら変わらない。実家に到着しても、雰囲気は何一つ変わらない。だが、何一つ変わらないことが、貴之の心に安らぎを与えているかのようだ。
自室に入ると、親の物がいくつか置かれているのを見ると、どうやら物置代わりとして使われていたようだ。どこの家庭でも同じであろう。
かつて使っていたベッドに身を預け、大学時代に戻ったかのような安堵感のせいか、貴之は泥のように眠ることができた。東京での生活は、眠れなければ、それだけ会社にいない時間を味わうことができてラッキーと思えるくらいだった。
例えるなら、第二次世界大戦中のナチスドイツによる、アウシュビッツ収容所での過酷な労働から、戦争が終わり解放されたような気分だ。あの会社にいては、人権などないようなものだ。会社にいない時間を過ごすことが、全て贅沢とみなされる。
ふと、思い出したが、新型うつと呼ばれる会社にいるときだけうつを発症して、休日は外に行ける人間は甘えだと、叫んでいるコメンテーターがいたのを大学時代にテレビで見た。あれは間違いだ。人間は自分が置かれている環境で、どうとでも変わるのだ。そのコメンテーターがアウシュビッツ収容所に連行され、強制労働によって気が滅入っても、『強制労働をしている間はうつで、休憩時間は明るくなれる人間は、新型うつだ』と言えるのだろうか。
貴之は、強制収容所となる職場での体験談を頭で整理して、いつか本を出してやろうと妄想をしながら、眠りについた。
二一日
昭一の披露宴当日、貴之は弘志と会場に乗り込む前に某外資系カフェでカフェで落ち合っていた。そこはかつて、バレンタイン作戦で使用したカフェであった。貴之が先に店に入り、弘志がまだ来ていないのを確認したのち、バレンタイン作戦の時に頼んだ同じコーヒーを注文した。
弘志が来るまでの間、結婚式に必要なご祝儀の確認をし、『出来る社員は○○が違う』なる文庫本を読みながら待ちぼうけしていていた。もちろん、本のカバーはかけてある。果たして、大学時代のノリやテンションを取り戻せるかと、貴之は不安になっていた。事実、弘志と東京で会わなかったのは、どんちゃん騒ぎができない精神状態の自分が原因であった。
土曜日の午後という時間のせいか、高校生だけでなく、中年や年配の人、さらには中学生のグループなど、老若男女問わずに、にぎわっていた。貴之は結婚式に参加するため、そこそこの格好をしたスーツのため、やや浮いていたように見えた。
待つこと一〇分、入り口から弘志がやってくるのが見えた。髪は黒く短く切られて、大学時代には髪の毛で見せなかったおでこと耳が見えていたが、貴之はすぐに弘志だと分かった。
「貴之ぃぃぃぃ! ひさしぶりじゃないかあぁぁ!!」
貴之も髪は黒く短く切られて、大学時代には見せなかったおでこと耳が見えていたが、弘志もすぐに貴之だと分かった。両手を上げて、エネルギッシュに叫ぶ弘志である。この点は変わらないな。いや、大学時代からさらに元気になっていないか? 自分とは大違いだと感じ取る貴之。陰りのある表情を見せまいと、必死に笑顔を作っていた。
「久しぶりだね。といっても、あの岬で叫んでから二ヵ月と経ってないけど」
「何を言うかバカ者! 大学時代は毎日のように会っていたのが、ぱったりと会わなかったのだぞ! だから、二ヵ月も会ってなかったというのが筋が通るのだよ」
弘志は何一つ変わっていなかった。元気で明るい姿を見ると、東京での生活はうまくなじんでいるようだ。貴之は、自身の注文をするため列に並び始めた弘志を見て、うらやましく思っていた。やがて、注文したコーヒーを持って、弘志が戻ってきた。
「貴之の方はどうだ? 東京で会おうって言ってたけど、大学卒業してから一発目に会うのが室別市だなんて、なんか皮肉だよな」
「・・・まぁ、社会人になってから思いっきり忙しいからな」
本当は、土日は精神のケアと、せっかくの貴重な時間をドブに捨てるわけにはいかないため、会社にいない時間を長く味わいたい目的としてずっと引きこもっている。この情けなく惨めな事実は、弘志にはとても伝えられない。心配をかけるわけにはいかないだけでなく、自分が一人前でないことを貴之は隠したかった。周りに後れを取っている自分を知られたくはなかった。
「本当に、ほんの数ヶ月前まではここでどんちゃん騒ぎしていたのが信じられないな、本当に・・・」
「そうだな、二月の時には教授の豆まき対策やバレンタイン大作戦を、このカフェでしていたもんな。それなら、今ここであの時できなかった豆まきをここでやろうか?」
「・・・いや、別にいいや」
弘志の挑発に貴之は向かっては来なかった。弘志はあっけにとられた。大学生時代なら間違いなくバトルが始まっていたシチュエーションだ。少し貴之が大人になったのだろうか。弘志は物足りない気持ちでいっぱいだった。だが、実際には貴之の気力がないと言ったところだ。
「それで、弘志の方は新生活うまくやってる?」
「絶好調だぜ。先輩が毎週金曜日に歌舞伎町に飲みに連れてってくれるし、休みは同期と渋谷や原宿でウロウロして遊んでるぜ。この間なんか航空会社のCAたちと合コンだぜ。正直、この週末室別行くことで、楽しい週末が無くなるのは心苦しいがな。わずかな望みで、この前合コンしたCAと新千歳に向かう機内で乗り合わせていないか期待したけど、空振りに終わった。だがそんなことはどうでもいいと思えるくらい、昭一の結婚式のためなら、どこにだって行くぜ!」
ガハハと奥歯が見えるほど笑う弘志を見ている限り、どうやら有意義な日常を送っているらしい。
弘志がうらやましくて仕方がない。
第一、職場の先輩とプライベートで飲みに行くことなど、貴之には想像できなかった。仮に行ったとしても、説教が始まることが目に見えている。それに、残業代が発生しないばかりか、お金を払ってまでなぜ職場のメンツとなぜ飲みに行かなければならないのか。下手をすれば終電を逃し、一万円タクシーという最悪な結末を迎えることになる。
貴之にとって、お金と時間の両方が奪われことを考えれば、会社の人間と飲みに行くことなど、拷問以外の何物でもない訳である。
「弘志は、楽しい生活を送ってるんだな」
「まぁな。そうだ、今度の合コン貴之も来るか? 俺のダチだっていえば歓迎してくれるぜ。それに、今度は何と芸能プロダクションの社員と合コンだぜ。うまくいけば芸能人と知り合いになれるチャンスだってあるぞ。こんなこと、室別にこもっていたんじゃ絶対できないことだぞ。一旗揚げる第一歩だ!」
「・・・あぁ。考えとくよ」
合コンに関しては、貴之はあまり乗り気ではなかった。休みの日に精神ケアをしなければいけないのも一つであるが、決定的なことは、見ず知らずの人となぜいきなり和気あいあいとして盛り上がらなければならなないのか。
どんちゃん騒ぎをして盛り上がっても、三日もすれば名前も顔も忘れてしまっている。それに、今の貴之には時間を無駄にはしたくはなかった。東京で弘志から合コンに誘われたときは断っておこうと決めた。
やがて二人は昭一の披露宴が執り行われる会場にタクシーで向かった。思えば、大学時代を含めて二人でタクシーには乗ることなどなかった。大学時代にはタクシーなんていう、贅沢な乗り物は使用できなかった。今や社会人、それもスーツという正装をまとっているため、少しでも型を崩さないためにも、タクシーを使うことは有効であると、二人の考えは一致していた。
会場は室別市の中では最も豪華なホテルであった。豪華ではあったが、弘志の評価では東京に行けばメジャーリーグVS高校野球の戦いとなるレベルとの解釈であった。要するに、井の中の蛙と言いたいのだろう。またしても、野球を例えにしたことについて、貴之は完全にスルーしていた。
「あ、あいつ。地味婚とか言いながら、東京のホテルとまではいかなくとも、この街有数のホテルで披露宴を上げやがって」
「といっても、この街で結婚式をするとなれば、このホテルくらいしかないけど」
のぼせる弘志を貴之はなだめていた。会場となるホテルについて、貴之は地元のため存在は知っていたものの、実際に建物の中には入ったことがない。
会場内を見渡すと、豪勢なシャンデリアや二メートルを超えるケーキがすでにそびえており、入り口には新郎新婦の似顔絵パネルが展示されていた。これはもはや地味婚ではないレベルである。
「あ、あいつ。地味婚とか言いながら、中々盛大に式を挙げるんじゃないか」
「そうだなぁ、これは本格的な結婚式になるんじゃないか?」
二人は会場に入ってすぐに、圧倒されていた。その後、二人は昭一の晴れ姿を一目見るために、新郎控室へと向かった。関係者から立ち入り禁止ですと言われたが、既に昭一の許可は得てあると話し、ずかずかと我が物顔で控室に入っていく二人である。もちろん、無許可である。
「「昭一―、結婚おめでとー!」」
昭一は、ヘアメイクの最中であった。二人を見た昭一は、髪型が変わった二人を見てぎょっとしたが、軽く弾むような動作をしながら、思わず笑みが浮かぶ。
「おぉ、お前たち、よくぞ東京から駆けつけてくれた」
「当たり前だ。親友の結婚式に電報のみで済ませるバカがどこにいる。だからこうして、俺も貴之も駆けつけたじゃないか」
「そうだよ。それにあの時、岬で約束したじゃないか。『昭一の結婚式で再会だ』って」
「そうだったな。でも、二人ともはるばる東京から駆けつけてくれて、うれしいよ」
約二ヵ月ぶりの再会となった三人は、これまであったそれぞれの日々を語り合いたかったが、生憎その時間はなかった。
それじゃあ、と、貴之たちは控室を後にした。昭一と晴れて再会を果たした後、二人は再び会場に戻り、新郎の友人席に着席した。テーブルクロスがかけられた丸テーブルには、二人のほかに、昭一の小学生時代の友人がすでに着席していた。
昭一の親族は人数が多く、似たもの夫婦が何組もおり、昭一は親族の顔と名前が一致するのだろうかと、いらぬ心配を二人で勝手に盛り上がっていた。
「そういえば、昭一の結婚相手って、大学の同級生だったよね? ということは、新婦側の友人席にも大学の同級生がいるかも」
「貴之の言う通りだな」
貴之はひそかに期待していた。昭一の新婦と有希子が友人で、この結婚式の会場に来ていることを。思えば、バレンタインの時にチョコレートをもらって以来、有希子とは会うことはなかった。卒業式やホワイトデーのお返しを口実に再会しようとしたが、連絡先を知らないのが致命傷となり、結局のところで会えずじまいであった。そのもやもや感を払拭するべく、貴之は会場を見回した。
いるはずだ。この会場に有希子さんが。信じれば必ず願いが叶う。思考は現実化するんだ。いや、ただ有希子さんがいてほしいと願うだけじゃだめだ。はじめから、この会場に有希子さんがいると思わなければいけない。そう、有希子さんは会場にいるんだ。
やがて・・・
「いたああぁぁぁぁ!!」
貴之は新婦側の友人席に座っている有希子を見つけた。並みいる群衆から有希子を見つけるのは、ゲレンデで滑って以来、二回目である。どうも、貴之は有希子を見つけることに長けているらしい。下手をすれば、ストーカー扱いにはなるが。
有希子の姿は結婚式だからか、ドレスやアクセサリーなどで映えており、さらにヘアメイクもばっちりであったため、大学での雰囲気とは違い、大人の雰囲気があふれていた。貴之の目には、有希子がより一層キラキラと輝いて見えた。
これは奇跡だ。運命だ。天は我に味方した。いや、それともあの神社の御利益か。実にバレンタインの時以来の再会だ。まだ、面と向かって話はしていないが。卒業式の時も会えずじまいで、結局話ができなかった。その悔しさをぶつけるリベンジの舞台が、今まさに用意された。絶対に負けられない戦いが、そこにはある!
「貴之、式が始まる前に声をかけるんだ。式が始まれば中々声をかけられないぞ」
弘志の助言もあり、貴之はいたって冷静を装い、有希子の席へと向かった。間もなく、キックオフ!
「有希子さん、お久しぶりです」
何事かと思い、声がしたほうを振り返ると、有希子の視界に貴之が映った。一瞬の間があった。恐らく、脳内でこの人物は誰かと検索をかけているに違いない。数秒ののち、検索がヒットしたのか、有希子が口を開いた。
「あ、あれ。貴之さん。お久しぶりです。こんなところでどうしたんですか?」
「いや、昭一とは大学でずっと友達だったので」
「なるほど、新郎側の友人なのね」
そういえば、一月のゲレンデで有希子と遭遇した時、昭一たちは上級コースで滑っていたから、昭一の姿は見ていなかったんだな。思えば、弘志とは大学の研究室が同じだったから一緒にいたけど、昭一は別の研究室だったから、大学構内ではあまり一緒にいることがなかったことを振り返った。もしくは、僕という人間に興味がなかったから、昭一と友人ということは気にも留めていなかったのだろうか。
「有希子さんは、新婦とお友達ですか?」
「そう、私は新婦のまりなと友達で、大学のサークルでも一緒だったの」
要するに、新野夫妻と有希子さんと僕は、それぞれ共通の友人がいることだ。どうして学生時代にわからなかったのだろう。もっと早くに接点があることがわかっていたら、今頃は・・・貴之は考えすぎかと、我に返った。
「それじゃ、また・・・」
結婚式の始まりが近いため、有希子の方から会話を打ち切るような形で終わった。どうにもしっくりこない終わり方だ。だが、後半がまだあるに違いないと考える貴之。前半は両者一歩も引かない展開でしたが、後半に期待しましょう。
———「大変長らくお待たせいたしました。間もなく、新郎新婦のご入場です。皆様、盛大な拍手でお迎えください」
オールバックで細身な男性司会者の威勢のいい掛け声で結婚披露宴が始まり、新郎新婦が華々しくスポットライトに照らされて入場した。新郎の昭一はタキシードを着ていたせいか、貴之や弘志と同い年とは思えないほど、大人の魅力が出ていた。
「昭一、カッコいいな」
思わず貴之がつぶやいた。
「そうだな、いつも見慣れている昭一とは違うな」
披露宴はどこにでもあるような進行で進んだ。
・二人が出会った時の写真のスライドショー
弘「これ大学四年生の学祭の写真だな。あっ、俺が映っているぞ。貴之はどこだ?」
貴「その馬の被り物をしているのが僕だよ・・・」
・○○代表の長い長いあいさつ
弘「どいつもこいつも話が長いったらありゃしない。お前の独演会かってーの」
貴「一番長いので大学院の教授で、二二分三四秒のスピーチ。司会者途中で止めさせろ」
・結婚式をモチーフにした曲のカラオケ余興
弘「やっぱり安室ちゃんが必ず流れるな。誰か、テレサテンの『つぐない』を歌う強者はいないのか?」
貴「つボイノリオの『金太の大冒険』も捨てがたいな」
・夫婦初めての共同作業となるケーキ入刀
弘「初めての共同作業だって? そんなわけねーだろ。夫婦初めての共同作業は、役所での婚姻届の提出だろうが」
貴「いや、それだとまだ正式に夫婦になってないから、結婚式の打ち合わせが最初の共同作業じゃないか?」
・キャンドルサービス
弘「ちょーどよかった。ライターのガスが切れたから、そのキャンドルでこのタバコに火を」
貴「そのまま顔面に火をつけてもらったらどうだ?」
・結婚式のメインイベントともいえる、新婦が両親にあてた感謝の手紙を泣きながら読む・・・
弘「それで、今度の合コンなんだけど」
貴「考えが変わった。ぜひとも呼んでくれ」
よくぞこの不謹慎二人組が最後まで披露宴に居座れたものだ。しまいには、結婚式そっちのけで、二人だけの世界でふざけたことを繰り広げていた。これが親友の結婚式での姿だろうか。それもご丁寧に、出てきた料理を全部平らげただけでなく、せっかくのごちそうだからと、隣のテーブルから余っている料理を持ってきて食べ始めることまでしていた。まさしく、今世紀最大の無礼者の二人である。その姿は、まさしく教授にめがけて豆まきをした時の二人そのものである。
よって、新郎の友人代表のスピーチは、貴之でも弘志でもなく、昭一の小学生時代からの友人が選出された。昭一の選択はナイスな判断である。
これがもし、酔っぱらった弘志であれば、くだらない野球の話をするか駄々スベりのマニアックなギャグをかますなど、結婚式をぶち壊しにしかねないためである。貴之ならまだまともなスピーチをしてくれると昭一は期待していたが、間違いなく途中で弘志が乱入して、くだらない野球の話をするか駄々(以下略)となっていたに違いない。
どうやら、昭一は自身の結婚式がめちゃめちゃになることを見越していたようだ。これも、親友だからこそ、わかることではあるが。
貴之本人は気が付いていないようであったが、やはりお酒が入ると気分が良くなるのか、会社であったイヤなことをこの時ばかりは忘れることができた。そのかいあってか、合コンに否定的な貴之が、今度の合コンに参加するというのだ。果たして、意中の人である有希子が会場にいることを、貴之は覚えていたのであろうか。
披露宴も無事に? 終了し、二次会は若者がメインとなって出席することになった。会場は同じホテルの別室だ。参加者は三〇人程度であり、新郎新婦の親族関係者はご高齢のため疲れたのか、引き出物を持ってすぐさま帰宅、もしくはホテルの宿泊部屋に戻った。二次会には主役の新郎新婦はもちろん、貴之がわかる範囲では、弘志と有希子も出席していた。
二次会は結婚式のような決まりきった形式はなく、やや広い会場で円卓テーブルが六卓ある立食スタイルだった。もちろん指定席などはない。新郎新婦とも室別大学出身とだけあって、半数近くが室別大学OBであった。
貴之は、大学の同窓会と称して、有希子の隣にスタンバイした。テーブルには貴之、弘志、有希子とゼミの友達と、室別大学のプチ同窓会として盛り上がっていた。
会場には飲み物として瓶ビールが、これでもかと壁横のテーブル上に陳列されていた。野球好きな方は、ピンと来るはず。そう、プロ野球チームが優勝した時に行われる最高の儀式、ビールかけだ。野球好きな弘志は、ビールかけの環境が整っていることに気が付いたに違いないないと、貴之は踏んでいた。
ここで『ビールかけはするなよ』と口にしてはいけない。なぜなら、前振りと錯覚し『ビールかけをするのだぁ~』と弘志が解釈することを想定していた。
すでに酔っぱらっている状態のため、おかしなスイッチがひょんなことで簡単に入ってしまう。頼むから、せっかくのお祝い事でぶっ飛んだことはしないでくれ、と祈るばかりの貴之であった。
二次会は特に余興もなく、ホテルの備え付けである音質の悪いカラオケを使って、ただ騒ぎながら飲んでいるだけであった。元々が地味婚のためか、そこまで大々的な企画は計画されていないようだ。
貴之がいたテーブルでは、大学のことで話が盛り上がっていた。貴之と弘志は知らなかったようだが、節分の時に教授に向かって『おにわーそと』と、豆まきをしたことは大学内で伝説の事件となっていたようだ。特に、有希子がいた研究室では、『豆まき事件』と呼ばれており、卒業するまでの間、話題が耐えることはなかったくらいだったらしい。
当時の様子を回想したためか、有希子がクスクスと思い出し笑いをしていた。有希子さんが、僕のことを話しているだなんて、感激だなぁ、と貴之は酔っぱらっていたため、心も体も軽くなり、心地の良い気持ちになっていた。
「TEEEEEL」
スマートフォンの着信音である、マリンバの楽器が鳴り響いた。周りの数名が自分の電話が鳴ったとばかりに、一斉にスマホを確認する。かつて着メロや着うたが流行ったときは誰もが違う着信音であったが、今となっては兵どもが夢の跡のように、誰もが同じ着信音となってしまった。
電話が鳴ったのは有希子であった。その様子を、弘志が隣で『一九九二年のぉ~ドラフト会議で~、星稜高校の松井秀喜を引き当てたぁ~長嶋監督だぁ~』と、ややろれつの廻らない中で例えていた。別に、有希子さんは親指を立ててグッドサインなどはしてはいなかった。あらゆる出来事に対して何でもかんでも野球に例えるのかこの男は、と貴之が思っていた時だ。
いや、まずいぞ。このまま野球の話題になれば、ビールかけのスイッチがいつ入ってもおかしくはない。そして、さっき出てきた第二次長嶋政権の巨人の話が続けば、次に待っているのは国民的行事となった、一九九四年に巨人対中日最終戦で、その試合に勝ったほうがシーズンの優勝が決まる『一〇.八決戦』に話題が移るに違いない。やがて、行きつく先は、巨人が勝利し、優勝。
そして、ビールかけ・・・
まずい! このままではビールかけの話題が出てしまう。何としても、ビールかけは阻止しなくてはいけないと、貴之は構えていた。
周りが騒がしいため、電話をしている有希子は会場から席を外した。これはチャンスとばかりに、貴之はトイレに直行した。有希子がいないため、絶好の休憩時間である。
有希子と話せる数少ないチャンスにトイレなんか行ってられるかと、せこい本性が垣間見える。これはまるで、時間制のキャバクラに行ったときに、少しでも女の子たちと話したいがために、トイレには絶対にいかないせこいおじさんと同族のように見える。
当然、その間弘志のことはほったらかしとなる。有希子の存在と弘志のビールかけを天秤にかければ、一瞬で有希子に軍配が上がる。貴之はまさに、スポーツマンNo.一決定戦で、室伏広治があらゆる競技で並み居る挑戦者を秒殺にしてきた例えに相当すると、解釈した。
ついさっきまで、弘志のビールかけを心配していたにも関わらずにだ。なんて現金な奴なのだろう。それに、出来事の例えは、弘志に劣らず貴之も中々マニアックな路線である。だから歴代の彼女に振られるのだ。
「それにしても、まさか結婚式の会場で有希子さんと再会できたのは、運命としか思えないな。やっぱり、正月早々にあの道端神社でお参りをした結果かな?」
用を足しながら、すっかり有頂天な貴之である。やはり、お酒の力は強いのか、徐々に大学時代の明るくちゃらんぽらんな精神を取り戻しつつある。
すっきりと用を済ませた貴之が会場に戻る途中、廊下の陰で窓の方を向いて電話をしている有希子が見えた。気のせいか、その背中から悲しげな様子が伝わってくる。結婚式には不釣り合いだ。
電話を切り、有希子はその場にしゃがんでしまった。ただ事ではないことを貴之は感じ取った。何か込み入った事情があるのか? 貴之が駆け寄ると、有希子は人の気配を感じ取ったのか、脚気の検査のように肩が跳ね上がり、勢いが余るほど振り返るのが速かった。
「貴之さん・・・」
有希子は泣いていた。涙が頬を伝って、雫のように落ちた。
よどんだ表情からは、うれし涙ではないことは貴之には感じ取れた。その表情はこれまで大学では見たことがなかった。声をかけようにも、出てくる言葉が見つからない。ふざけた不謹慎な言葉ならすぐに出てくるのに、肝心なことはなぜこうも言葉がつまるのか。自分の語彙力があまりに偏りすぎていることに、いら立ちを隠せない貴之である。
「えっ、あ、あの・・・有希子さん」
「貴之さん。お願い! 私が泣いていたことは、みんなに内緒にしてください!」
貴之は黙ってうなずくしかなかった。というより、有希子の必死になっていたその懇願ぶりに圧倒されたのだ。だが、貴之の頭は混乱していた。一体この状況は何なのか、さっぱりわからなかった。
「な、何があったんですか? なんだか、見ていてただ事ではないような気がします」
しばしの沈黙が流れた。貴之は何か言ってはいけないことを口にしてしまったのかと、あれこれ頭を巡らせていた。誰もいない空間で十数秒経過したのち、有希子が口を開いた。
「実は・・・」
有希子は、上京してこれまであった出来事を話し始めた。
友達は誰も東京にいなかった。人はうじゃうじゃあふれているのに、自分のことを知っている人が誰もいなかった。
寂しい。
とにかく寂しい。
そして、追い打ちをかけるのが、会社での日々だ。毎日毎日、職場指導員に位置するお局様から、執拗に嫌がらせを受けていた。さらに、上司も瞬間湯沸かし器的な人物で、一日最低でも二回は怒鳴り散らしていた。そのうちの一回は有希子に対してだった。というより、新入社員に対しての慣例の儀式のようなものとして、職場では公然の秘密であった。
職場で不当な扱いや嫌がらせ、傷ついて帰ってきても、話をする人は誰もいない。だからと言って、親や大学時代の友達に心配はかけたくない。精神的に追い詰められているのが、自分でも日に日に強まっているのが感じ取れた。ゆくゆくは、自分がお局様のポジションになるのではないかと、不安でたまらなかった。
休日は家に引きこもっていることが多かった。大学時代は休日となれば、ほとんど家にいることがなかった生活とは真逆となっていた。外出してしまうと、時間が経つのが速く感じるため、少しでも会社から隔離された時間を味わうために、引きこもっているのだそうだ。
さっきの電話は、休日出勤をしているお局様からのお叱りの電話だ。せっかく友人の結婚式というおめでたい席でせっかく会社のことを忘れていたのに、会社からの電話で全てが崩壊してしまった。
———同じだ。
貴之は今の有希子が置かれている実情が自分と瓜二つになっていたことに驚いた。会社でパワハラを受けているのは自分だけで、周りのみんなは幸せそうに見えていた。だが、それは自分の勝手な思い込みに過ぎなかった。隣の芝生は青く見えるというやつか。
それも、まさか有希子さんが。大学では元気ハツラツで、いつもみんなの中心的存在の有希子さんが、会社生活になじめていないとは。
「話は分かりました。実は、僕も今の有希子さんと同じなんです」
貴之は自身のこれまでの会社生活を全てではないにしても話すことにした。上司の高圧的な態度や怒号が毎日浴びせられ、何に対してここまで怒鳴り散らしているのか一切わからないけど、ただひたすら謝るだけの毎日。そして、休日は会社から解放された時間を少しでも長く味わいたいから、暇で退屈な時間を過ごしている。
貴之の話を聞いて、有希子は拍子抜けしていた。
「貴之さんも、私と同じ目に遭っていたんですね。てっきり、この仕打ちは私だけにしか受けていないものだとばっかり思ってました」
「それにしても、電話口で怒鳴るのは反則。それも、一発レッドカードで退場レベルだよ。そんな人間なんかに、何を言われようが気にすることなんかないですよ」
「そ、そうかな?」
「そうだよ。人生は短いんだよ。他人の顔色をうかがうような生き方をしてたら、あっという間に死ぬ時を迎えちゃうよ」
先週読んだ本の内容を引用する貴之である。それも徐々に敬語からため口になりつつある。だが、有希子の表情が徐々に和らいでいった。
「貴之さんって、今東京にいるんですよね」
「は、はい。そうです」
「その・・・東京に戻ったら、私と会ってくれますか? 私、これ以上一人でいるのは耐えられないんです。今までは友達の結婚式があるから何とかやってこれましたが、これから先何を糧にして生きていいか、わからなかったんです。だけど、私の気持ちを理解してくれる人がいると、それだけでこの先何とかやっていけそうな気がするんです」
まるで、捨て猫が通りがかった人に、必死になって助けを求めているかのようだ。このままでは彼女は会社を辞めて実家に戻るか、下手をすれば精神が参って自殺するかもしれない。バレンタインの時に、義理チョコを渡してじゃあね、の時の有希子さんとは別人だ。あの時の余裕はもう彼女には残ってはいない。
会社で自分の置かれている状態は有希子と同じだが、何とかして彼女を守ってあげたい。精神的に追い詰められているのは自分も同じだけど。貴之は身体の中からあふれんばかりのエネルギーが湧いて出てきた。
「えぇ、もちろんです。東京で会いましょうよ」
本当は、『ぜひぜひぜひぜひ!!! 二四時間三六五日、僕はいつでも有希子さんのために予定を開けておきます』と言いたかったが、あまりに気色の悪い回答のため、ここは紳士的に振舞った。もう少しお酒が入っていたら、危うく口走りそうになったが。
「それじゃあ、東京に戻った最初の土曜日に、会いましょう」
「はい」
有希子の表情が徐々に晴れていく。スマホのアプリで連絡先を交換したのち、皆に怪しまれることを想定し、二次会の会場には別々に戻ることにした。
「よ、よ、よ、ヨッシャ――――!! ま、まさか、有希子さんと今度の土曜日に会えるだなんて。こ、こんな夢のようなことがあっていいのか。東京に出てきて何一つ面白いことがなかった人生に、希望の光が見えてきたぞ!!」
舞い上がる貴之。周りには幸い人がいなかったが、もし見ていた人がいたら、一体どこの部族の儀式なのかと思われるくらい、貴之はへんてこな喜びの舞を踊っていた。
「遅かったな貴之ぃ。さては、相当でっかいう~~んこだったなぁ~? そ~だろ~? それで、水が流れなくなってぇ~、今までし~くは~くしていたなぁ~」
「・・・あぁ、そうだよ」
泥酔状態に片足を突っ込んでいる弘志の問いに、貴之は何事もないように振舞った。というより、有希子の件ですっかり酔いも醒めた。なんだか、弘志のノリについていくことがバカらしくなった貴之であった。
遠から有希子が貴之の方を見ていた。うまくやり過ごせたと、貴之は有希子にウインクした。
しばらく会場から席を外していたため、誰も弘志を止めるものがいなかったことから、弘志のリミッターが外れて、ビールかけをやったのでは? と、あとになってヒヤリとしたが、どうやらバカな真似はしていなかったようだ。泥酔している弘志であったが、貴之は、一次会で約束したとあることをキャンセルすべく、弘志に声をかけた。
「あっ、今度の合コンはパスね。ちょっと予定が入っちゃった。ついでに言うと、これからの合コンも全部パスで。予定が入っちゃったから」
二二日
二日酔いの貴之が目覚めたのは、一二時過ぎだ。ぼやぼやしては、夕方の飛行機に間に合わない。もう少ししたら、新千歳空港に向かわなくてはいけない。
そういえば、二次会から途中の記憶が怪しいと、貴之は振り返る。結婚式だからと、調子に乗っていつも以上にお酒を飲んだためか、自宅に帰宅したことは、あまり覚えてはいない。ここまで記憶をなくすくらい飲んだのは数えるくらいしかなかった。
「まさか、有希子さんと東京で会う約束は、夢だったのか?」
不安になりはじめた貴之は、慌ててスマートフォンを取り出し、電話帳を確認すると、しっかりと有希子の連絡先が登録されていた。
よかった、夢ではなかった、と、うれしさのあまり貴之はスマートフォンを握りしめた。
その時、スマートフォンに着信があった。握っているスマートフォンに着信があったため、びっくりして落としそうになったが、なんとかおさまった。電話の相手は昭一であった。
「貴之か―? 昨日は披露宴に来てくれてありがとな」
「あ、あぁ。あらためておめでとう。それで、もう起きたのか? 昨日は盛大な宴だっていうのに」
「あぁ、興奮してあまり寝付けなかったからな。貴之、これから新千歳空港に向かうんだろ? 俺が送っていくよ。弘志も一緒に乗せていくけどな」
「本当か? じゃあ、遠慮なくお願いするよ」
当初は母親に空港まで送ってもらおうと思っていたが、昭一が送ってくれることになった。だが、宴の後だから二日酔いの酒気帯び運転ではないだろうかと、貴之は心配していた。
一時間後、昭一のステーションワゴンが弘志を乗せて、貴之の実家に到着した。昨日の主役はピンピンしているにもかかわらず、弘志の様子がおかしい。車の助手席でぐったりしている。
「弘志、二日酔いか?」
「そぉだょぉぉ・・・」
ウーム、これはよほどの重体だな。弘志は後部座席に横になって寝てもらうことにした。弘志をトランクに詰めようかと貴之はひらめいたが、生憎昭一の車はステーションワゴンのため、トランクを閉めても真っ暗闇の空間はなく、座席がある車内と同じ空間であることから、ボツとなった。
一月のスキー旅行でボードを車の天井に固定したように、弘志を天井に固定して走行してやろうかと昭一はひらめいたが、道路交通法違反になるため、ボツとなった。
空港までは高速を使って約一時間。道中弘志はいびきをかきながらぐっすりと寝ていた。だが、披露宴で酔ってビールかけをしないだけマシかと貴之は思っていた。いや、下手に『空中なんちゃらチョップ』をかまさないだけ、寝てもらった方が非常にありがたい。
やがて、貴之と昭一は二人で語り合う。
「悪いな昭一。昨日の主役に空港まで運転させちゃって」
「気にするなって。それに、こうでもしないとのんびり話しできないだろ?」
「そうかもね、助かるよ。でも、昭一は二日酔いには見えないけど。昨日は主役なのに」
「まぁ、主役が宴の途中で酔いつぶれてグロッギーになれば、台無しになるだろ? だから、昨日はお酒をセーブしてたんだ」
なるほど、と酒気帯び運転のいらぬ心配の種がなくなってホッとする貴之である。
「それにしても、二次会でビール瓶が大量に並んでいるのを見て、弘志がビールかけをするんじゃないかと心配したけど、無事に披露宴をぶち壊さずにホッとしたよ」
「実はな、貴之・・・」
どうやら、貴之が有希子と廊下で話している間に、弘志がやや暴走したようだ。新婦側の親族と話をしているときに、『一九九八年生まれの横浜出身です』とあいさつがあったときに、昭一は本能的にまずい、と察した。
恐る恐る弘志の方を振り返ると、弘志はにやにやしながらよからぬことを考えている表情であった。昭一の嫌な予感が的中したのであった。
「せ、せ、せ、一九九八年の横浜と言えばぁ、横浜ベイスターズが三八年ぶりに日本一になった年じゃないかぁ~。さらにぃ~、松坂大輔擁する横浜高校が~甲子園で優勝した年じゃないかぁ~。これはめでたいぞぉ~。よぉ~し、これから昭一の結婚と横浜ベイスターズと横浜高校の優勝を祝して、ビールかけだぁ~~」
嫌な予感が的中した!
昭一は自身の結婚式がめちゃめちゃになると踏んで、いつも弘志が繰り出している『空中なんちゃらチョップ』を昭一が弘志の脳天にかました。数秒程度気を失った弘志であったが、お酒の力もあってか、都合よく弘志の頭からビールかけのことは消えたようだった・・・
「すまん昭一。僕が目を離したばかりに、主役の昭一に気を使わせてしまって」
「まぁ、気にするな。会場に瓶ビールが陳列されていたのを見て、ある程度の覚悟は決めていたからな」
やはりビールかけをしようとしたのか、この男は。本当にどうしようもない友達だと、貴之は呆れていた。だが、野球好きの貴之と昭一だからこそ、親友の考えに気が付いたのである。
それにしても、ビールかけのスイッチが入ったのが一九九八年の横浜とは・・・妙なところでスイッチが入ったのだと、貴之は弘志の方を見て思った。
「だけど、僕たちが仲良くなったきっかけって、野球だったよね。だから、弘志の気持ちもわからなくはないけど」
「言えてるかもな。よくよく考えたら、ビールかけなんて中々やることじゃないから、せっかくだからビールかけをやってみるのも面白いかもな」
「それなら、今度会ったときに、三人でビールかけをするっていうのはどうかな?」
「面白い考えだな。二人が室別に来たら、会場を作っておくよ」
昭一が半分冗談か、半分本気かわからないけど、いつか三人でビールかけができたらいいなと、貴之は寝ている弘志を見ながら微笑む。それに、昭一という人間は突拍子もない口約束を平然と実行する不思議な魅力がある。
「それで、貴之。社会人として、調子はどうだ?」
「まぁ、ぼちぼちでんなぁ」
「そんな関西みたいなことは言わなくていいよ」
「でも、本当にぼちぼちなんだよなぁ・・・」
昭一にも、東京での生活のことは言えない。ここは適当なことを言って濁す貴之である。
「なんだか、大変だと思うけど、北海道にいて助けが必要なら、いつでも声をかけてくれ。この車でひとっとびで駆けつけるからさ」
敏感な昭一は貴之の助けてくれ! という本心に気が付いたのか、的確なねぎらいの言葉をかけてくれた。昭一は僕が東京で絶望していることを感づいているのか? だが、昭一の言葉が、なんとも心強かった貴之であった。
新千歳空港の案内標識が見えたことで、楽しかった時間も終わりが近づいてきた。やがて、新千歳空港についたとき、弘志をたたき起こす二人。だが、ゆすっても何をしても弘志は起きる気配がない。
あまりに起きないため、弘志直伝『空中なんちゃらチョップ』をかまして起こさせようとする二人である。二人して合計二七発近くかましたのち、寝ぼけた弘志が半目のゾンビのようにゆっくりと起きた。
「お、おはよう諸君。はて、ここはどこかな?」
「やっと起きたか弘志。ここは空港だ。これから二人して東京に戻るところじゃないか」
まるで介護されているご老人のように介抱される二二歳の弘志。このまま東京まで戻ることができるのかと、二人は不安になる。
「さて、昭一の結婚式の次は、一体いつ三人で再会できるかな?」
「お盆か、正月か、はたまた数年先か。未来のことは分からないけど、いつかまた会いましょう。俺は室別にいるから、北海道に戻ってきたらいつでも声をかけてくれ」
「おうよ。わかったか、弘志?」
「Zzz・・・」
貴之と昭一の血管が同時に切れた。やがて、二人は目を合わせ、取るべき行動は一つしかないと確信した。
「「くらえぇぇぇいぃぃ!『空中なんちゃらチョップ!!』」」
このやり取りは、三回ほど繰り返された。
どうにかして、弘志の意識をはっきりさせた後、昭一の車は室別へと戻っていった。隣で弘志が間抜け面して昭一の車に手を振っていたが、貴之は捨てられた子猫のような心境であった。あの車は実家のある室別まで僕を運んでくれる。だけど、僕の行先はあの会社がある東京だ。お願いだ、僕を室別まで送ってくれ! と
「どうした、貴之?」
「あ、な、何でもないよ」
ストレスのない弘志が、どれだけうらやましいかと、貴之は、弘志の間抜け面を見て改めて懇願する。
貴之は赤色がメインの航空会社、弘志は青色がメインの航空会社であったため、二人は中央のロビーで別れることにした。と言っても、二人とも行先は同じ東京ではあるが。
今度こそ、東京で会おうなと、弘志は二日酔いの半分死んでいる声で言ってくれた。その気持ちはすごくうれしかったが、恐らく、休日は有希子に費やすことになるだろう。そして、ややふらついた状態で青色がメインの航空会社のチェックインカウンターに向かう弘志を見て、無事に東京にたどり着けるかと、心配になる貴之である。
有希子と東京で会う約束をしなければ、東京行の飛行機が地獄へ連れていかれるようなものになっていた。楽しみなイベントが何もないためだ。
有希子と会わなければ、東京での暮らしは何を目的として生きていくのかわからない。絶望の地へ連行される貴之は、ひょっとしたら機内で泣いていたかもしれない。X線検査場を通過して、機内搭乗までの待ち時間に、貴之は登録された有希子のアドレス帳を見ながらつぶやいていた。
二三日
東京に戻ってきた貴之は、一気に現実に引き戻された。出社早々、机には大量の書類や回覧物が山積みになっていた。たかだか一日の有給休暇の間にである。
パソコンには、案の定大量のメールが入っていた。三〇〇件近くはあるだろうか。それも、四〇件は上司や先輩からの説教メールである。企画書について、A案でいくと回覧を出したら、鮫田は『B案にするのが普通だろうが』と、勝手にB案にして回覧したと、メールが投げつけられていた。
その後、決裁する牧岡課長が『B案を選択するはバカじゃないのか? だからお前はダメなんだ!』と、メールが投げつけられていた。自分がA案として押し進めたわけではないのにも関わらずだ。
最後には、この案は牧岡課長の独断によって、廃案となったと、メールが入っていた。そういえば、前にも、こんなやり取りがあったような気がする。
鮫田と牧岡課長の仲は見かけは良好であり、時折談笑もするが、きっと本音で仕事をすれば意見が対立するのだろう。そのしわ寄せが、すべて僕に向かっていると、貴之は彼なりの人間観察やプロファイリングをした。
どうやら、この職場は、僕の担当印があった地点で、何でもかんでもダメ出しをする風習があるようだ。思えば、一ヵ月前にも同様なことがあった。つまり、この会社の人間関係は、見えないところでそりが合わないのではないか。その原因を、新入社員という生贄にあてつけているのではないだろうかと、貴之は不審になっていた。
始業してすぐ、企画書について鮫田に怒鳴られた。一体何のことで怒鳴っているのかさっぱりわからない。挙句の果てには、『お前のためを思って怒っているんだ』と、どこかのドラマで悪役が言うセリフが飛び込んできた。
だが、それは自分の身を守るために怒鳴っているに違いない。上司や先輩が理想としている仕事の進め方に少しでも舵がずれれば、『俺の教えがわからないお前が悪い!』と、自分の非を認めることは決してない。
こいつらがどれだけ人間性が最低なのかは、人相を見ればわかる。目が笑っていない。常に不機嫌な表情。笑いの種はいつも誰かの悪口。すべてが歴史上の偉大な人物と正反対である。近年で言えば、有名なカリスマコーチが掲げた『会社に愛を』とは正反対の会社の連中である。
そもそも、新入社員相手に五年目クラスの仕事を平気で振ること自体がおかしい。どうやら、上司や先輩は、自分が新入社員の頃などパンドラの箱にでもしまったのか、仕事ができなかった自分は黒歴史として扱っているのだろうか。こいつらは、新入社員の仕事の能力が自分より少しだけレベルが低いものと思い込んでいるようだ。
果たして、この職場で定年まで生きていけるのだろうか。『わからないことは何でも聞け!』と言われ質問をしてみると、『ちゃんと調べてから質問して来い! それが礼儀だろ?』と、あまりに矛盾な答えをする人たちの集まりだ。
これは鮫田や牧岡課長だけではない。会社のほぼすべての人が当てはまる。こんな職場で仕事なんかやっていられるかと、貴之は絶望にかられていた。
だが、そんな絶望の職場にいても、貴之には一筋の光があった。今度の土曜日に、有希子と一緒に会うのだ。今の貴之にとって、有希子と会えることが人生の支えとなっていた。きっと、昭一の結婚式で有希子と出会っていなければ、今頃自分は会社を辞めて実家に戻っていたか、自殺していたかのどちらかだろう。支えになるものが何もないのだから・・・
二八日
昭一の結婚式から最初の土曜日。実に長い五日間が終わったのち、貴之と有希子は約束通り、東京で会うこととなった。待ち合わせ場所は、原宿の明治神宮通りの交差点であった。
なぜ原宿になったのかと言えば、貴之は、どこで待ち合わせをすればいいか、ネットの力を借りて模索していた。やはり、お洒落な雰囲気を出したいなら、原宿でしょ、という結論に達しただけであった。
有希子と会ってからどこに行こうかとも考えた。恐らく二人で話をするのだろうと思い、お洒落なカフェをネットの力を借りて模索していた。やはり、お洒落な雰囲気を出したいなら、パンケーキでしょ、という結論に達した。うーむ、まさに典型的なマニュアル人間。
ちなみに、パンケーキのお店は、グルメサイトでトップにランクインしたお店であった。さらに言えば、貴之はこれまで、パンケーキという食べ物を一度も口にしたことがなく、ホットケーキのパチモンだと思っていた。ちなみに、室別市にはパンケーキ店という、お洒落なお店は存在していない。
貴之はとある誤算をしていた。神宮前交差点に群がる人の多さを、貴之は知らなかった。待ち合わせは土曜日の一二時。交差点は学校が休みの学生やOLがこぞっていた。
中には、見た目小学生くらいの女子グループがつけまつげやほっぺに薄い桃色のファンデーションをつけた、いわゆる原宿系と呼ばれる格好をしながらクレープを食べ歩いていた。とてもじゃないが、室別では考えられない小学生集団である。流行に疎い貴之が原宿系と呼ばれるファッションを知ったのは、待ち時間の間にネット検索で『原宿 つけまつげ 小学生』と調べたためである。
まるで異国のような環境で、信号が変わるたびに、どこからかわからないが、次々と人が湧いて出てくる。これだけの人の多さで、果たして有希子を見つけることができるのかと、貴之はハラハラしていた。
通りすがる人たちを見ていると、美男美女が多い。さらに、ルックスだけでなく、ファッションも非常に洗練されている。あちこちでファッション雑誌から飛び出してきたような感覚だ。室別市がいかに狭い世界なのだろうかと、振り返った。
待つこと一〇分程度、貴之の有希子レーダーが反応した。向こうから信号を待つ有希子を見つけることができた。なんて奴だ。一月のゲレンデといい昭一の結婚式といい、貴之の有希子探知レーダーは恐れ多いものがある。
貴之は有希子がわかるように大きく両手を振っていた。まさに、田舎者丸出しである。だが、そのかいあってか、有希子は貴之に気が付くことができ、二人は無事に合流するとができた。
「遅れてすみません、待ちました?」
「全然だよ」
有希子の姿は、道行く美女と引けを取らないほど容姿をしていた。ファッションにもぬかりがない。女性ファッション誌でよくある、三〇日間着回しコーデで『今日はバイト先の先輩と初デート』のキャッチコピーで着ていそうなファッションであった。
さりげなさが女子ファッションではキモとなるが、モノトーンのちびドットスカートが品の良さを出しており、露骨すぎないけど、かといって地味でもない、絶妙のバランスが保たれていた。
だが、田舎者の貴之にとっては何でも同じように見えるようであり、『おしゃれだ』の一言で終わってしまうほど、ファッションに関しては縁がない。室別市の広報誌にお洒落さんとして、掲載されている過去があるにも関わらず。
東京は待ち合わせをするだけでも一苦労すると貴之は感じた。これが室別市なら、待ち合わせ場所に立っていれば、五〇メートル離れた場所からでも特定できる。人が歩いていないためだ。
「そ、それじゃあ、時間も時間なので、どこかにご飯を食べに行きましょうか」
こうして、貴之は台本を覚えてきたかのように、待ち合わせ場所すぐのパンケーキ屋に向かうことにした。向かうといっても、先ほど有希子が渡ってきた横断歩道を渡った先にあるビルのため、大して時間はかからなかった。
「貴之さん、もしかして、このビルの最上階のパンケーキ屋に行こうとしてます?」
ギクりとした。初夏の日差しがまぶしい中で、冷や汗が出てきた。まさにその通りであった。これはまずいぞ、ネットで手軽に調べてきたんだろ? と思われたに違いない。よくある間違いを犯した貴之であったが、ここはおとなしく認めるしか道はなかった。
「そ、そのつもりだったけど」
あぁ、こんなことなら代替のBパターンを用意しておけばよかった。代替案を用意するのは、やり手のビジネスマンの常とう手段だよな・・・
貴之があくせくしている中、有希子が微笑みながら話をする。
「ここのパンケーキ屋さん、実は私が東京に来てすぐに行ったんだけど。混んでる割に味は大したことなかったわ。せっかくだから、穴場の場所があるの。別にパンケーキじゃなくても問題ないですよね?」
パンケーキをホットケーキのパチモンとしかとらえていなかった貴之は、最初からパンケーキには興味がなかったため、有希子の穴場の案に従うことにした。
有希子が案内したのは、待ち合わせ場所から一〇分歩いた場所にある、ラグジュアリーホテルのラウンジであった。畏まった空気に豪華なシャンデリア、さらに壁には滝が流れており、床には厚手の赤いじゅうたんが敷かれていた。さらに人もゴミゴミとしていない。先ほどのパンケーキ店には下品な女子高生がギャーギャーと騒いでいたのが容易に想像できたが、このホテルラウンジは騒ぐ子供がいない。上品な会話がBGMとなっていた。
なんだか、僕という人間がこのホテルにいるのが場違いのように貴之は感じ取った。ドレスコードは、スーツで来なければならないエリアではないか? 確かに、弘志の言う通り、昭一が挙げた室別の結婚式会場のホテルは高校野球レベルで、東京の一流ホテルはメジャーリーグレベルと言っても過言ではなかった。
待ち時間もなく、案内されたテーブルには、周りとの距離が三メートル以上確保されており、二人の空間が十分に保たれていた。これなら、込み入った話をしても、周りに聞き耳を持たれる心配はない。
メニューと温かい厚手のおしぼりが届いた。ウエイターの姿勢が良く、きびきびと動いている。おそらく、有希子さんに案内されなければ、この世界は一生分かり得ることはなかっただろう。全く未知の世界を体験出来て、驚きと興奮が隠せない貴之である。
このホテルに来てよかったと思ったのもつかの間、メニューをめくった貴之に衝撃の事実が襲い掛かる。
コーヒー一杯一五〇〇円!
ケーキセット二五〇〇円!!
アフタヌーンティーセットという、わけのわからないセットに至っては、四二〇〇円!!! ひと昔のドラマを引用すると、『なんじゃこりゃ!』の貴之であった。
「貴之さん、決まりました?」
松屋に行くくらいなら、もっとコスパの良い吉野家の牛丼で済ませるレベルの貴之にとって、一〇〇〇円以上のメニューは未知の世界であり、現実を突きつけた。正直、ケチって一五〇〇円のコーヒーにしようか悩んでいた。
だが、社会人となった今では金銭感覚が、室別市にいた時とは収入が桁違いに懐に入っているため、ややマヒしつつある。ケチ臭い男は嫌われると、昔から言われているため、貴之は冒険に出ることにした。
「はい、このアフタヌーンティーセットっていうものを頼もうかと」
「えぇ! これ、四八〇〇円もしますよ。私はケーキセットにしようと・・・」
「なら、一緒に頼みましょうか? ここは僕が払いますよ」
「えぇ? い、いいんですか?」
「有希子さんは忘れているかもしれませんが、バレンタインチョコをもらったお返しをまだしてなかったから、これは、そのお返しということで」
「そういえば、そんなこともありましたね。まだ半年も経ってないのに、すっかり忘れてたわ」
有希子はくすっと笑った。貴之もほっこり笑顔になった。周り廻って、念願叶って、どうにかバレンタインのお返しをすることができた。実に、三ヵ月近く遅れたお返しであった。
土曜日に会おうとは言ったものの、会って何をするかまでは特に決めていない二人であった。そもそも有希子とは、これまであまり会話をしたことがない貴之である。まともに話をしたのは、一月のゲレンデと、バレンタインと、昭一の結婚式の時である。学祭での会話は貴之はカウントに入れているが、有希子が貴之と認識していないため、ここでは除外とする。
「貴之さんって、休みに何してるのですか?」
なんと、有希子さんの方から話をしてくれた。これは棚ぼたごっつぁんゴールか? いや、そもそも二人で会っているのだから、話しかけられるのは当然か。だが、有希子さんは、面と向かってずっとスマホを操作していない。何と人間ができているのだろうと、貴之は偏った感激をしていた。
「そうだね、ずっと家にいるかな?」
有希子はハッとした。忘れていた、貴之さんも私と同じだったんだ。会社から解放された時間を少しでも長く味わっていたいから、ずっと引きこもっていたんだった。
「そ、そうだったわ。ずっと家にいたんですよね。そ、それなら、今日私と会ったことって、迷惑でした?」
「い、いや。そんなことはないです。その、むしろ、よかったです」
「本当ですか? よかったぁ」
「はい、全然」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
会話が続かない。そもそも合コンは好きじゃないため、あまり話慣れていない人と話すことは、貴之にとって、非常にハードルの高いものであった。何を話そうかと、あれこれ悩んでいても、答えがさっぱり見つからない。沈黙が怖い。
「失礼します。お待たせしました。こちら、アフタヌーンティーセットとなります」
気まずい雰囲気の時に、ウエイターが割って入ってきた。もしかすると、この手のことも教育されているのだろうかと、貴之は勝手に感心していた。
出てきたのは、お皿が三段になっている鳥かごのようなものであった。三つのお皿には、ケーキやらサンドイッチが載せられていた。ケーキともパンとも違うものがもあるが、これまでに見たことのない形をしていて、これは素手で食べるのか、付いてきたフォークで食べるのか、さっぱりわからない。ウエイターの説明では『スコーン』と呼ばれるものらしい・・・とにかく、名前の地点で訳が分からなかったが、実際に見てもよくわからない食べものが登場した。こんなもの、室別にいた時には見たことがないと、驚愕する貴之である。
「すっごーい! 実は一度食べてみたかったんだ」
有希子は目をキラキラと輝かせ、アフタヌーンティーセットをスマホの写真機能で連射していた。確かに、この訳の分からん三段セットは物珍しいと貴之は思ったが、有希子が喜んでいるのは違う。
後になってわかったことだが、このアフタヌーンティーセットと呼ばれるのものは、女性のあこがれの食事らしい。イメージとしては、時間を持て余した貴婦人二、三名が、『あら、いやだわー』と手招きながら、背筋を伸ばして上品に食べるのが、アフタヌーンティーセットとなるものらしい。どうやら、ティーカップの持ち方やケーキの食べ方にマナーがあるようだが、二人はかけらもわからなかったようで、周りの人たちの真似をしながら、あくせくしていた。
いただきます、と満面の笑みで一口サイズのケーキ食べる有希子。これまで一度も味わったことのないケーキに感動して、さらに満面の笑みを浮かべる。
正直かわいい。貴之はとっさに、アフタヌーンティーセットの写真を撮るふりをして、有希子の表情を盗撮した。立派な犯罪である。調べに対し容疑者は、『アフタヌーンティーセットの写真を撮ったら、たまたま有希子さんが映ってしまった』などと供述している。
「このケーキすっごくおいしいです。貴之さん食べました?」
「えぇ、こんなケーキ、初めて食べました。室別には、この手の食べ物なんかなかったですから」
二人が食べているのは、ケーキではなくスコーンである。
「ですよねー。私は三月に札幌に戻ったときに、食べたんですけど、どうも本物とは思えなくて。やっぱり東京のホテルラウンジでの本場のアフタヌーンティーセットは格別よね」
札幌に戻ったということは、実家が札幌なのだろうか。室別市の住人から見れば札幌は大都会であり、上京イコール札幌という構図になっている。ちなみに、東京や大阪は外国扱いである。
「三月に札幌に戻ったっていうと、有希子さんは札幌が地元なんですね」
「!!・・・え、えぇ。そうです」
今の間は何だったのだろうか。何か聞いてはいけないことを聞いてしまったかのようだ。この話題はすぐに終えて、別の話題にするべきか? だが、一体何がいけなかったのだろうか。
「その、貴之さんは、会社で何があったのですか?」
貴之が次の会話をあれこれ頭の中で働かせていた時、有希子が口を開いた。
有希子が結婚式の会場で、貴之が言った『僕も同じだよ』。それは一体どのようなものかを、有希子は知りたがっていた。表面上のことは話したが、中身まではまだ話してはいなかった。正直話すことに抵抗はあったが、貴之は腹をくくり、有希子に話すことにした。
「僕の会社の上司や先輩は、僕の名前が担当である書類は、全てにおいて難癖をつけるようなものです。そこには法律なんてものはありません。ある種会社が一つの星となっているようなもので、各部門は国家に相当します。なので、その国家特有の法律がろくでもない人物によって制定されています。僕は、六法全書を持つことができないまま、訳の分からない法律に縛られています。そして、法律を破れば、罰が待っています」
話を聞いている有希子の表情がみるみる凍り付いていった。先ほどまであれほどはしゃいでいたアフタヌーンティーセットに手を付けてず、貴之の話を聞いていた。スコーンなどを優雅に食べて聞く話ではないのだろう。
「なんだか、貴之さんの方がおぞましい体験をしているような気がします」
「い、いや。男社会と女社会とでは、感じるものに違いがあるような気がします。こう、女社会は小姑のように、ドロドロしたようなものが渦巻いているような」
「私が貴之さんの立場なら、もう心が折れています」
一体何の会話なのだろうか。お互いがお互いを謙遜するも、どことなく傷つけあっていることに二人は気が付いていない。とても、室別大学の学祭で出会った二人の会話とはかけ離れていた。
かれこれ一時間近くは、お互いの会社の闇について話していた。やがて、高そうな陶器製のポットに入っていた紅茶が全てなくなり、周りも混雑してきたことから、二人は席を立つことにした。貴之にとっては、実に夢のような時間であった。
「本当にいいんですか、貴之さんに全額払わせてしまって」
「いいんですよ。もう社会人だから、金欠というわけではないですし。それに言ったじゃないですか、これはバレンタインのお返しのホワイトデー代わりですって」
会計の際、貴之はやや格好をつけて長財布から一万円札を差し出した。だが、レジに打ち出された金額は一万円を超えていた。これはどういうことだ? 四八〇〇円が二つなら、九六〇〇円ではないのか。四〇〇円のおつりがくるはずだ。必死になって伝票を見ると、衝撃の内容が目に飛び込んできた。
貴之は、ホテルならではの法律である、サービス料を知らなかった。そのため、ここでの会計は一万円を超えてしまった。正直、ぼったくりではないのか? と、貴之は疑心暗鬼になっていた。だが、逆らうわけにもいかず、やむなく財布から千円札を追加で一枚出すことにした。
「それでは、今日はごちそうさまでした。初めて、アフタヌーンティーを食べることができて、とてもうれしかったです」
「そ、そうだね」
一食五千円以上×二人分。こんな贅沢な食事をしたのは、このかたなかった。それも、ディナーではなくランチで記録を創ることになるとは。
だが、そんなみみっちぃことは、どうでもよかった。なぜなら、この次も有希子と会う約束を取り付けたのだ。徐々に、二人の距離が縮まって終いにはあれやこれや・・・
「来週の一週間、何とか乗り切りましょう」
そうだった。明後日にはまた仕事が始まる。せっかく仕事のことを忘れていたのに、思い出させてくれるとは。だが、この一週間を乗り切れば、また有希子さんに会うことができる。そうやって、貴之は生きていく糧を見つけたようだ。
「そうですね。僕も何とかして乗り切ります。そして、また来週、元気な姿でお会いしましょう」
二人は無数の人が群がる表参道の交差点で、笑顔で手を振って別れた。貴之は地下鉄に乗って独身寮に帰ろうとしたが、この日は土曜日のため、翌日も会社に行かなくてよいことに気が付いた。きっと、有希子も同じことを考えているに違いないと、貴之は読んでいた。
時刻は一五時を少し過ぎたころ。独身寮に帰るのはもう少ししてからと決め、どこかで時間をつぶそうか。会社が始まるまでまだ四〇時間近くあるから、あたりを散策しようか。
だが、ここは表参道である。日本一お洒落なエリアとして名をとどろかせているだけあって、見渡す限りお洒落な建物が並んでいると、ファッションに疎い貴之ですら理解できていた。こんな田舎者丸出しの人間が、果たしてお洒落なショップに入っていいものなのか。
貴之があたりを見回していると、貴之に備わっていると思われる有希子レーダーが反応した。交差点の向こうで、有希子がこちらをじっと見て立ち尽くしていることに気が付いた。その表情は曇っていたように思えた。さっきまであれだけ楽しそうにしていたのに。貴之は感づいた。これは、僕に行かないでほしいというサインか? と。
思い上がるな! というツッコミがありそうだが、単なるうぬぼれではない。似たような経験を貴之はしていた。昭一の車で室別から新千歳空港まで送ってもらった時だ。あの時、室別に戻る昭一の車を止めたい衝動に駆られていた。僕を地獄から救ってくれ! と。
これは経験した者にしかわからない感情であった。頼れる人がいなくなると、また独りぼっち。それだけならまだいいが、独りぼっちで古代の神話に出てきそうな強情な敵と戦わなければならない。
この場を離れるわけにはいかない。それに、自身も有希子ともう少し一緒にいたい貴之である。いや、もう少しという表現では生ぬるい。できることなら、ずっと一緒にいたい。
貴之は、勇気を出して、やや小走りで立ち尽くしている有希子のもとに駆け寄る。
「有希子さん・・・もう少し、一緒にいましょうか。恩着せがましいかもしれませんが。それに、まだ三時ですし」
「貴之さん・・・」
有希子は貴之の胸に、顔をこつんとぶつけた。
「ありがとう、貴之さん・・・」
二人が向かったのは、渋谷にある大型書店だ。地下鉄に乗って渋谷に向かおうとも考えたが、二人の時間を満喫したい思いため、時間をかけてのんびり歩いて渋谷に向かった。書店に着くと向かった先は、メンタルヘルスコーナーであった。二〇代前半の男女がペアでたたずむ場所にはあまりに場違いすぎるコーナーである。
次に向かった先は、自己啓発コーナーである。この現状を何としても打破したい想いと、成功した偉人は一体どのような志だったのかを貴之が知りたかったためである。これまでは、ちゃらんぽらんに生きてきたためか、読書とは無縁であった。だが、今は明日を生きるための知恵を身に着けるために、率先して本を読み漁ろうとしていた。
渋谷と言えば、日本有数の若者の聖地であり、次代を先どるファッションの発信地でもある。事実、渋谷には有希子ですら目を見張るようなお洒落な人がわんさかといる。室別市で着ていたら仮装パーティーかのような服も、渋谷という町ではお洒落を演出している。
にもかかわらず、この大学を卒業したばかりの若者二人は、本屋に一時間ばかりいた。お洒落なショップに興味はない。着飾ったところで、会社でストレスが避けられるかと言えば、そんなことはないことを知っていた。
今ではバスケットボールストリートの名称である旧センター街入り口付近では、ファッション雑誌のストリートスナップと呼ばれる、一般読者が着飾って雑誌に掲載されるコーナーの撮影会があちこちで行われていた。
その撮影会の横を貴之と有希子が興味がない素振りで通り過ぎる。今まさに撮影されている金髪ギラつきファッションのカップルより、貴之と有希子の方が顔やスタイルは圧倒的にレベルが高かった。ファッションに興味が出れば、専属モデルになれるチャンスがあるかもしれないが、今の二人には明日どうやって生きていくかの方が重要であった。
傷を舐め合う二人であった。お互いがお互いの傷をいやす。会話は少なくとも、心では通じ合っているものが、そこにはあった。
渋谷の書店に一時間ばかりいた後、二人は今度こそ別れることになった。貴之と有希子の今の現状にあった本をそれぞれ購入して、来週からの五日間精いっぱい生きようと誓った。有希子が帰る京王井の頭線の乗り場方面に歩いていき、人ごみに埋もれて、自身の有希子レーダーが感知できなくなるまで見送ったのち、貴之も家路につくため、JR線の改札口に向かった。
帰宅した貴之のスマートフォンに、メッセージが届いていた。一瞬会社からの呼び出しかとドキッとしたが、有希子からのメールだと分かり、ホッとした。気が滅入っていると、全ての出来事がマイナス思考になるのだと、貴之は改めて感じた。
『貴之さん、今日は会えて楽しかったです。暗い東京生活にようやく明かりが見えてきました』
貴之も同じ答えだ。有希子の存在が、今の生きる支えになっている。
有希子とのメールが落ち着いた後、今日食べたアフタヌーンティーセットのサービス料はぼったくりではないのかと、ネットで調べてみたが、どうやら合法であるらしい。都会には、やたらと知らないからくりがあるものだと、貴之は軽いカルチャーショックを受けていた。ちなみに貴之は知ることはなかったが、昭一が挙げた結婚の会場のホテルでも、サービス料は発生する。
貴之はスマートフォンの有希子の電話帳に、アフタヌーンティーに喜んでいるところを隠し撮りした写真を登録した。
それからの二人は、毎日メールで連絡を取り、週末には頻繁に会っていた。
よく行ったのは書店だった。メンタルケアや自己啓発書のコーナーで、今の自分たちに当てはまる本を買った。
印象的だったのは、こころの指数だ。仕事はできるけど、人間性は低い人たちが世の中には多い。つまり、知能指数は高くても人間性は低い。これらの人たちは、近いうちに権力者の怒りを買って干されるか、四面楚歌を味わうことが避けられないと書いてあった。今の二人の症状と回復薬にはぴったりの言葉だ。