四月 社会の闇と孤独が牙をむく
四月
「こら浅水! またお前か?」
「は、はい、すみません」
社会人になって一〇日目、貴之は早くも絶望していた。訳の分からないことで上司は荒れ狂うように怒り、何が何だかわからないまま一日が終わっていく。この人たちの怒りのエネルギーは、どこから来ているのだろうか。このエネルギーを自身の仕事に活かせば、どれだけの成果があげられるのだろうかと考える貴之である。
「こんなんで仕事になる訳ないだろ! 何考えてるんだお前は!? 本当に何もできないんだな!! こんな調子ならお前は使いのものにならないから、さっさと会社を辞めたらどうだ、えぇ!!?」
ひとりで勝手にヒートアップして、持っていた書類を投げつけるのは、貴之の一〇年先輩である鮫田である。この光景は会社では日常茶飯事なのか、周りの人は何事もなかったかのように仕事している。
段々と会社に行くのが苦痛になっていく。これは世間一般で言われている、五月病か。いや、まだ四月だ。それならば、うつ病か。
独身寮に帰っても、話し相手は誰もいなかった。それに、口にすることいえば、『おはようございます』『申し訳ありません』『お疲れ様です』の三つのフレーズだけで一日が乗り切れる。
帰ってすることといえば、楽しかった大学時代を振り返ることだ。こうでもしないと、生きていることが辛くて仕方がなかった。少しでも現実逃避をするべく、いろいろなことを振り返っていた。
有希子さんとスキーをしたこと(正しくは弘志と昭一とだけど)。
教授に豆まきをしたこと。
有希子さんからバレンタインチョコをもらったこと。
弘志と昭一の三人で岬で叫んだこと。
全て今年に入ってからの出来事だ。社会人になれば、これだけぶっ飛んだことはもうできないと覚悟を決めていたが、まさかこれだけの荒波にもまれるとは。
この先、四〇年間もこんな監獄みたいな生活をしていかなければならないのか。まるで懲役四〇年の実刑判決を受けたようだ。それより怖いのが、ゆくゆくは自分もこんな心無い人間に成り代わってしまうことであった。
日に日にやつれていくのが、貴之自身にもわかっていた。
A・Bの二つのどちらでもいい仕事に対して、徹底的に自身とは逆の仕事を正とする方針が上司たちにはある。だから、貴之がAパターンの仕事を選べば、「なぜBパターンの仕事をしなかったのか」と鮫田に怒鳴られ、Bパターンの仕事を選べば、「なぜAパターンの仕事をしなかったのか」と鮫田に怒鳴られる。
周りの上司や先輩も一体何が楽しみで人生を送っているのだろうか。どうでもいいことに全員が怒鳴り散らして。その上飲み会が大好きで、いつも帰宅はスナックが閉店する時間まで居座る。そして翌日は、寝不足と二日酔いで頭が回らない中での仕事。明らかに非効率だ。バカげている。本を読んだり資格試験の勉強をしたりと、人生ではやることはいくらでもあるはずだ。お店の方も長居をされては回転率が悪くなるから迷惑に思っているに違いない。
何かの本で読んだことがあるけど、『あなたの上司や先輩の姿が、あなたの将来に姿だ』という内容が本当なら、僕の将来はこんな人間とは思えないような人生を送るということになるのか? 貴之は、自身の将来に幻滅をしていた。
「浅水!! ちょっと来い!!!」
「はぃ・・・」
また変なことで怒られなきゃいけないのか。こいつらは僕を育てようとして怒っているのか、ストレスの発散で怒っているのかはっきりしない。怒ることでドーパミンが生まれて快感に浸っている人種なのだろうか。本当に四〇年もこの会社で人生を送っていいのか?
貴之の不信感は日に日に募っていく。
ある日、仕事の関係で、港区の防波堤倉庫に行くこととなった。東京湾と陸地の境目での場所であり、商業施設もない区域のため、当然の如く公共の交通機関が行き届いていない。そのため、レンタカーを借りて車で向かうことにした。
貴之が運転する狭い車内で、助手席にはぶすっと不機嫌そうなしかめ面をしている鮫田がいた。この沈黙する空気に耐えきれなくなった貴之は、ラジオをつけた。ラジオから流れてくる番組は、電話を通して、人生相談をしてもらえる内容だ。
『人生には苦しみや悩みがあるものだ。中には、誰にも相談できない、悩みや苦しみがあるでしょう。そんな時、各界の専門家があなたのご相談に応じます』
ラジオを聞いていて、今の自分にまさに当てはまると直感した。貴之は運転に集中しつつ、ラジオ番組に熱心に耳を傾けた。
今日の相談者は、職場でパワハラを受けている新入社員からの相談だ。この相談者は、営業が担当であり、月単位でのノルマが相当厳しいらしい。新入社員であるにも関わらず、主任クラス並みの営業ノルマを与えられ、達成できない場合には、課長から激しい叱責と、休日を返上させた教育プログラムを受けなくてはいけないことに、心身ともに疲れたとの相談だ。
聞いていて、他人事ではないと、貴之は固唾をのんだ。
ラジオのパーソナリティーの人は、熱心に相談者に耳を傾けていた。さらに、相談者が本当は何に悩んでいるのか、本人ですら気が付いていない核心的な本質を探ろうとしていた。
素晴らしいコミュニケーションの取り方だと、貴之は驚愕した。自分の意見を押し付けず、相談者の話を最後まで聞こうとする姿勢に心を打たれた。仮に、隣の仏頂面にこの相談をしようものなら、話の途中で『甘ったれるな!』と怒鳴りだすだろう。口で指導しただけで、実際に何か行動してくれるかといえば、絶対にないだろう。
相談者の要点を、パーソナリティーが簡潔にまとめていた。営業ノルマが厳しい。休日がなく、深夜であろうと上司からの怒鳴りの電話が飛び込んでくる。今の現状をどうすればいいか。ラジオでは、パーソナリティーから専門家にバトンタッチされた。どうやら弁護士らしい。
弁護士の回答では、事実に基づいて会社の組合に相談、もしくは会社が信用できない場合は、労働監督署に届け出ることだった。さらに、相談者自身にも問題があることを指摘した。どうやら、物事全てが相手の言いなりになっているように捉えたらしい。
打開する具体的な行動として、『ノー』と言えることだ。何でもかんでも『イエス』と答えてしまっては、相手のための人生を送るためになってしまう。自分のための人生を生きるなら、たとえ小さな声でも『ノー』と言えることだ。
貴之は相談者を自分と置き換えて聞いていた。確かに、会社に入って、わからないことだらけで、何でも『イエス』と答えてきた。それは、上司や先輩のための人生を送っていることになる。
「しっかし、世の中こんな弱っちい生き物がいるんだな。こんな雑魚はさっさと自殺しちまえばいいんだ」
隣でしかめっ面の鮫田が、吐き捨てるように呟いている。この人間が管理職になれば、間違いなく職場は崩壊するであろう。果たして、自分はこの職場に命を削ってまで勤めたいと思うのだろうか。
「ノーと言える人間、か・・・」
ラジオの中ではさらに、周りで味方になりそうな人を見つけなさいと、アドバイスをしていた。例えば、あなたが熱いラーメンのドンブリを持って食卓に運んでいたとする。やがてあなたは熱さに耐えきれずにラーメンが入ったどんぶりを落として割ってしまう。
この時、「だから熱いから気をつけろと言ったじゃないか。次は気をつけろ」と言う人と、何も言わないが落としたラーメンを片付ける人がいるとする。あなたは、後者の手伝ってくれる人を味方につけるのだ。口でどれだけ素晴らしいことを言っても、行動が伴っていなければ、所詮戯言に過ぎずあなたに何のプラスの面がない。
貴之にとって、まさに理想の答えであった。だが、落としたラーメンの片づけを手伝ってくれる人など、この会社にはいないが。そもそも、新入社員の身で『ノー』と言えば、十中八九血祭りにつるし上げられる。鮫田に言えば、『生意気な人間だな? 新入社員に人権かあるわけねーだろ、ボケが!!』と罵られることが目に見えている。
貴之にとって、四月は楽しいことなど何一つなかった。弘志や昭一、有希子さんは新生活をどう楽しんでいるのだろうかと、聞いてみたくなった。有希子さんの連絡先は知らないが・・・