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一一月 人生で最も長く濃い一日

一一月


 一一月には祝日が二回ある。『文化の日』と『勤労感謝の日』だ。この月の祝日は、ハッピーマンデーという概念がなく、暦によっては二回とも飛び石連休になることもある。この年は、通称厄年、一部では宿命大殺界と呼ばれている。だが、運が良ければ三連休が二回訪れる年もある。この年は、通称豊作の年と呼ばれている。今年は運よく豊作の年であった。

 貴之は、後半の三連休(勤労感謝の日)の時に、祖母の様態が思わしく無いため、祖母が入院している札幌市に行くことにした。この期間は親族の家に泊まることになっており、行程的に室別の実家に戻る時間はなかった。そのため、室別にいる昭一には、北海道に戻っていると連絡は入れなかった。

 三連休のため、有給休暇を使わずに北海道に戻ることが可能なことから、会社には嫌味を言われることなはいと踏んでいた。だが、考えが甘かった。この会社では、三連休のうちどれか一日分は休日出勤をしなければいけない謎のしきたりがあった。当然、賃金は発生しない。

 思えば、一一月前半の三連休は、クライアントのアポがどうしても連休中にしか取れなかったため、たまたま休日出勤をしていただけだ。よくよく思い出せば、休日であるにもかかわらず、いつもの職場のように人がわんさかいた。さらに、これまでの連休は、お盆休みを除いては何かしらの業務の予定が入って出社していたため、自主的に会社に出てきてはいなかった。

 この会社の考えは、祝日は世間が休みボケに入っている中で働くことにより他社と差をつける、神様のプレゼントという風潮らしい。要は単なる休日出勤の強制だ。

 だが、一一月後半の三連休は貴之にとって正当な理由があるため、北海道に戻ることを譲らなかった。どうにか、三時間の説教と次週の土日返上での勤務でおとがめなしとなった。

 それにしても、三時間の説教には、相当なエネルギーを要するはずだ。きっと上司や先輩の残りの寿命が短いだろうと、貴之は想定した。できれば年内に奴らの寿命が尽きてくれればいいな、と。


二二日

 三回目の北海道への帰省。前日に『お前は新人のくせして、明日会社をさぼるんだな』と想定通り鮫田や牧岡課長から説教を受けた。だが、会社が休みの日に会社に出てこないことをさぼるというのはおかしい。与えられた休日に会社に行くことの方が問題だ。そろそろ内部告発か国の相談窓口に電話しようか本気で貴之は考え始めていた。

 新千歳空港行きの飛行機に乗って澄み渡った青い空を窓から眺めながら、なんだかんだ言って頻繁に北海道に戻ってきていると感じている。隣の席には、四〇代の中間管理職風のスーツを着た男性が座っていた。お盆休みの時には、飛行機が苦手でずっと寝ていた有希子がいた。

 だが、今となっては、その有希子はいなくなってしまった。つい三ヵ月前のことを振り返ると、涙が出てきそうになる貴之。ここで泣いては、周りから変な目で見られると思った貴之は、機内放送の落語のチャンネルを聞いて、気持ちを紛らわせようとしていた。

 この日は、いわゆる移動日扱いのため、飛行機で北海道に着いたのち、電車で札幌に向かい、駅で家族や親せきと合流することになっていた。

 札幌駅に向かう快速電車の中で、有希子は札幌の実家に戻っていると言っていた。内心、どこかで再会できればいいなと、淡い期待を寄せていた。

 合流場所となる新札幌駅に到着し、家族と合流した。札幌の厚別区にいる親族の家には札幌駅一つ手前の新札幌駅で降りたほうが好都合である。改札口の向こうに両親が待っており、そのまま車に乗り込んで、親せきの家に向かった。

 この時の時間は一五時を回っていたこともあり、お見舞いの時間にしてはやや遅いこともあってか、この日は親せきの家で一杯やることにし、祖母の見舞いは翌日に行くことになった。そのため、祖母の様態は、いわゆる『今夜が山だ』ではないようだ。


二三日

 三連休の中日に、貴之は祖母が入院している札幌の病院に朝一番で向かうことになった。父が運転する車で病院までは、札幌市内ではあるが、高速道路を利用した。厚別区から札幌中心部で車で向かうには、渋滞にはまれば一時間以上かかることがよくある。そのため、市内に住んでいても頻繁に高速道路を使用するのである。札幌北インターを下ってすぐに、祖母が入院している病院が見えてきた。

 祖母が入院している病室に向かう浅水一家。病棟は心臓外科であり、読んで字のごとく、主に心臓に疾患のある人が入院している。祖母の部屋について、姿を見たところ、そこまで重体なわけではなく、会話もできている。とりあえずは一安心といったところか。

「お元気そうでなによりで」

 よく聞くお決まりのフレーズが聞こえてくる。普通心臓が悪く入院したとなれば、入院患者から重苦しい雰囲気がひしひしと伝わってくるが、祖母にはそのようなそぶりは見られなかった。

「元気な姿で安心したよ。じゃあ、ちょっと飲み物を買ってくるね」

 貴之は飲み物を買いに、病棟の休憩スペースに向かった。大抵自動販売機は休憩スペースにあるものだと、過去の経験からか、貴之は踏んでいた。

 休憩スペースに行くと、案の定自動販売機があった。わざわざ一階の売店まで足を運ぶ労力なく、予想が的中したことに貴之はご満悦であった。

 自動販売機の前には、入院しているであろう女性患者が先に飲み物を買っていた。自分とと同じ年代くらいだろうか。自身と同じ年代で心臓が原因で入院だなんて、大変だなぁと余計なおせっかいを心の中で独り言を言っていた。

 女性がおつりを取るのに手を滑らせて、落としてしまった。一〇円玉が車輪のように貴之の足元へと転がり、ぶつかった。貴之は、はいどーぞと言わんばかりに、一〇円玉を女性に渡した。

「あっ、ありがとうございま・・・・ !!!!!」

「!!!!!!」

 お互いの顔を確認したとたん、両者とも驚きの表情を示した。


「ゆ、ゆ、有希子ぉ!!?」

「た、貴之? な、なんでここにいるの?」


 休憩スペースにいた入院患者たちが、突然大声を出した二人に視線が注がれた。近くで将棋を指していたおじいちゃんたちが『ケッ、若い奴らときたら朝からいちゃつきやがって』などと、つぶやいていた。

「い、いや。僕は祖母がこの病院に入院したから見舞いに来たんだけど、有希子はなぜ? その格好だと、この病院に入院していることだよね?」

 有希子はうつむきながら、覚悟を決めたようであった。

「そうね・・・ 全てを話す必要があるわね」

 貴之たちは、近くのソファーに腰を掛けた。二人は先ほど自動販売機で買った飲み物の蓋を開け、一口だけ飲んだ。そういえば、どことなく最後に会った時と比べてやつれているようにも見える。

「なんで、有希子はこの病院に入院しているの? ここって、心臓が悪い人のフロアだよね? ひょっとして・・・」

 有希子はややうつむきながら、少し間をおいて口を開いた。

「どこから話を始めようかしら・・・話を始めると、最初に大学の卒業式の前日に、倒れてしまったの。その時は症状が軽くて、二日の入院だけで済んだわ。だけど、四月の入社まででなんとか普通の生活を取り戻すために、三月いっぱいは実家で療養していたの」

「それじゃあ、大学の卒業式には参加できなかってこと?」

 有希子は黙ってうなずいた。つまりは、大学の卒業式には参加していなかったというため、あれだけ捜索しても見つからなかったことだと、貴之は振り返った。どれだけの人ごみの中でも、貴之になぜか備わっている、有希子を探し出す『有希子レーダー』を駆使しても、発見できなかったのは当然の結果であった。

 ここで貴之は、一つに腑におちない点に気が付いた。その真意を有希子に確かめた。

「じゃあ、卒業旅行で海外に行ったっていうのは?」

「なに、それ?」

 有希子は目をまあるくして、一体何のことかわからずきょとんとしていた。

「い、いや、その筋の情報によると、有希子は友達と海外に卒業旅行へ行ったっていう噂が流れてきたんだけど」

 しばらく沈黙した後、有希子がジュースを飲んで喉を潤した後で答えた。

「そんな話が広まっていたとはね。でもそれは、全くのデマね、きっと。私は卒業式の日から上京する直前まで、実家で療養していたし、これまでの人生で海外になんて行ったことないわ」

 やはり『その筋』というのは、当てにならない。単に噂が勝手に独り歩きしたのだろう。どこのどいつだ、デマをまき散らしたのは?

 そもそも、人から人へと伝言されれば、内容が一〇〇%正確になるとは限らない。昔のバラエティ番組で、ジェスチャーを九人くらいに伝えるコーナーがあったが、九人全員が正しく理解していることはほとんどなく、せいぜい最初の二,三人しか正しく伝わっていなかったことと同じであろうと、貴之はふと頭に出てきた。

 今思えば、初めてアフタヌーンティーセットを有希子と食べた時、三月に札幌に戻ったと言っていたが、それからの会話がぎこちなかった。あれは、札幌に帰った目的を聞かれたくなかったのだろう、きっと。

「それで、しばらくは身体は何ともなかったんだけど、八月が終わるころに、また身体が悪くなって。検査の結果は、長期の入院が必要なんだって。だから、決断を迫られたわ。会社に休職届を出すか、会社を辞めるか。でも、選択肢はなかったわ。私は会社を辞める方を取ったわ」

「それじゃあ、会社を辞めた理由は、例の人間関係じゃなくて、闘病しなくちゃいけないってこと?」

「えぇ」

 有希子が目線を下向剥けながら答えた。

「それに決断はもう一つしなければいけなかったわ。入院するのは東京か実家の札幌か、どちらかを迫られたわ」

「選んだ答えが、札幌だったわけか」

 またしても、有希子が黙ってうなずいた。実家である札幌での入院であれば、家族や親せきがサポートしてくれるため、東京よりは身の回りの環境が良いことは間違いないだろう。会社を辞めて札幌の実家に戻ったのは納得できる。だが、貴之にはまだ納得できないことがあった。

「となると、僕と別れるっていうのは、闘病するためだっていうことか?」

「その通りよ」

 貴之は、別れ話をされたとき、有希子が嘘をついていることを見破っていたが、終始打ち明けようか悩んでいた。だが、有希子が全てを語ったのであれば、僕も話をしようと、決心した。

「実は、有希子が僕に別れ話を切り出した時、有希子は嘘をついていると分かったんだ。有希子は嘘をつくときにはある癖があるからね」

 癖を教えてしまうと、有希子は今後その癖を意識して隠そうとするだろうとふんで、癖の内容はあえて伝えなかった。貴之は、早く次の話題に移そうと、やや早口でなおも話を続ける。

「その別れ話の時に思ったのが、一体何が有希子をここまで追い詰めたのだろうって思ったんだ。会社が嫌になったから? でも、有希子はどんな逆境が待っていようと乗り越えていこうとしていたんだよね。有希子の会社の増井さんが言ってたよ」

「貴之、エリに会ったの?」

 エリというのは、増井さんの下の名前だろうか。喫茶店に行ったときには彼女は苗字しか名乗らなかったため、一瞬誰のことかわからなかった。前に有希子が話してくれた時は、増井さんと言っていたので、それから関係が密になって下の名前で呼び合うようになったのだろう。

 貴之が首を縦に振ったのち、なおも話を続ける。

「増井さんは、有希子はどんなに苦しい時でも、決して逃げないで前を向ている素敵な女性だって、言ってたよ。増井さんも、どうして会社を突然辞めたのか、わからないって話していた。有希子は、誰にも打ち明けられない何かがあって、それで札幌に戻ったと勝手に想像したんだけど。まさか、病気が原因とはね・・・」

「エリには、本当のことを言おうか悩んだ。私はお局様に負けて会社を去るような、弱い女じゃないって伝えたかった。だけど、貴之にも言えなかったことを、エリに言えるかといえば、そんなことはなかった。それに、貴之が私の寮を尋ねて話を聞き出そうとするだってある。なら、誰にも本当のことを言わずに東京を去るのが、一番だと思った」

 貴之は状況が整理できたのか、やや強い口調で切り出した。

「札幌に戻るだけならまだしも、なぜ別れなくてはいけなかったんだ? 闘病するためなら、別れる必要はどこにもないじゃないか!」

「・・・ごめんなさい。貴之には、迷惑をかけたくはなかったから」

「そんな、迷惑だなんて」

「会社のストレスが強い中で、札幌にいる私と遠距離恋愛ができるほど、貴之には余裕がないと思ったわ。このままずるずるといけば、お互いに待っているのは破滅の道よ」

 貴之は何も言えなかった。確かに、有希子がいない東京の生活ですら、このままいけば、自身の精神の方が恐らく年内に病んでしまうことは目に見えていた。事実、既に精神が病む一歩手前の時まで来ていたのは事実だ。この精神状態で有希子の看病など、果たしてできただろうか。病人の看病は、健康な人でもうつになる傾向が多いというのにである。

 口では『俺に任せれば有希子は大丈夫だ』と言いたい。だが、口と精神は時に分離しているのであろう。口はうそをつくことができるが、本能に近い精神面ではうそは通用しない。であれば、本当に有希子に心配をかけずにサポートできただろうか。貴之はあれこれ考え始めたところに、有希子が口を開く。

「でも、これだけは言わせて。前に貴之が話してくれた、魔法の果実。遥ちゃんを助けるために探し出そうとしたっていう話。私ね、この病院に入院してから、その話がよく頭の中に出てくるんだ。その魔法の果実を食べることができたら、どれだけ幸せだったんだろうなって・・・今日会ったことは、あくまで事故ということにしてね。貴之は、これからもっと素敵な人と出会うことになるんだから」

 まるで、これが今生の別れのような有希子の話しぶりに、貴之が反発する。

「何言ってるんだよ? まさか、もうすぐ死ぬっていうのか? 縁起でもあるまいし。そんな病気くらいで別れるだなんて、僕の立場で納得できると思うのか」

「私も貴之とずっといたかった。それは本心よ。でも、現実を考えれば、私から身を引くしか、方法はなかった」

 有希子はやや不安な表情で、高鳴る左胸を押さえていた。

さらに、有希子は貴之に圧倒されていた。だが、闘病を理由にこのまま関係が終わることなど、素直にあきらめる貴之ではなかった。

「僕は待つよ。有希子が、元気になるまで。それまで僕も東京で死を選ばず、逃げずに生きていくよ」

「貴之・・・」

 有希子は、ひとつふたつと涙があふれていた。複雑に絡み合った糸が、徐々にほどけていった。

「それじゃあ、私が退院するまで恋人関係はお預け。それなら、問題ないでしょ? もし、私が退院出来て東京に行くことがあれば、その時は・・・私を養ってね」

「それはつまり、結婚・・・」

「その先は自分で考えてね。あと、白々しく『結婚?』って疑問形で言わないこと。熱気が冷めちゃうから」

 徐々に有希子が昔の口調に戻りつつある。僕を嫌煙している様子はないと、貴之は感じていた。やがて有希子は、それじゃと言わんばかりに席を立った。やや身体に力が入らないのか、自身の病室に戻るまでの間、何度か壁にある手すりを使いながら戻っていった。貴之は有希子の姿が見えなくなるのを確認するまで、その場に立っていた。

 やはり、結婚はお世辞で言ったのだろうか。それとも、叶わない願いを言っただけなのだろうか。

だが、有希子の下唇は前歯の裏側に引っ込めてはいなかったのを、貴之は見逃さなかった。

貴之は、親族たちに飲み物を買ってくると言ったきりだと気づき、慌てて祖母の病室に向かった。すっかり時間を取ってしまい、なんて言い訳をしようかとあれこれ考えていた時であった。

「いいか、患者の様態は今は落ち着いてはいるが、いつ危篤状態になるか分かったものじゃない。気を緩めるんじゃないぞ」

 通りすがりの医者と看護師の会話が聞こえてきた。表情から、患者の様態が切羽詰まっているのがわかる。それも、一般人がいる前で患者の様態のことを話すところを見ると、尚更だ。

「あと、くれぐれも倉田君本人には内密にな」

 倉田君・・・


 有希子のことだ! 


 通りすがりの医者と看護師の話を聞いて、貴之は血の気が引いた。やがて、身体におもりがかかったように、動きが鈍くなる。

「いつ危篤になるかわからないって! それってなんだよ?」

 脳内の整理が追い付かない。危篤って、いつ死ぬかわからないのか? 

 有希子は命に別状はないって言っていたけど、あれは本人には伝えられていないっていうのか? 

それなら、有希子の命はあとわずかしかないのか? 

 焦る貴之は、有希子のもとへ戻ろうとした。残り僅かな時間を共に過ごすべく。だが、本人には内密と言われた。一体どうして?

 貴之にとっては、何とも歯がゆかった。有希子を助け出したい。だけど、僕一人だけの力では、何もできないのが現実だ。何か策がないかと、あたふたしている時だ。


 何もかもが、遥の時と同じだ・・・


 やがて貴之は、当時遥を助けるために行動した、あの日の事を思い出した。そう、魔法の果実を手に入れるため、室別の岬に入ったことを。一二年前のことを思い返していた時、突如フラッシュバックのような感覚に陥った。あの時できなかった過ちをもう犯したくはない。

 やがて、貴之はある決断をした。

「今度こそ見つけ出そう、あの魔法の果実を。遥の時には見つけ出すことができなかったけど、今はもう大人だ。あの時とは知力も体力も成長した。果実が見つかる可能性は格段に上がった」

 決断するや否や、貴之はすぐに有希子の病室へと向かった。病室に有希子の名前が書かれている部屋を片っ端から探した。病室を探している光景が、遥の病室を探していた時と重なる。やがて、『倉田 有希子』と書かれたネームプレートを見つけた。病室に入ると、有希子はベッドで腰を丸めながら、外の景色を見ていた。

「ゆ、有希子。魔法の果実の話、信じてる?」

 再び現れた貴之を見た有希子は、少しぎょっとした。もう会うことはないと誓ったはずだったが、五分と経たないうちに感動の再会を果たすことができた。

魔法の果実の話を聞いた有希子は、首をゆっくり縦に振った。

「今から魔法の果実を取ってくるよ。何としても持って帰って、有希子の病気を治すんだ」

「貴之・・・」

 二,三日が危篤状態になると貴之は伝えたかった。だが、伝えたところでどうなる? かえってパニックになるだけじゃないか。それに、医者は口外するなと言っていた。そんな重大なことを病室の廊下で話すな! と、罵声を浴びせたかったが、時すでに遅し。

 そのため、貴之は平然を装おうと腹をくくった。せめて有希子の病気が少しでも良くなる道を選んだ。わずかばかりの希望となる、魔法の果実を食べて、元気になることだ。眉唾もいいところではあるが、ないよりはましである。いや、遥の時に叶わなかった願いを、今度こそ叶えるんだ。

「だから、有希子は安心して待っていなさい」

「・・・気持ちはうれしいけど、本当にそんな果実なんか見つけられるの?」

「任せなさい。今まで僕が一度として嘘をついたことがある? だから、この魔法の果実も確実に手に入れてくるよ」

「貴之、ありがとう・・・」

 有希子は感極まったのか、目に涙を浮かべていた。貴之は感じていた。有希子は単に僕のことを嫌いになったのではなく、病気と闘うため離れ離れになることを選んだことにより、僕と別れることを選んだのだと。有希子は僕のことを信じてくれている。

 何としても、魔法の果実を探し出そう。そして、もう一度有希子とアフタヌーンティーセットを食べるのだ。

 さらに、有希子の本心かは定かではないが、僕が有希子のことを養おうじゃないか。

「だからね、有希子。魔法の果実を取ってきたら、僕と・・・」

「その続きは、果実を取って来たとき言ってね」

「そうだね。指輪じゃなくて果実を渡すことになっちゃうけど」

 有希子がうっすら笑みを浮かべた。久々に見た笑顔だ。

 貴之は、果実を持って帰って来たときには、プロポーズしようと決めた。

「気を付けてね、貴之。私、待っているから・・・」

貴之は、病室を出る前に後ろを振り返ると、はにかんだ笑みで手を振る有希子だった。

その光景が、やけにスローモーションに見えた貴之であった。


 時刻は一二時三〇分。貴之は、室別の岬に向かうことにした。魔法の果実を見つけるためのリベンジとして。そして、有希子の命を救い出そうとして。

 飲み物を買いに出てから、ずいぶんと時間がかかったが、『遅い!』と文句は言われることもなく、特に不審に思われることもなかった。家族には、『祖母の様態は元気でホッとした。せっかく北海道に戻ってきたから、室別にいる友人に顔を出す』という理由をつけた。家族や親族は、特に不審な顔をせず『気を付けて』で終わった。なんともほのぼのとした家族でよかった。病気の祖母には何となく申し訳ないと思ったが、今は有希子が優先だ。

 すぐさま病院前にたむろしていた暇そうなタクシーに乗り込み、札幌駅に向かった。運よく、室別行きの特急の発車まで一〇分前だったこともあり、すぐに乗り込んだ。

 特急に乗っている間の貴之は、落ち着きがなかった。一気に現実が襲ってきたためだ。これから果実を捜索して、それからすぐに札幌にまた戻るとなると、想像以上にあわただしい。これを一人でできるのだろうか、と。それに、当初はこの三連休には室別の実家に向かうことなど考えいていなかった。

 ———まずは、実家に戻って、荷物を預けてからタクシーで岬に行こう。そして、時間が許す限り、果実を探そう。まてよ。東京行きの飛行機は明日の一八時ちょうど新千歳空港発の便だったな。だとすれば、空港には一七時には到着していないといけない。札幌から出発となれば、遅くとも一六時には出発しなければいけない。それに、室別から札幌までは一時間三〇分かかる。となれば、タイムリミットは、明日の朝だ。

 だが、夜の捜索はどうする。大人になったとはいえ、暗闇の捜索は実際のところ難しい。第一、家に大型の懐中電灯はなかったはずだ。後は雪かきをするためのスコップくらいしか役に立つものがないはずだ。

日中の捜索なら、一一月の日没であれば午後五時が限界か。もし五時までに果実を見つけ出すことができなければ、早朝に再捜索か。だとすれば、遅くとも札幌には一二時には着きたい。本当のタイムリミットは午前一〇時か。日の出は午前六時三〇分だとすれば三時間は捜索できる。

 いや、そんな時間なんかどうだっていい。果実が見つかるまで探すんだ。会社には有給休暇を使えばいいだけだ。ヤイヤイ文句を言われるに違いないが、命を取られるわけではない。いざとなれば辞表をたたきつけてやることもできる。なにより、今は有希子の命の方が大切だ———


 これからのことあれこれ考えているうちに、終点の室別についた。これが函館行きの特急であれば乗り過ごしていただろう。あっという間の一時間三〇分であった。

 室別駅を降りた貴之は、荷物を預けに実家に戻った。家族は全員札幌の病院に付きっきりのため、突然ドアが開いて驚かせることはなかった。実家に留めさせたタクシーで、貴之は岬に向かった。

「一二年ぶりか、魔法の果実の捜索は」

 だが、一つの不安材料があった。果たして一二年後の今日も、どこかで魔法の果実が実っているのだろうか。結局遥の件以来、テレビで魔法の果実を触れることはなかった。特急列車の移動中にネットで検索をかけてみるも、有力な情報はヒットしなかった。さらに、捜索に必要な道具が一切ないことだ。

 この選択は果たして正しかったのか? 残りわずな時間を、有希子と共に過ごしたほうが良かったのではないか? 貴之は室別に着いてから、自問自答していた。

 タクシーが岬に到着した。一一月の下旬で寒いためか、三連休の真ん中だというのに、車が一台も止まっていない。寂しい光景だ。だが、これは好都合だ。果実の捜索をしても、不審な目で見られることはない。意気込んで、貴之がタクシーから降りた。

「今から一二年前、僕はこの岬にいた。魔法の果実を探し出すためだ。あの時は見つけられなかったけど、今回は必ず見つけ出してやる! いや、今回は見つかる気がする。そうさ、願いを叶えるには、○○をしたいじゃなくて、○○をしている気がすると、すでに魔法の果実が手に入っている場面を想定しなきゃいけないと、何かの本で書いてあった。だから、僕はもう魔法の果実を手に入れているんだ。この場所には、ただ果実を取りに来ただけなんだ。もう僕を止められるものなどない!!」

「こんなところで何やってるんだ? 貴之」

 誰かが僕のことを呼んでいる。

 まずい、僕の言ったことが聞こえたのだろうか。

 貴之が慌てて後ろを振り返ると、目の前には・・・


 弘志と昭一がいた。


「お前ら、どうしてここに・・・」

「それはこっちが聞きたいよ。俺はいつでも室別にいる人間だぞ。室別にいることは別に不自然ではないじゃないか。それに、東京で暮らしているお前が室別にいることの方がよっぽど不自然だろ。まぁ、弘志は大学のOBとして、就職説明会に召集されたわけだけどな」

「い、いや、なんで室別市にいるか聞きたいわけじゃない。なんでお前たちが僕の後を追ってこの岬にいるかだよ」

「そうだな。大学の就職説明会が終わって時間があったから、少しばかり昭一の車でドライブをしていたら、貴之が何と実家から出ていくのを見つけた。というわけだ」

 弘志たちは、室別の観光名所と称して、貴之の実家を車から見ていたところ、なんと当の本人の貴之が実家から出てきたのだ。生霊が現れたのだと弘志は驚いたが、昭一も貴之の姿を見たことで、二人の目から、本人であることが断定された。

 昭一は慌ててクラクションを鳴らして、貴之に合図を出したが、聞こえていないのか、そのままタクシーに乗り込んだ。これはただ事ではないと察知し、特にやることもなかった二人は、『前のタクシーを追ってください』との如く、貴之の後を追うことにした。

 タクシーは岬へと進んでいった。確かに、徒歩では時間がかかる上に上り坂が続くため、タクシーでの移動は適切と言える。だけど、一体何の目的で、一人で岬に行くのだろうか。観光目的ではあるまい。貴之の地元はこの室別市だ。今さら観光などするわけがない。

まさか、岬から投身自殺を図るつもりか? 

 この岬は、今から約三〇年前であろうか。本州から若い男が人妻と子供の三人で逃避行した喘げく、女の夫が追いかけてきて、やがてこの岬で若い男と人妻が無理心中を遂げたという忌まわしき言い伝えがあったことを昭一は知っていた。

 まさか貴之も? 

 まて、早まってはいけない! 

 何としても貴之を止めなくては!!

 焦る弘志と昭一である。

「とは言いつつも、タクシーには貴之一人しか乗ってなかったよな。心中というには違う気が」

「何を言っているか昭一。いるじゃないか、あのタクシーに、貴之以外の人間が」

「乗客は貴之しか・・・ まさか! タクシーの運転手か?」

「そのとおりだ。貴之は恐らく、タクシーの運転手と共に無理心中を果たすつもりだ!」

「そんなバカな!」

「いいや、昭一、これは紛れもなく事実だろう。岬に到着するや否や、タクシーは駐車場に止まらずに、そのまま岬に突っ込み、やがては崖から太平洋に真っ逆さまに堕ちてDESIRE・・・なんてね」

「はぁ・・・」

「どっこい!!」

「?」

 二人はあれこれ勝手に妄想を膨らませていた。弘志や貴之の影響を長年受け続けてきたせいか、普段クールな昭一もぶっとんだ思考回路を働かせていた。だが、弘志は空前絶後にぶっ飛んだ思考をさく裂させ、昭一は途中から何が何だかわからず、最後には呆れてため息をついただけなのに『どっこい!!』と言われ、さらに何が何だか分からなくなっていた。

 貴之に無理心中のストーリーを話すと、『バッカじゃねーか!』と、激しい突っ込みを受けた二人であった。だが、本気でタクシー運転手と無理心中を断定した二人は、震えた笑い声をあげながら、どことなく安堵の表情を浮かべていた。

「ところで、貴之はこの岬に、一体何の用があるんだ? それも、わざわざ東京から来てまで。地元のお前なら、見飽きてる場所だろ?」

 弘志の質問は的を射ている。確かにそうだ。何の連絡もなく突然地元に帰ってくるのは、よほど事情があるに違いないと普通は思う。親族の見舞いに来たのは事実だが、岬に来たことについては、つじつまが合わない。適当なことを言ってごまかそうと貴之は考えたが、自分が嘘をついていることなど、この二人ならすぐにバレるだろう。

 なにせ親友なのだから。

「実は・・・」

 貴之は全てを話すことにした。有希子の様態が思わしくなく、いつ危篤な状態になってもおかしくはないということ。小学生の時幼馴染の遥を救うべく探した、どんな病気でも治す魔法の果実の存在。当時は見つからなかったが、わずかな奇跡を求め、再び探す決意をしたこと。二人に全てを話した。

 これまで、二人には遥のことや魔法の果実のことを貴之は話してはいなかった。この出来事は、貴之の胸にしまっておこうと小学生の時に誓いを立てたためであった。

「魔法の果実か・・・その話知っているな。俺も小学生の時テレビで見てて、そんな眉唾があるわけねーだろ! とバカにしていたけどな。テレビの内容で北海道にあるってことは覚えていたけど、その果実がこの岬にあるのか?」

「にわかに信じられる話ではないけどな」

 弘志に続き、昭一も懐疑的な発言をした。そりゃそうだろう。こんないかがわしい話なんか、普通は誰も信じない。

「そうだよな。この話を信じてまたこの岬に戻ってきた僕って、バカだよな。でも、僕はそのバカな話を真に受けてここまで来たんだ。もう後には引き返せないよ。それじゃあ、僕はこれから魔法の果実を探しに・・・」

「「ちょ、待てよ!」」

 岬に向かおうとする貴之を、二人はテレビの物まね番組でよく見るイケメン俳優のセリフで静止させる。

「確かに貴之の言うことは、信憑性が限りなくない。いや、今の小学生でも『そんなうまい話は詐欺だ』と言うだろう。でも、貴之がその魔法の果実を探そうっていうなら、俺たちも手伝おうじゃないか! なぁ、昭一?」

「おうよ」

 なんと、二人は貴之単独での『魔法の果実』の捜索に、協力をすることを申し出た。

「ま、まさか、こんな胡散臭い話を、信じてくれるっているのか?」

「「友達だろ」」

 得意げに微笑む二人に、貴之は心を打たれた。

「ありがとう、弘志、昭一」

「気にするなって。さて、ここ二,三日が有希子さんの山場だとすると、何としても今日中にはその果実を探し出さなくっちゃな」

「確かに、ただ病室で祈っているだけならだれにでもできるだが、それで有希子さんが助かるかは、なんら関係がない。どうせなら、その果実を食べて病気が回復に向かうほうが、可能性がある」

「弘志、昭一、本当にありがとう。お前たちは最高の友達だよ!」

 貴之は感動のあまり、今にも泣きだしそうだった。だが、弘志と昭一は、そんな湿っぽい雰囲気は俺たちらしくないと、微笑みあっていた。

「さて、捜索には道具が必要だ。見たところ貴之は自分の身一つで探そうとしているが、話を聞く限り、それは無茶だ。俺は一度家に戻ってスコップやはしごとか、使えそうなものを持ってくる。あと、弘志はスーツだから捜索に支障がでるだろ? 動ける服を持ってくるから、少し待っててくれ」

「じゃあ、昭一が戻っている間に、僕だけでも探すよ」

「いや、単独行動はまずい。万が一岬から落っこちたら、誰も助けを呼べない。それに、この岬は大して広くはない。見た感じ、東京ドーム二つ分くらいだろう。これなら三人一組でじっくり捜索しても、今日中で網羅できる」

 昭一の意見に従い、残りの二人は岬の駐車場で待機することになった。昭一が運転するステーションワゴンが、いつになく速い速度で下り坂を駆け抜けた。昭一のアパートまではここから車で約一〇分程度かかる、資材を準備してまた戻ってくるとなると、ここに着くには三〇分くらいはかかるだろうか。

「ごめんな、弘志。僕の変なわがままに付き合わせて」

「何、水臭いこと言ってるんだよ」

「あぁ、そうだな・・・」

 見晴らしのいい岬、徐々に西陽が雲の隙間から顔をのぞかせてきたのか、空がやや赤くなりつつなり、水面に反射してキラキラ輝く太陽も赤みを帯びてきた。時刻はまだ午後三時であったが、夕焼けから徐々に暗い空が顔をのぞかせているのを見ると、冬の足音が近づいているかのようだ。

 はやる気持ちの貴之ではあったが、ここは昭一の言う通り、今は待ちの一手だ。にしても、あたりには何もない。小学生の時に捜索した時に、のどの渇きを潤した自動販売機くらいしかものと呼べるものがない。

 さすがにずっと外で待ちぼうけでは寒いため、二人は自動販売機で温かい缶コーヒーを買った。よくよく考えれば、弘志と二人で話をするのは、昭一の結婚式以来だと、貴之は振り返る。それまでは、何度かメールで合コンの誘いがあったものの、有希子と付き合っていると返信してからは、『邪魔しちゃ悪いな』と、メールが来て以降、中々連絡が来なかったのだろうか。

「東京での生活はどうだ?」

「有希子だけが、東京での生活で唯一の救いだった。今の俺に、有希子がいない生活なんか、考えられない」

 弘志は地雷を踏んでしまったと思ったのか、いつもの軽い調子で話せなくなった。

「東京の生活は、貴之にとっては酷だったっていうことか」

「そうなるね。ずっと黙ってたんだけど」

 段々と暗い方向へと会話が流れる。弘志はあれこれ頭を働かせ、話題を変えようとした。

「寒いな、貴之」

「寒いね」

「よくよく考えれば、俺たちも一緒に昭一の車に乗り込めばよかったな」

「言われてみれば」

「車なら温かいし、昭一の車に資材を積み込むときの手伝いにもなる」

「そうだね・・・」

「・・・・・・・」

「・・・・・・・」

 待てども待てども、昭一はこない。それどころか、車一台来ない。あたりから聞こえてくるのは、カモメの鳴き声と岸壁を打ち付ける波の音だ。

 それに、会話が続かない。こんなこと、大学ではまずなかった。常にどちらかがボケて、それに対して突っ込みを入れるのが常であった。カフェでの豆まき未遂事件から、まだ一年も経っていないことが嘘のようだ。二人は、大人になったというところか。

 やがて、昭一の車が猛スピードで到着した。当初見込んでいた三〇分より五分も早く着いた。一体どれだけのスピードを出したのだろうか。

 車内には、スコップ、はしご、懐中電灯、造園用のハサミ、弘志に貸し出すウェア、工具箱など、実に頼れる道具が揃っていた。かつて、自身が小学生の時に捜索した時とは、比べ物にならないほどの優れた道具だ。それに、今回は成人男性が三人もいる。さらに、当時と比べて知恵もついたはずだ。

 今度こそ、魔法の果実を見つけてみせると、貴之はリベンジを誓う。そして、有希子が回復することを信じるのみだ。

 三人は、スコップや木ばさみを持って、岬の木々に侵攻した。その姿はまさに、林業従事者と言ったところか。だが、さすがにヘルメットまでは用意できなかったようだ。

 一二年ぶりに魔法の果実の捜索に木々の中に足を踏み入れた貴之。かつての自分と重なった感覚になっている。岬への遊歩道は観光客の目に留まるため、もし魔法の果実があるとすれば、人目に入らない森の中だと、三人の意見は同じであった。

 森に入って早々、急な段差が出迎えた。杖がなければ滑り落ちてしまうような急斜面だ。思わず弘志が声を上げる。

「なぁ、貴之。本当に小学生の時にこの森を散策したのか? 大人の俺達でも険しい道なのに、よく小学生でこの森を散策できたな」

「あの時は怖いもの知らずだったからな。それに、小学生だからこそ、大人よりも身軽に動けていたと思うよ」

 何より、あの時と変わっていないのは、大切な人を助けたいという想いだ。目を丸くして驚いている弘志をよそに、貴之はまた一歩先へ足を踏みしめる。

 室別市には大学から住んでいたため、実質四年間はこの街で過ごした弘志と昭一。だが、岬の森に足を踏み入れたことなど一度もない。

そもそも、目的がない限り森には足を踏み入れない。昭一の地元である函館を例にすると、函館山には観光地として何度か展望台に行ったが、実際に登山をしたことなど昭一にはなかった。

 捜索から一時間。大の大人三人なら簡単に見つかることを見越していた三人であったが、一向に果実は見つからない。よくよく考えれば、簡単に魔法の果実が発見されるようなら、とっくの昔にみんな果実を狩りに来ている。

 ましてや、魔法の果実がテレビで放送されたのは、一二年も前の話だ。そう簡単には見つからないのは、自然の摂理であろうか。それとも、目の前の生活のために資源をあさったせいで、資源が枯渇し文明が崩壊したイースター島やマヤ文明のように、この魔法の果実も目先の効用のために狩りつくされてしまったのだろうか。

 岬の森は一通り見まわった。だが、果実らしきものは確認できなかった。

「や、やっぱり果実なんてないのか」

「バカを言うな弘志。探してからまだ一時間しか経ってないじゃないか」

 弱音を言う弘志に対し、見せたことのない口調で叱咤激励する貴之。貴之の頭の中は、魔法の果実を見つけることでいっぱいだった。いや、貴之は魔法の果実は必ずこの岬にあると確信してやまなかった。

 だが、焦ってもいた。遥を助けられなかっただけでなく、有希子の命も助けられないことなど、あってはならない。もう二度と、大切な人を失くしたくはない。弘志と昭一は焦る貴之を見守りながら、魔法の果実を探した。

「地上から上を見ただけでは、枝に隠れていて見つけられないことも考えられるな」

 昭一の案で、一番高そうな木に登り、そこからあたりを見回す作戦を実行することにした。いったん車に戻り、脚立を取り出した。脚立を持っての森の中の捜索は体力を著しく消耗すると判断し、近くのそこそこ高い木に脚立をかけた。

 登るのは三人の中で最も身軽な貴之に決まった。弘志と昭一が、木に登る貴之の足元を懐中電灯で照らしていた。木登りなど、小学生以来したことなんてないせいか、動作がぎこちない。体重も小学生の時より二倍近くも増えたためか、足をかけた枝がミシミシと音を立て、折れてしまうのではないかと不安になる。

 高さ一〇メートルくらいの木を何とかしてよじ登った貴之は、あたりを見回す。だが、見える景色は、赤く染まった紅葉と枯れ枝ばかりで、果実などどこにも見当たらなかった。その後も三人は同じような作戦で、あたりの木々を見回すが、果実となるようなものは何もなかった。

 季節は一一月も下旬であるためか、日の入りが早い。午後五時になった時で辺りは深夜のように暗闇に包まれていた。遊歩道とは違い人が入らない森を進んでいるため、数メートル先の物も見えない。昭一が持ってきた懐中電灯で辺りを照らしながら、三人はなおも果実の捜索を続ける。

 だが、探せど探せど、果実は見つからない。すでに歩けるエリアは制覇した。さらに、三人の目で捜索しているため、見落としはないと踏んでいた。それなら、一体どこに果実があるのだろうかと、三人はあれこれ考えていた。

「あとは、崖にある木くらいしかないか・・・」

 弘志がふと漏らした独り言を、貴之は聞き逃さなかった。

「それだ! 僕が小学生の時も今も、唯一探してないエリアがあるとすれば、崖に生えている木だ!」

「すると、その果実は崖の上に生えている木にあるってことか。とにかく行ってみるか」

 昭一の言葉で、危険を承知のうえ三人は崖に詰め寄る。道は整備されていない崖だ。気が生い茂っていると思いきや、次の一歩は海になっている。一歩間違えれば、本当に死が待っている。三人はじりじりと、一列になってゆっくり前進する。足場が崩れることを防止するためだ。

 崖と海の境界線が見える位置、つまり、あと一歩足を踏み込めば真っ逆さまに堕ちる場所まで到達した貴之は、弘志と昭一に身体を押さえてもらいながら、ゆっくりと崖に生えているきを覗いた。

 一番小柄な貴之を割と力のある二人が支えていた。かつての三人なら、『押すなよ、押すなよ』と言いながら突き落とすバラエティ番組の真似をしていたことだろうが、今の三人は違う。全てが本気だ。貴之の視界がどのように見えているか、後ろの二人は分からないため、弘志が貴之に確認する。

「どうだ、貴之? ありそうか?」

「だめだ、暗くて何も見えない」

 そこで、貴之は懐中電灯を握りしめ、再びあと一歩で海というところまで身を乗り出した。またしても、弘志が貴之に確認する。

「ど、どうだ、貴之? ありそうか?」

 懐中電灯で照らすも、全景が見えるわけではない。貴之の視界では部分的にしか見えないため、捜索は想像以上に困難だ。周りを見るに、細い枝やオレンジの葉っぱや、ソフトボールくらいのまあるいものしか・・・


「あっ!!!」


 思わず声を上げる貴之。弘志と昭一は『どうした』と言わんばかりであった。

「あれだ! オレンジ色のソフトボールくらいの果実があった。間違いない! あれが魔法の果実だ!」

「「なんだって!?」」

 歓喜にも似た声を上げる三人である。いったん安全な場所に退避した三人は、肩を組みあって、興奮していた。果実は崖から二メートル程度下に実っていた。

 だが、ここで問題だ。一体崖に生えている果実をどうやってもぎ取るかだ。そこで、弘志が大学時代に得意としていた作戦タイムを遂行することにした。今回はバレンタインの時のようなグダグダな作戦にならないことを祈るばかりだ。

「さて、今ここには脚立とロープと、工具が少々・・・俺と昭一でロープを持っているから、貴之が ロープをつたって取りに行くのはどうだ?」

「いや、それだと命綱がない。第一、俺たちの握力だけじゃ限界がある。ここは、脚立とロープで乗り切るしかない」

 昭一がやけに納得のできる発言をする。聞くところによると、昭一の父親は函館で送電線の電気工事を職業としているため、ロープや脚立を使った作業はお手のものらしい。そのノウハウを昭一に教えているとのことだ。何と頼もしいことか。だから、これだけの工具があるのだと、貴之と弘志は納得する。

 昭一が考えた作業として、脚立と最も崖に近い木をロープでトラ結びにして、貴之の腰回りにロープを結び、脚立を崖に向ける作戦をとることにした。はしごの先端は宙に浮いた状態になっている。まともな腰道具もない環境で、絶対に安全と問われれば、自身を持って『はい』とは言えない作業だ。工事業界なら、間違いなく災害の発生が十分に想定され、作業前に行われるKY(危険予知)活動では、安全ではないと真っ先に判断される。

 それでも、三人は果実を取る道を選んだ。全ては、有希子の命を救うためだ。

まずは脚立をロープでトラ結びで木の幹に巻き付ける。崖に最も近い木の高さは約一〇メートル、幹の直径は六〇センチメートルの、そこそこの大木であったのは好都合であった。一度荷重をかけてみるが、木はビクともしなかった。

 次に、貴之の身体にロープを巻くことにした。当初、お腹に巻こうとしたが、お腹では宙づりになったときに内臓を圧迫する可能性があって、最悪死に至るケースがあることを、昭一は教えてくれた。そこで、骨盤があるあたりに巻くことがベストだと、昭一からのアドバイスもあり、貴之は指示に従った。昭一は、腰道具を函館の実家から持ってくればよかったと、後悔していた。まさか使う機会があるだなんて夢にも思わなかったからだ。

 準備が整った。まずははしごを崖の下に降ろした。はしごの長さは最長三メートル、先端は斜めにしなっているが、木に頑丈で結んでいるため、割と安定感がある。それでも、先端から先は宙に浮いた状態となっている。

 次に、命綱を巻いた貴之が、脚立に乗り、崖の下の果実を取りに行く。崖の高さは五〇メートルを超えていた。堕ちたら命はない。

この作戦は、小学生一人では間違いなくできなかっただろう。仮に挑戦したとしても、足を滑らせて崖に落ちていたことは明白だった。大人になって、魔法の果実を発見できたことで、遥への罪滅ぼしになるかもしれない。そして、有希子を助けることができる。

 貴之は崖へと延びるはしごに足をかけて、垂直のはしごを下る要領で下って行った。はしごの先端には支えるものがないため、貴之が乗った瞬間に大きくしなった。下手をすれば、はしごが折れることも考えられる。悠長にはしてられないけど、勢いをつけるわけにもいかない。

 そして、何よりも貴之には恐怖心が襲っていた。いくら命綱をつけているとはいえ、素人がいきなり地上から五〇メートルも高い場所で作業するのであれば、無謀もいいところだ。一段一段ゆっくりと下っていく。足を踏み外せば、ジ・エンドだ。崖の上ということもあってか、風が強く、身体が右に左に煽られる。それでも一段一段ゆっくりと、貴之ははしごを下る。地上では、弘志が貴之の足元を懐中電灯で照らし、昭一が貴之の命綱を握っていた。

 やがて、貴之は果実が手に届く位置にまで近づいた。足ががくがく震えている。恐怖心と乳酸が溜まってダブルパンチだ。だが、あたりが暗闇でおおわれているため見えないことから、かえって好都合ともいえる。果実に手を伸ばした時、これまでで一番強い突風が吹いた。

「うわああぁぁぁぁぁ!!」

「「た、貴之ぃぃぃ!!」」

 貴之の身体が右に大きくそれているのを、地上にいる二人は見て焦った。脚立から足を踏み外せば、命綱はあるにしても、貴之に危険が迫る。だが、ここで耐えるには貴之自身んで何とか乗り切らなくてはならない。

 風が収まり、貴之は再び果実に手を伸ばした。

「頼む、僕の腕よ。何とかあの魔法の果実まで届いてくれ」

 片手で自分の体重を支えるのは、映画ではよく見かけるシーンではあるが、実際には、とんでもなく体力のいることだと、身にしみてわかった貴之である。

 手を伸ばすと、なんとか果実に指先だけ触れることができた。だが、しっかりと握りしめなくては果実を持ちかえれない。さらに、右手の感覚もなくなってきた。乳酸が溜まってきたのか、右足が先ほどよりもプルプルと震えてきた。このまま時間が延びれば、帰りの体力がなくなることを危惧した。

(これが最後のチャンスだ。これを逃せば、もう、上に登る体力はない・・・)

 貴之はラストチャンスとばかりに、腕を大きく果実の方に伸ばした。さらに、風が後押しをしたのか、先ほどまで果実とは反対方向に吹いていた風が、貴之を押すような形で、より一層果実に近づいた。

 その結果、貴之は見事に果実を掴むことに成功した。果実を落とすことのないように、あらかじめ背負っていたリュックサックに果実を入れた。

「やったぞ! 果実を手にできたぞ!」

「本当か、貴之」

「よくやった。さぁ、あとは戻るだけだ」

 弘志と昭一が貴之にエールを送る。そう、あとは地上に戻るだけだ。だが、想像以上に体力を消耗したのか、腕に力が入らない。まるで、懸垂を何回もやって自分の意思では腕が動かせなくなる感覚だ。

 だが、懸垂で疲れた時には地面という足場があるが、この場所には足場がなく、宙に浮いた状態だ。自力で脚立を登らなくてはならない。まずは、足を延ばして、一つ上のバーに腕を伸ばす。腕を曲げたが、もう体を持ち上げるほどの体力は残っていなかった。あとは、下半身の力で、階段を登るように身体を持ち上げることにした。せいぜい一〇段くらいの脚立であるが、登りきるのに大冒険をするような心理が働く。

 正直膝もがくがく震えて、思うように力が入らない。だが、下半身の方は二の腕と比べて力が入らないわけではない。貴之はゆっくり、一歩ずつはしごを登っていった。

やがて・・・

「おい、貴之の手が地面を掴んだぞ」

 弘志は支えていたはしごを離し、貴之の手を掴んで引っ張り上げようとした。弘志は貴之の手をしっかり握った。

その時、弘志の脳内にある映像が飛び込んできた。

「そうか、俺は今、あの有名な栄養ドリンクのCMに出演しているかのようだ。いくぞ貴之・・・『ファイトォォォ!!!』」

「・・・・・・・」

 弘志は勢いよく貴之を引っ張り上げた。貴之は弘志の協力もあり、無事に生還を果たした。決死の作業だったためか、貴之は肩で息をしており、地面に倒れこんだ。

「こら貴之。どうして、『イッパアァァァァツゥ!!!』と言わなかったのだ? これではあの伝説のCMに出演した気になれないだろうが!」

「た、体力の限界で、しゃべる気にも、ならなかった・・・」

「弘志、貴之の身になってみろよ」

 虫の声の貴之である。どうやら、あのCMの設定が実際に起きると、『イッパアァァァァツゥ!!!』側の人物は、よほどの体力と余裕がない限り発声することができないことがわかった。

だが、そんなおちゃらけた雰囲気から、すぐさま現実に引き戻された。

「そうだ! い、今何時だ?」

 時計を見ると、午後六時を回っていた。時刻を聞いたとたん、貴之は血の気が引いていった。今から札幌行きの特急に乗り込んでも、面会時間の門限となる午後八時には間に合わない。

何としても貴之は一刻も早くこの果実を渡したかったが、神様があきらめろということなのか。

「そ、そんな・・・今から特急に乗っても、もう、病院の面会時間には間に合わないや。やっと魔法の果実を手にすることができたっていうのに・・・」

 貴之は天を仰ぐように頭を後ろにそらしてから、がくんとうなだれた。

希望が絶望に変わった。

 今日という日に有希子に果実を届けることができないのか。

 やはり、運命は許さないのか。

 諦めるしかないのか。

 地面に膝をつく貴之に、昭一が歩み寄る・・・

「何言ってるんだ、貴之。俺が車を出せばいい話だろ。このまま今すぐに、札幌の有希子さんが入院している病院に向かうぞ!」

「し、昭一・・・」

「四の五の言っている場合じゃない! 何としても早く届けるのなら、今行くしかない。もし明日の始発まで待っている間に、有希子さんが亡くなったら、それじゃあ一生後悔することになる。高速道路を使えば、面会時間ギリギリに間に合うはずだ」

 間に合う。

 今日という日が終わるまでに、有希子のこの果実を届けることができる。

 希望の光が見えてきた。

 何とか今日中にこの果実を有希子に渡すことができる。

 持つべきものは友達だと、深く身に染みた。

「あ、ありがとう、昭一」

 暗く落胆した表情の貴之が、徐々に明るくなってきた。

「なに、礼には及ばないさ。妻が病気と分かれば、俺も貴之と同じことをしたはずだ。気持ちは分かる。だから、何としても今日中に果実を届けるぞ」

「俺もついていくぞ。役には立たないかもしれないけど、なにか助けになるはずだ」

「昭一、弘志・・・」

 貴之はうれしさのあまり、持っていた果実を握りつぶしてしまうところであった。この果実は有希子の命綱になるから、大切にしなくてはならない。何か果実を保管するものはないかと探していると、昭一の趣味である釣りの用具で、クーラーボックスが出てきた。

「昭一、このクーラーボックス、使わせてもらうぞ」

 昭一はやや口元に笑みを浮かべながらうなずいた。果実をクーラーボックスに入れ、一同は有希子が待つ病院へと向かう。その光景は、まるで臓器移植として、臓器を病院に搬送するようであった。

 弘志も札幌の病院に向かうことにした。車内は三人と脚立などの工具でぎゅうぎゅう詰めになっていた。セダンタイプの車では、間違いなく定員オーバーだったろう。三人はステーションワゴンの車に改めて感謝の意を表した。

「さぁ、行くぞ。一刻も早く、札幌に向かおう」

 昭一が運転する車は、勢いよく岬の駐車場を後にした。やがて、室別市が誇る白い大橋を駆け抜ける。橋の上部のライトが、まるで夜空に輝く星をを思わせるかのように照らされている。

 橋を渡った先に札幌に繋がる高速道路のインターがあり、暗闇に包まれた高速道路を、猛スピードでひた走る。途中のオービスや警察の取り締まりに注意しながらではあるが。

 車を走らせてからしばらくは、緊張が走っていたが、時間が経つにつれ、徐々に緊張の糸が和らいでいく。

「なぁ、こうして三人で車に乗っていると、昔よく札幌ドームで野球を見に行ったことを思い出すよな」

 弘志が口を開いた。思い起こせば、この三人は大学一年生から、よくプロ野球の試合を見に札幌まで通っていた。大学四年生の時には昭一が車を購入したこともあり、昭一の車でよく札幌に向かっていた。

「そうだね。あの時は金欠状態が続いていたから、よく下の道を走ってたよね」

「高速を使わないと、一時間半は多めにかかったけど、三人で話をしてば、時間なんてあっという間だったよな。だけど、帰りはお前たち二人はいつも寝ていたよな。おかげで、いつも俺は眠い目をこすりながら室別まで帰っていたんだよ」

 それは、今思えば申し訳ないと振り返る貴之と弘志である。よく昭一は途中で二人を道の駅で降ろすこともなく、室別まで連れて帰ってくれたものだと、改めて感謝する貴之と弘志であった。

「あと、スキー旅行を思い出すよな」

「楽しかったよな、あの時のスキー」

 弘志と昭一がスキー旅行を話題にしている横で、貴之はあの時有希子と出会ったことを振り返っていた。ゲレンデで一人あくせくしながら、必死に滑っている有希子の姿を見たのが、ずいぶん昔の出来事のように思えた。

 あの時、意を決して声をかけて本当に良かった。今となってはもやもやした別れ方となっていたが、それも今日までのことだ。この果実を有希子が食べれば、またこれまでのように楽しむことができる。

「あの時のスキー旅行で、僕は有希子と面と向かって話したんだ。それから、今年一年が始まったんだ」

「そして、大学を卒業してから、さっきの岬で叫んだよな」

「そうだな、三人がそれぞれ秘密を告白してこきながら、いまだに達成できていないのは弘志だけだな」

「な、なんだとぉ?」

 弘志が叫んだこと。それは東京で一旗を上げることだ。今になって聞けば、なんとも昭和感満載のフレーズなのだろうか。そして、一体何に成り上がるつもりなのだろうか。

「じゃあ、弘志はもう東京で一旗を上げたというのか?」

「当たり前だぁ!」

(貴之、これ以上弘志に話しても無駄だ。行きつく先はまた変なチョップをかましてくるだけだ)

 運転中であるためか、それともスキー旅行の際に弘志のチョップのせいで九死に一生の運転となったことを懸念してか、昭一が貴之に諭していた。昭一の意見にごもっともな貴之は、そのまま弘志に『よっ、大統領』のコールで事なきを得た。

「なぁ、もし有希子の様態が安定して、みんなが落ち着いたら、三人でまた旅行に行かないか?」

「貴之の提案には賛成だな」

「だよな。そこで、俺から提案だが、来年こそは旅行券を当てようと企んでいるのだ」

 弘志が提案したことで、また変な企画に応募するのだと、貴之と昭一は内心思っていた。

「前回の三塁打クイズはとっくの昔に終わっていたようだが、今回は違うぞ。かつて、『八時半の男』として、今のストッパーの役目の先駆けとしていた宮田投手が、巨人にいたんだ。大体九回裏に差し掛かる時間が八時半だから、その愛称が付いたんだ。そこで、その八時半の男をもじって、プロ野球のチャンネルで、『八時の男』として、午後八時にバッターボックス、もしくはマウンドに立っている選手を当てるという企画があったんだ。抽選に当たった人は、なんと巨人が優勝したV旅行に同行できるという、素晴らしい特典があるんだ。結局、今年は予想が外れたが、来年こそは当てて見せる!」

 貴之と昭一は呆然としていた。前回の三塁打クイズに続いて、またしてもプロ野球がらみの企画であったことだ。一般人であれば、弘志の出だしのところで早くも頭が?マークでいっぱいだろう。

もちろん、当然ながら野球バカのこの二人は『八時の男』の企画概要を知っていた。

「弘志、三塁打クイズの流れの次は八時の男だと思っていたけど、まさか本当に予想が当たるとは思わなかったよ」

「俺も貴之に同感だな。第一その企画は二〇〇一年じゃないか。約二〇年前の企画だぞ。それに、その年巨人は優勝できなかったから、結局は企画倒れになったじゃないか」

「な、な、な、なんだとおぉぉぉぉ!! おのれぇ、俺に恥をかかせやがって!! くらえええぇぇぇぇいぃぃぃぃ、空中なんちゃらチョップ!!!」

 まずい、ゲレンデ旅行のように運転している昭一にチョップかますつもりだ。前回は一般道であったが、今回は高速道路だ。下手すれば今度は本当に命が危ない。貴之はとっさに、弘志の腕をつかみ、チョップをブロックした。

「ひ、弘志。落ち着け。今高速道路を走っているんだ。今度ここで昭一にチョップをかまそうものなら、車はクラッシュするよ」

「貴之、大丈夫だ。いざとなれば弘志を車から引きずり出す」

 苫小牧インターに近づくころ、三人はかつて大学に通っていた時の雰囲気に戻っていた。くだらないことで延々と笑っていられた、あの時の三人に・・・

「あっ!」

「どうした、貴之?」

 突如貴之が挙げた声に、昭一が反応する。

「荷物を実家に忘れた」

「まかせな、俺が明日また札幌まで送り届けるよ」

「い、いいのか、札幌を二往復させてしまって」

「気にするな。学校は明日も休みだ」

「もし昭一が無理なら、俺が空港まで荷物を一緒に持っていくのも構わないぞ」

「それなら、俺が昭一を貴之の荷物とともに、明日空港に行けば、全ての問題が解決できる。俺も札幌まで行かなくていいから、そっちのほうが好都合だな」

「弘志、みんな、ありがとう・・・」

 本当に持つべきものは友達だ。弘志と昭一がいなければ、この果実を見つけることも、今日という日に有希子に届けることもできなかっただろう。さらに、無事に東京に帰れることもなかっただろう。

 貴之は『矢羽根ポール』と呼ばれる北海道特有の赤と白の標識を眺めながら、改めてこの二人と友達になってよかったとしみじみ感じていた。

 三人は、かつての学生時代の空気を取り戻していた。くだらないバカ話でいつまでも笑いあえる。やがて、飛行機の往来が激しく、ジェットエンジンが会話を妨げるようになっていた。新千歳空港横の高速道路に差し掛かってきたことに三人は気が付いた。札幌まであと約三〇分と言ったところだ。もっとも、この時間は標準の時間であるが。

「昭一が結婚式の翌日に、僕たちを送ってくれてから、まだ五ヵ月しか経ってないんだね。なんだかずっと昔のような気がするよ」

 事実、貴之はこれまでの人生で最も濃密な半年間であった。

「そういえばそうだったな。でも、俺にとっては、つい最近のことのように思えるけどな」

 昭一は、新婚生活以外は、大学院で研究する日々のため、時間が淡々と流れているようだ。

「そんなことあったっけ・・・」

 思えば弘志は、二日酔いのため新千歳空港に着くまでグーグー寝ていた。おそらく、空中なんちゃらチョップを二人して三〇発近くかましたことなど、覚えてはいないだろう。今思えばもう二,三倍はチョップをかましておけばよかったと、二人は後悔した。

 貴之は、昭一の披露宴の時に新千歳空港まで送ってもらったことを振り返っていた。その時に、昭一が『北海道にいて助けが必要なら、いつでも声をかけてくれ。この車でひとっとびで駆けつけるからさ』と言ったことを貴之は思い出した。今まさに、言葉の通りに車でひとっとびで助けてくれている。さらに、弘志も魔法の果実の捜索に協力してくれた。なんとも頼もしく、心強い友達がいて本当に良かったと、口には出さないが貴之は内心思っていた。

 飛行機の存在が三人に札幌に近づいたことを示したため、空気は再び重たいものとなった。今は野球観戦で札幌ドームに行くのではない。有希子の命を救うために病院に向かっているのだ。

 しばらくの沈黙の後、札幌の案内板が見えてきた。もう少しで、有希子にこの魔法の果実が届けられる。有希子は一体どんな顔をしてくれるのだろうか。淡い期待が貴之の胸を躍らせる。

「ところで貴之、有希子さんが入院している病院はどこにあるんだ?」

「場所は、札幌北インターを降りてすぐにある」

「なるほど、それなら市内を走る時間は少ないから、病院の面会時間の門限前には何とかたどり着けるな」

 車は、札幌北インター出口まであと一Kmの看板を捕えていた。貴之にとっては本日二度目に通る道である。札幌北インターは、札幌の中心部に最も近いインターであり、降りたのはいいが、一般道との合流地点ではいつも信号待ちの渋滞が列をなしていた。だが、幸い連休中日とだけあって、車の通りは少なかったため、難なく出ることができた。

 車は貴之の誘導と赤信号、ならびに高速道路でのオービスに引っかかることなく、驚異的な速さで病院に到着した。時刻は午後七時四五分。昭一の運転のおかげで、なんとか面会時間の門限前に滑り込むことができた。特急列車に乗っていては、まだ札幌についてもいなかったであろう。南千歳駅に止まっていたあたりだろうか。

「貴之、時間がないからお前だけ先に有希子さんのもとに向かえ」

 昭一は病院の玄関先に車を止め、先に貴之を降ろすことにした。貴之は果実の入ったクーラーボックスを持ち、有希子が入院している病室に向かった。その間、弘志と昭一は駐車場に車を止めてから病室に向かうことにした。

「ありがとう、弘志、昭一。本当に・・・」

 弘志と昭一は、俺たちのことはいいから、早く有希子のもとへ向かうようにと、病院の方を指さした。

 貴之は有希子がいる病室に向かって、全力で走っていた。

あとは有希子がこの魔法の果実を食べて元気になる。

 ハッピーエンドだ。

 そして、プロポーズをするんだ。

 元気になった有希子と僕は、やがて新しいスタートを切るのだ。

 東京で新たな人生を。

 心にぽっかり空いた穴が、埋められる。

 クーラーボックスを持つ貴之の心臓が大きく高鳴る。

 有希子が入院している病室に行くと、ベッドに有希子の姿がなかった。

 診察か? トイレか? 

 だが、様子がおかしい。

 シーツがパリッとして、掛布団が重ねられていた。

 まるで、誰も使っていなかったかのように。

 ちょっと席を外しているのとはわけが違う雰囲気があった。

 不審に感じた貴之は、ナースセンターに問い合わせた。

「倉田さんですね、倉田さんは・・・この病室にはもういません。只今案内しますので、少々お待ちください」

 この病室にいないとは、何のことか理解できなかった。

 それに、今の間は一体なんだ?

 看護師に有希子がいる部屋に案内されることとなった。エレベーターに乗り、看護師がボタンを押した先は地下一階であった。

 貴之の脳裏に最悪の事態がよぎる。

 地下一階には病室など、存在しないことは分かっていた。

 まさか。もう危篤が始まったのか? 

 そこが集中治療室であることを祈った。

 まだ有希子は生きていると。

 僕が探し出した魔法の果実を食べて、病気が回復するのだと。

 地下一階に到着しエレベーターを出ると、やや薄暗い廊下の奥へと案内された。

 一体どこに有希子がいるというんだ。

 廊下の突き当りに差し掛かった時、看護師の足が止まった。

「こちらになります」

 看護師が案内した部屋は、案内表示札がなかった。

 部屋に入り、貴之の視界には二本のろうそくの光が真っ先に目に入り、ベッドの上に人があおむけで横たわっているのが見えた。

 顔の位置辺りに、白い布が覆われていた。

 一歩一歩が非常にゆっくりな速度で歩く。

 やがて貴之は、

 白い布をめくった・・・


 駐車場に車を止めて病院に向かった弘志と昭一。入り口に着くなり、貴之の怒号にも似た声が聞こえてきた。二人は顔を合わせ、声が聞こえてきた廊下へと向かった。

 そこは地下に繋がる階段からだった。

「うわああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」

 なおも聞こえてくる貴之の叫び声に、二人の足取りは重い中、地下の階段を下った。やがて、二人が目にしたものは、霊安室であろう室内で、膝をついてがっくりとうなだれる貴之の姿であった。

まるで、子供のように泣きじゃくっている。もう立てる気力が残っていないのか、両腕だけが、ベッドに横たわる人のお腹辺りに添えるような形で残っていた。

 二人は察した。有希子は間に合わなかったのだと。

 そう、貴之がめくった布から飛び込んできたのは、安らかに眠る有希子の顔であった。顔が白く唇の赤みがなくなっていた。

 だが、まるで眠っているようだ。

 そうだ、眠っているんだ。

 有希子は深い眠りについているんだ。

 旅立ったことを、受け入れられなかった・・・

 それから少ししてから、弘志と昭一が霊安室に駆け付けた。

「弘志、昭一・・・」

 貴之が二人に気が付き、霊安室の入り口を振り返った。暗く落ち込んだ貴之の表情は、先ほどまで同じ車に乗っていた人物とは思えないほど様変わりしていたことに、二人は呆然とする。

 貴之はショックで立てそうになかった。クーラーボックスの蓋が空いて、廊下に果実が転がっている。恐らく、貴之がショックで無意識のうちにクーラーボックスを落としたのだろう。

 弘志が廊下に転がっていた果実を取り、二人はかける言葉が見つからないまま貴之に近づき、貴之の身体の半分を支える形で持ち上げた。今の貴之は重力に対して逆らうことができないほど力が入らないのだろう、やや華奢な貴之の身体を二人がかりで持ち上げるのがやっとであった。

「有希子が、有希子が・・・」

 断末魔のような貴之の声に、目と目を合わせる弘志と昭一。錯乱する貴之は二人が知る貴之ではなかった。だが、二人は貴之の背中をさすることしかできなかった。恐らく、有希子の死を受け入れることができないのだろう。

 やがて、二人の目にも安らかに眠る人が見えた。正確には遺体と呼ぶべきだろうか。この遺体が、有希子なのだろうと弘志と昭一は思った。貴之の介抱が手一杯で顔ははっきりとは見えなかったが。

 一体三人でいる時間がどれほど流れたのだろうか。


 貴之にとって、人生で最も長く濃い一日が幕を閉じようとしていた。

全てが予定外で、先行きの見えない中での出来事であった。この一日で、彼は天国と地獄を何度往復した心境なのだろうか。

 あまりに情報量が多く、頭の中がパンク寸前であったいや、すでにオーバーフローであったのかもしれない。遠ざかる意識の中、今日あった出来事が走馬灯のように貴之の頭の中で駆け巡る。

 有希子と病院で突然再会したこと。

 有希子は僕のことを信じてくれていたこと。

 有希子はこの二,三日が山場になることを突然知ったこと。

 魔法の果実を探し出そうと決めたこと。

 有希子にプロポーズしようと決めたこと。

大慌てで札幌から室別に向かったこと。

 弘志と昭一と偶然再会できたこと。

三人で魔法の果実を探し出したこと。

 命がけで魔法の果実を掴んだこと。

 昭一の運転で札幌に戻ったこと。


 有希子が亡くなったこと・・・


———すべては夢だったのだろう。ほら、目が覚めればいつも通り朝が訪れた。今日は月曜日だが、勤労感謝の日の振り替え休日で会社が休みだ。命をすり減らす会社の時間がないとあって、今日は天国だ。祝日は自分の好きな時間に出社できるとあの先輩どもは言っていたけど、会社は休みだ。休日出勤する義理なんかない。

 さて、何をしようか。

 だが、部屋の様子がおかしい。寝床がベッドではなく布団だ。ここは寮ではない。

 ここはどこだ? 

 そうだ、祖母が入院したからお見舞いに北海道に戻ってきたんだ。だから、ここはじいちゃんばあちゃんの家だ。だとすれば、今日中に東京に戻らなくてはいけない。無断欠勤をすれば、あの会社は社員の身に何かあったのではという心配よりも、なぜ休んだという犯行に着目し取り調べに近いものをするに違いない。

 しかたがない、起きるとするか・・・

「貴之、やっと目を覚ましたか?」

———この声は、弘志? なぜ弘志がじいちゃんの家にいるんだ?

 寝ぼけた頭で思考回路が働いていないのか、貴之の発する言葉がところどころ怪しかったが、弘志がいつになく力強い口調で貴之をたたき起こした。

「いいか貴之、冷静になって聞けよ。お前はこの二日間ずっと寝ていた。だから、今日は有希子さんが亡くなってから二日経つ。そして、今日の夜が、有希子さんの通夜だ」

 弘志の言う通り、日付は一一月二五日午前九時三〇分を指していた。貴之は有希子が亡くなったショックと疲労困憊と仕事のストレスが相まったのだろう、有希子が眠る霊安室で意識を失った。

 弘志と昭一が、たまたま近くにいた医師を見つけ、貴之の様子を診てもらったが、ただ眠っているだけで、恐らく極度のストレスと親しい人の死が重なったためだろうと、診断された。昨日は一度も起きず、三〇時間近く眠り続けた。

 二人は、一向に起きない貴之に、後追いをしたのか不安になった。決して悪ふざけの意味ではない。我を忘れた貴之が錯乱した後、気絶した光景を見た二人の心境は、貴之の身を案じていた。もちろん、貴之の脈は動いており、息もあった。

 昨日は貴之の家族が実家に預けた貴之の荷物や喪服を引取りに戻り、有希子の葬儀に出るための準備をしていた。弘志は有希子の葬儀に参列するべく、貴之の親族から喪服を借りて参列するため、行く当てもないことから、貴之の祖父の家にいたのである。

「やっぱり、有希子は死んだのか・・・」

「あぁ、残念だけど、これが現実なんだよ」

 やはり、有希子が亡くなったのは夢ではなかった。枕元には、クーラーボックスに入った果実があった。果実を見つけたのも夢ではなかったのか。今となっては、もう遅すぎると、貴之はうなだれた。やがて、貴之の目から、また涙があふれた。

 貴之のスマートフォンの着信履歴には、会社からの着信が実に一二〇件近くあった。始業から一時間も経っていないのだが。

 有希子の葬儀に出るため、会社には『親族が急死したため葬儀に出ることから、しばらく休暇をいただきます』と電話した。

 当然、すんなり受け入れいられることはなく、『新入社員のくせに葬儀に出るとは、ずいぶんのぼせ上がってるな? 俺なんか実の母が亡くなっても、仕事を優先して葬儀なんか出なかったがな! どうせなら、お前の葬式も上げてもらったらどうだ? あぁ!?』と、案の定、牧岡課長が怒鳴り始めた。

 この上司、いや、この会社にいる奴らは最早人間ではないと判断した貴之は、この会社を辞めることを決意をした。そのため、もう会社のことなどどうでもよくなった貴之は、説教を遮る形で電話を切り、電源も切った。

 弘志は親族の通夜という理由で有給休暇を二日分つぎ込んだが、簡単に取得できた。貴之の会社とは天と地ほどの差である。

 夕方になり、昭一夫妻が貴之の祖父の家に駆け付けた。昭一の妻は有希子の友人でもあった。また、貴之が深い眠りに入っている頃、昭一は貴之が取った行動を伝え、貴之の祖父の家まで車で貴之を送り、室別の実家に荷物を置いたことなどを浅水家に話した。


 午後六時。有希子の葬儀が始まった。遥に続いて、またしても恋した人が、あの世に旅立ってしまった。二度目はさすがに限界であった。有希子の葬儀で、かすかに遥の葬儀の様子がフラッシュバックされる。

 遺影の中の有希子は、微笑んでいた。ここ数ヵ月程度は、あまり微笑むことができなかったことを爆発させるような、微笑ましい笑顔だった。

 棺の中の有希子は、きれいな顔で寝ていた。

 ように見えた。

 本当に死んでしまったのか。今にも目を覚まして起き上がってきそうだ。

 貴之は、失意の渦中から抜け出せないためか、住職のお経が全く頭に入っていなかった。呆然とした状態のまま、気が付いたらお経が終わっていたと、貴之は後になって弘志と昭一に話した。

 葬儀中は、貴之の両隣をはさむように、弘志と昭一が座っていた。彼らにとっても、今までで見たことのない無表情の貴之が目に映っていた。貴之の抜け殻がそこにいるだけで、精神はなくなったのではないかと、不安にもなっていた。焼香が貴之の前に弘志から回ってきても、反応しなかったため、弘志が貴之をはさんだ隣にいる昭一に渡した。

 式場には、有希子の友人である昭一の妻、お盆に女子会を開いた大学時代のサークル仲間、有希子の同僚である増井も、東京から飛行機で駆けつけた。彼女は有希子の棺を見るなり、すごい勢いで号泣した。

「有希子! 有希子! どうして、病気のことを言ってくれなかったの!!」

 彼女はずっと有希子の名前を叫んでいた。

 増井が落ち着いたころ、近くにいた貴之と目が合った。貴之はかろうじて増井のことを認識できたのか、軽く会釈をした。お互い話せる精神状態ではなかったため、そのまま増井は席を立った。


二六日

 有希子が焼かれた日の午後。東京に戻る前に貴之は、果実を持って遥が眠るお墓に立っていた。一二年も遅くはなったが、無事に魔法の果実を手に入れたことを報告するためだ。貴之にとっては、遅すぎるかもしれないが、わずかばかりの心残りが晴れた。本当に、少しだけど・・・

「遥、ごめんね。果実を見つけることができたのが、一二年も経った後で。でも、この通り魔法の果実を見つけることができたよ。それを、どうしても報告したくて、またここにきてしまったけど。少しは供養になるかな? もし、遥がこの果実を食べることができたら、遥は生き延びることができたのかな? 中学、高校、成人式を共に過ごせたのかな? そして、今も、い、一緒に・・・話が、出来たのかな・・・」

 感情が高まり、胸が苦しくなっていく。男の自分が、ここまで涙を流すことができたのかと、客観的な立場ですら驚くほど、貴之は泣いた。有希子が亡くなってどれほどの涙を流したのかわからない位泣いたのにも関わらず、涙は枯れることはなかった。

 遥が眠る墓石の前で崩れ落ちながら・・・

 雪がちらちらと風に乗りながら、あたりを徐々に白く染めていく。寒空の中、遥や浅水家の墓がある霊園には、貴之ただ一人の時間が、どれほど流れたのだろうか。貴之の身体や髪には、一センチ程度の雪が積もっていた。

 その日の夜、貴之は心のどこかでまた遥と夢の中で再会できることを期待していた。夢の中で、果実を届けることができたと伝えたかった。だが、遥は現れることはなかった。

 あの時はお盆の時期で、あの世とこの世が繋がる時期だって、そういえば口にしていたことを振り返った。

 落胆した貴之の目覚めが、いつも以上に悪い。やはり、この精神状態では、東京での職場復帰は難しいに違いない。


 結局のところ、貴之が見つけた果実を口にしたものは誰もいなかった。医学的にもどのように治療に役立つかの検証を、貴之は医療機関に提出しようか悩んだが、『毒性があります』と言われた日には、自分の無責任な行動で遥と有希子の命を奪うところであった。なんとも愚かな行為だ。

 もし、遥がこの果実を食べたその日に亡くなったとなれば、一生罪の十字架を背負って生きていくことになるのは間違いない。冷静に考えれば、その辺の木の実を食べれば、体に毒になる可能性は十分にある。遥の時も同じ過ちだった。

 一か八かで、自分の壊れた心を治すために果実を食べようとも試みた。悩んだ挙句、この果実はファンタジーにとどめておこうと、貴之は決めた。

 どんな病も治すと言われる魔法の果実、今は誰も口にする必要がない。

 魔法の果実の存在を知るものは、これで誰もいなくなる。

 そのため、果実を遥の墓の前に置いたまま、貴之は霊園を後にしたのであった。


二七日

 有希子が亡くなってから、東京に戻ってきてすぐに、絶望が貴之を襲った。空虚と虚無感に侵された貴之に、パワハラが蔓延している職場には行けなかった。寮の玄関のドアを開けることがやっとの状態であった。ドアを開けた途端、都会の喧騒と仕事が頭を駆け巡った時、拒絶反応を起こして体の震えが止まらなかった。とても仕事ができる精神環境ではなかったと、自分でも思える貴之である。

 さらに、有希子の葬儀で半ば無断欠勤をした身となれば、待っているのは怒号にも似た説教だ。このままではすぐに有希子の後を追ってしまう自分がいることに気が付いた。誰か助けてくれ! と。

その日のうちに、貴之は東京のメンタルクリニックに受診した。ネットで近所のメンタルクリニックを検索し、まるで風邪を引いたから薬をもらうために、近所の病院はどこかと探すような感覚だ。

 だが、事は重大であった。カウンセリングを担当した医師は驚いた。年間の患者の中でトップ五に位置するほど、非常に深刻な精神状態であると、一目でわかったからだ。

 日本精神神経学会が定めるストレス得点票では、三〇〇点以上でうつと診断される目安だが、貴之は五〇〇点を超える点数を取っていた。これだけの高得点は、即刻半年間の休職が必要との答えであった。

 だが、あの会社はうつで休職など認めることはないだろう。医師の診断書を持って行っても『会社では俺がルールだ。そんな医師が書いた紙きれなど、この会社では何ら通用しない。そもそも、うつで休職だなんて、お前はどれだけ甘えてるんだ!』と、鮫田と牧岡課長はここから三時間は説教するに違いない。つまりは、休職は認められないということだ。

 この事例を医師に伝えたところ、即刻会社を退職することを勧められた。

「浅水さん。世の中、会社に勤めることが全てではないのです。自分の人生は、会社に尽くすことで終わるには、あまりに寂しい人生でしょう。というより、人生を棒に振ってしまっているのです。私の見解は、あなたの職場の環境では、人間としての人権がない扱いであると判断します。このままあなたが今の会社に勤めていては、いつの日か『通勤電車に飛び込めば、明日会社に行かなくてもいいんだ』という、最悪な結末が待っているように思われます。今ならまだ間に合います。あなたはまだ二三歳で、社会人一年目です。どうか、会社を退職なさってください。一生を棒に振る前に・・・」

 第三者から見ても、やはりあの職場は狂っていることがわかった。いや、第三者だから気が付けるのかもしれない。巨大な会社は、時に熱狂的な思想に偏る傾向にあり、会社が一つの過激な国家や宗教として形成されているケースが多い。

 外部の人間から見れば犯罪ともいえる愚かな行為も、会社という国の国家や信者にとっては憲法で定められた犯罪が正当化されて、道徳心が盲目になっているのだろう。

 有希子も亡くなった今となっては、もう東京に未練はない。世間の勝ち組のパロメータ―を意識して東京の広告系の会社を選んだが、今となっては自分の人生を全てあの会社に捧げるだなんて、バカげているにもほどがある。自分の人生は他人の目で決まると思ったら大間違いだ。

 会社の寮に帰る家路の間に、意思は決まった。あの病院にかかってよかった。担当した医師が神様のように思えた。


 やがて貴之は会社を正式に退職し、室別市の実家に戻ってきた。無言の帰宅とまではいかないが、生気を失った状態であれば、肉体だけが生きている状態であった。

 生計を立てるため、アルバイトをすることも考えたが、今は生きていくことへの気力がなく、仕事をする精神状態ではなかった。仕事上の過剰なストレスに最愛の人の死が重なったためだ。

 この精神状態でドクターストップを無視して仕事をすれば、凶悪犯罪をするか精神病院に長期間入院するかのどちらかを迫られる。それも、冷静な判断ができない状態でだ。気まぐれにガードレールの上に乗って、歩道に落ちるか、道路に落ちるかを言っているようなものだ。

 貴之の場合は、歩道に落ちた方だろうか。結果として、室別市の病院に通院しながら自宅療養を送る選択をした。

 後日談になるが、貴之が勤めていた会社では、二年後に新入社員がパワハラが原因で自殺を図った。自殺した新入社員は、貴之が所属していた部署であり、遺書には会社からのパワハラを受けていた人物として、かつて貴之をぼろ雑巾のように扱っていた鮫田と牧岡課長の名前が書かれており、彼らに対しての恨みが込められていた内容を綴っていた。

 この事件がマスコミに大きく取りだたされ、会社は社会的制裁を受けることになった。最後には、名前が書かれていた鮫田と牧岡課長が、刑事責任を問われる形となった。事件が発覚してすぐ、この二人は懲戒免職処分となった。つまり、会社は彼らを見放したのだ。

 懲戒免職処分から三日後、二人は自殺教唆罪の罪で逮捕された。

 調べに対して、貴之の牧岡元課長は「俺が若い時はもっと過酷な仕打ちを受けてきた。それが社会人で成功するための必須条件として叩きこまれた。それがこんな朝飯前の仕打ちで自殺するなんて思いもしなかった」と、話した。牧岡元課長は、『俺が受けた苦しみをお前も味わえ』という、自分勝手な動機で新入社員にしごきを与えていたのが本音だろう。

 鮫田の方は、仕事以外の生きがいなど存在しておらず、結婚はしていたが既に家庭内別居で、子供も寄り付かない環境となっていた。恐らく、家庭内のストレスの矛先を、立場が弱い新入社員をサンドバックとして扱っていたのだろう。いや、元々妻をサンドバックにしていたため、自宅に八つ当たりする人間がいなくなった矛先として、新入社員をサンドバックにしたのが答えだろうか。

 だが、一番の卑怯者で黒幕は、社員の不祥事をまるで会社ではなく、あくまで個人的な動機で事件を片付けた会社である。社内でパワハラを合法として仕事をする人間が現れるのは、この会社の風潮のせいだろう。

 当然、ネットが普及した現代では、この事件について市民は黙っていない。連日SNSで会社の隠ぺい体質やパワハラが日常的に行われていたことが話題となった。その結果、悪事を働いた社員には臭いものにふたをした会社として、この会社のイメージは崩壊した。

 マスコミも視聴率が取れると判断したためか、市民と同調するように加勢した。その結果、国民が一丸となった袋叩きで、社長ら役員が一斉に辞職に追い込まれた。それでも、大企業とだけあって政財界と癒着があったのだろう、経営破綻こそはしなかったが。


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