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一〇月 何を支えに生きているのだろう

一〇月


 有希子から突然の別れを切り出されてから、約一ヵ月。貴之は有希子のいない東京の生活に、限界を感じていた。一体何を楽しみに生きているのか、さっぱりわからなかった。業務のうち二時間は鮫田や牧岡課長からの説教。本来の業務である二時間分の時間は、残業という形で処理しなければならない。つまり、起きている時間のすべてを仕事に費やさなくてはならないのだ。

 いや、仕事をするだけならまだいい。貴之は、パワハラや嫌がらせをしてくる上司や先輩と同じ空間に起きている時間共有しなくてはならないのだ。いかに同じ空間にいないようにするか、考えがいっぱいだった。

 極めつけは、昼休憩の時に、『お前はダメ人間で、使い物にならないから、休憩中や休日も勉強しろ!』と、人権をはく奪のするような脅しを鮫田が押し付けてくる。昼寝に関しては、過去の良書や現代科学では昼寝により午後からの仕事の効率が良くなることが推奨され、大企業のCEOも昼寝を実践していた。

 きっと、この事実を鮫田や牧岡課長に向けたところで、『世間で騒がれていることは嘘っぱちだ。俺の言うことが正しいんだ!』などと、叫ぶことだろう。

まるで、どこかのテレビで無知なコメンテーターが、偉そうに持論を展開しているかのようだ。これらの人種は、ソクラテスの『無知の知』を理解してないに違いない。世間は自分を中心にして回っていると錯覚しているから、的外れなことを我が物顔でいうのだろう。まさに、厚顔無恥というものだ。自分が無知であることを知らずに、でかい態度を取ることほど、見苦しいものはない。そう貴之は解釈した。

 朝起きて職場に行き、夜の一一時に会社を出て、寮に帰宅するのがいつも日付が変わるころだ。ひどい時には、日付が変わる時まで会社にいるときもある。起きている時間を全て、忠誠心のかけらもない会社に捧げているということだ。

刑務所より過酷な生活でも、貴之がこれまで耐えられたのは、週末に有希子と会っていたからだ。東京での生活は、有希子と会っていることだけが、貴之にとって何よりの支えだった。

 人間は、何か支えがないと生きてはいけないものである。支えがあるから、不安や恐怖に押しつぶされそうなときでも、耐えられるのである。だが、その支えがポキッと折れれば、心も簡単にポキッと折れてしまう。

 貴之の休日は、有希子との楽しかった日々や、大学時代の弘志や昭一たちとバカをやっていた日々など、楽しいことを振り返る。そして、日曜日の夕方になると、メンタル本を読み漁って、明日からの平日五日間をどうやって生きていくか、対策を講じていた。

 そんな中、たまたま読んだ本で、人間は集団になれば『群集心理』や『集団思考』が働くことを、貴之は見つけた。つまり、個人であれば優秀な思考の持ち主が、集団に属してしまえば集団の多数決が正となってしまい、その優秀な個人は抹消されてしまうということだ。

 貴之は考えた。この会社では第三者から見れば狂っている制度でも、『群集心理』や『集団思考』により狂った制度がそのまま法律として制定されてしまったのだ。つまり、この会社にいる以上、個人としての理性は捨て、会社の法律に則っていかなければ、会社の法に裁かれてしまうのだと。


 ある日、事件が起きた。事務所で管理していた倉庫の鍵が紛失したのだ。倉庫の鍵の使用には管理簿があり、最後に使用したのは、貴之の名前が書かれていた。その結果は火を見るより明らかであった。

「浅水! お前が鍵を失くしたんだろ!?」

怒号を上げたのは、いつもの鮫田であった。やがて、職場全体が同調圧力で貴之を犯人扱いした。貴之は外回りから帰って来たばかりのため、状況が整理できていなかった。

 確かに貴之は倉庫の整理で三日前に鍵を使用し、管理簿にも記帳した。そして、鍵をもとの場所に確かに戻し、返却日時も記載した。それは貴之も事実として受け止めていた。

 だが、鍵を戻した後の責任は、貴之の管轄ではない。年中無休で鍵の番をしているわけではないのだ。さらに、鍵を失くした人物が、わざわざ管理簿に名前を書くだろうか。それであればわざわざ『私が犯人です』と、自白するようなものだ。犯人なら、少しでも痕跡を残さないよう、管理簿に記帳などするはずがない。

 鍵の管理簿の最後に書かれた名前の人物が犯人であることを決めるには、あまりに短絡的すぎる推理だ。昭和時代の推理小説にあるように、突如探偵がやってきて『犯人を決めつけるには、あまりに短絡的すぎますね』と、言うくらいお粗末な状況証拠だ。

 それにもかかわらず、この職場は、管理簿で貴之の名前が書かれていただけで、安易に貴之が鍵を失くした犯人と決めつけたのだ。証拠がないのにも関わらずである。いや、証拠がなくとも、管理簿に貴之の名前が書かれていなくとも、この職場の人間たちはかつて日本を揺るがせた、被疑者を陥れるために検察官が事件をねつ造したように、でっち上げのストーリーで無理やりに貴之を犯人として扱ったであろう。

「職場の大事な鍵をなくす間抜けはお前くらいだろうが! さぁ、言え! 鍵をどこにやったんだ!?」

 持っていた書類を机に向かってバシバシと叩きながら、鬼のような形相で鮫田は貴之に詰め寄った。この手の人種はよほど会社に愛着があるのか、それとも単に貴之をサンドバックとして扱っていい条件が整ったため、遠慮なくストレスを解消させているのか。一つ言えることは、貴之のため想っての行動でないことだけは、間違いない。

 貴之は思考を巡らせていた。事実を話しても、この人間どもは聞く耳を持たない。どうやって聞く耳を持ってもらえる環境を整えるかが重要となる。感情的になっている人間どもに対して感情的に抗議しても、火に油を注ぐ結果となり、事態はさらに悪化する。

こうなれば、鍵を失くしたことではなく、新人が生意気だという変な問題に発展しかねない。この手の人種は問題の論点のすり替えが非常にうまい。ずるがしこさにかけては天下一品だからだ。

「本当にお前はダメな人間だな! お前みたいな人間は死ねばいいんだ! むしろお前を生かすために必要な食べ物やエネルギーがなくなるから、世の中にとっては好都合だ! お前は世の中に必要ない人間だ! おまけに、鍵を失くしたなら、今すぐ死んで詫びろ!!むしろ今すぐ死ね!! そこの窓から飛び降りろ!!!」

(もうだめだ。打つ手がない。無実の罪を認めても怒られ、否定しても怒られ。残された道は、どっちにしても怒られるしかない!)

 鮫田に続いて、牧岡課長が貴之を恐喝していたその時、貴之の部を統括する本部長がひょいと出てきて、鍵を管理しているボックスに手をかけた。全員の視線が本部長に注がれる中、部長は倉庫の鍵を戻したのであった。一同が静まり返る中、牧岡課長が本部長に確認を取った。

「ほ、本部長。倉庫の鍵なんか使って、どうされたのですか?」

「はっはっは、実は来週の監査で倉庫の立ち入りもあると聞いたのでな、事前に不備がないか確認をしようとしたのだよ」

「し、しかし。そこは我々が入念に確認をしておりますので、本部長が手を煩わせることは・・・」

「いやいや、君たちがいつも頑張っているのは分かっているが、やはり何事も自分の目で確認しなくては気が済まなくてな」

 本部長が相手では、管理簿の記帳について指導できる者などいなかった。かの上司や先輩も、貴之を日ごろから指導しているにも関わらず、いざ目上の人に対しての指導はできなかった。鮫田と牧岡課長はいつも僕を罵倒しているような口調で本部長も指導してやれと、貴之は頭の中で指示を出していた。

 事件は解決ししたためか、そこから先は、誰も貴之に対して、取り調べをすることはなかった。謝罪をすることもなかったが。

 この光景を見た貴之は、もしかしたら本部長は僕の先輩どもを信用していないのかもしれないと感じた。奴らに任せておいたら、不備のオンパレードで責任問題として本部長のポジションを明け渡すことに繋がると想定したのだろう。だから、監査に対する準備は自分で何とかしなくてはならないと思ったから、自ら倉庫に行ったのではないだろうか。

 鍵の無断持ち出しについては腹が立ったが、本部長の行動自体は共感できる貴之であった。そして、この会社の人間性の低さを改めて実感した。やがて、こいつらは世間からパッシングされて四面楚歌を味わう日がやってくると、信じてならなかった。

 やはり、『疑わしきものは罰せ』の精神なのだろう。何か都合が悪いことが発生すれば、全て貴之という人間に責任が及ぶことになる。つまり、この会社では貴之の名前そのものが、粗悪品というわけだ。

 例えば、ごく一般な報告書も、担当者欄に貴之の名前が書かれたとたん、一気に重箱の隅をつつくようなチェックとなり、赤ペンで真っ赤に書かれて戻ってくる。

ただ修正させるだけならいいが、修正内容について説教と日本語が十分に理解できていないとして、いちいち国語辞典で修正した単語について理解するように報告書を別枠で提出させられる。世界で活躍する一流企業のカイゼンチームが見れば、開いた口がふさがらないほどの無駄な業務に映るであろう。

 貴之はある実験をした。かつての鮫田が提出した報告書を、そっくりそのまま引用して提出した。この報告書の内容や書きぶりは一切貴之は関わっていないどころか、かつての鮫田が書いた内容を自分で添削するのだ。つまり、貴之の名前が書かれただけで豹変するかを試したのだ。

 結果は貴之の想定通りであった。報告書が真っ赤な赤ペンで返って来たのだ。それも、今までで最も出来の悪い報告書だと、鮫田は一時間説教を始めた。貴之は内心で、やはりこの男は能無しで根性が意地汚いと悟った。自分の出来が悪いことに気が付いていない、厚顔無恥な大バカ者だ。それも、今の僕より昔の鮫田の方が出来が悪いと自ら認めている。これがもし過去の自分が作成した報告書だと知れば、報告書の出来が悪いことは取り下げるに違いない。

 やはり、僕の名前が書かれた地点で、こいつらは徹底的に攻撃をしてくると確信した。ただ怒鳴ってストレスを解消させたいだけだ。怒鳴りつけても許される動機を、常に探っているに違いない。

 この職場では、人権などないも同然だ。いつものように、絶望を抱えて帰宅した貴之。この日は金曜日ということもあって、翌日は悪夢にうなされて起きても、そのまま二度寝できる安堵感があった。

 机の前に座り、人生について考え始める。ノートとペンを使って、頭の中で考えていることを引きずり出すように書き始めた。この時、時刻は午前零時を回っていたが、眠くなる限界まで貴之はノートに殴り書きのように書き始めた。


『石の上にも三年と言うことわざがあるが、限りある人生の中で、三年間という莫大な時間をどぶに捨てるわけにはいかない。あまりにもったいないからだ。何かきっかけとなるものがあれば、すぐに会社を辞めよう。室別大学の名前を使えば、北海道内では再就職ができることは間違いないはず』


『追い打ちをかけたのが、有希子と別れたことだ。有希子と別れたことで、心の支えになるものが何もなくなってしまった。会社生活でのマイナス面を有希子の存在で帳消しにしてくれて、人生のパロメーターがプラスマイナス〇であった』


『だが、有希子という絶対的な存在がなくなっては、人生のパロメーターがマイナスゲージから振り切れてしまった。この先、生きていてずっとマイナスゲージのままであったらどうするか。それはつまり、死んだほうがマシな人生ということではないだろうか。この生き地獄を死ぬまで味わうとすれば、一体、何を楽しみに生きていくのだろうか。肉体的には生きているが、精神は死んでいる。つまり、浅水貴之という人間は役所の戸籍の中でしか生きていない扱いだ』


『しかし、僕はまだ二二歳だ。この先の人生でひょっとしたらいいことがあるかもしれない。会社は大企業と言うこともあって、転勤が必ず発生する。転勤でなくとも部門配置換えも毎年、いや毎月どこかの部署では必ずある。今ストレスの原因は、あの上司と先輩の存在だ。職場環境が変われば、まだ人生の好機がやってくるかもしれない』


『それにしても、有希子はなぜ僕のもとから去ってしまったのだろう。これから先、有希子のような人とまためぐり合うことができるのだろうか。あれだけ魅力的な女性など、そう簡単に見つかるはずがない。例え彼女ができたとしても、心のどこかでは有希子と比較するのだろう。そして、いつも有希子に軍配が上がるのだろう。だとすれば、これからの人生は妥協と偽りの人生を歩むのか。つまり、いつまでたっても人生のパロメーターがプラスになることはない。そうなると、僕の人生は・・・』


『有希子、有希子、有希子、有希子、有希子、ゆき・・・』


 やがて貴之は、机の上で寝てしまった。紙に書くことで、頭をすっきりさせようとしたが、結局はかえって混乱を招いてしまうことになった。



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