暗殺依頼・1
お江戸在住の傾城・明姫を暗殺してほしい。
そんな依頼が相馬家に飛び込んできたのは、壱真が小学校卒業を間近に控えた寒気が厳しい頃。
卒業式に着用するのが慣例となっている中学校の制服を早めに揃えて、ああだこうだと言っているような時期だった。
「社長、こんなものが届いていたのですが」
この物騒な案件は、壱真の祖父にあたる相馬 玄馬から展開していく。
「うん?」
玄馬は札幌にある経営コンサルタント会社の代表を現役で務めている傑物で、正孝の父親である秘書の和泉 正宗から一通の封書を受け取っていた。
手書きすら少なくなった昨今では珍しい毛筆の宛名書きながら、料金分の切手にかぶせて消印が押されているので通常の郵便物の範囲内だ。
封筒が赤いので、仕分けする時にさぞ目立ったことだろうと感想が浮かべど、違和感といえばそれくらい。
気配り上手の正宗が時間外にわざわざ手渡しに来る辺りが、妙といえば妙だった。
「脅迫状でも入っていたか」
「そのくらいは異常の内に入りません」
正宗は、きっぱりと言い返した。
もし、本当に脅迫状でも届いたのなら、速やかに出所を調べ尽くして犯人を捕らえて処分する。
もしくは、説教や脅しなどのあらゆる手段で改心させて誓約書にサインをもらい、玄馬が身の危険を感じる前に解決済みですと報告する男だからだ。
「では、なぜ、持ってきた」
「中を確認できないからです」
「なんだ、そりゃ」
社長や会社宛の郵便物は秘書室で全て目を通し、重要度で厳選されたものだけ渡すことになっている。
ところが、件の封筒は何の変鉄もない外見なのに、秘書室の誰一人として開けることができなかった。
仕舞いには、腕力自慢が集まる警備部にまで協力を要請したというのに、赤い封筒は尚もピンシャン未開封のままだった。
「念のため、X線検査にかけて危険物でないことだけは調べてあります」
報告する正宗には、とても不本意だという悔しさがにじみもれている。
「ふむ、誰が仕掛けた遊びだ?」
交遊関係の広い玄馬には、パズルを解かないと会場がわからない招待状や依頼内容を暗号にしてしまうユーモアの利いた文を出してくる奇人がまま知り合いにいた。
なので、これも、その類いだろうと考える。
もしくは、頑丈な紙材を開発した誰かの自慢か売り込みか。
表書きだけで判断できなかった玄馬は、差出人を判別しようと裏返したところで、常に人を喰って見える泰然とした姿勢を揺るがした。
「どうかしましたか」
玄馬の影とまで称される優秀な秘書の正宗が鋭い観察眼で僅かにもれ出た不穏さを察した点はさすがだったが、見極められたのはそこまでだった。
「家に帰る」
「は?」
社長が家に帰る。
真っ昼間の勤務時間なので社会人としては大いに問題発言だったが、社長室がざわめいたのは、そういうまともな意味合いではなかった。
「まだ、正月でも、ご家族の誕生日でもないですよ」
正宗が目をぱちくりさせて言ったことが、全てを物語っていた。
玄馬は家という存在を忘れているのではないかと疑いたくなるほど日本を、時には、世界を股にかけて飛び回っている。
過重労働が高らかに叫ばれる昨今の風潮に望んで逆らい、昔なつかしのキャッチコピー・二十四時間戦えますかを地でいく奇特なビジネスマンだ。
週二日あるはずの休日も、温泉に行ってくると癒されに向かった先で商談をまとめてしまうワーカーホリックな御歳六十二の元気な社長が、記念でも何でもない日に家に帰ると宣言したことが驚きだったのだ。
正宗なんかは、一瞬、認知症が始まったのではと青ざめたくらいである。
しかし、玄馬は周囲の反応などお構いなしにてきぱき身支度を整え、最低限の指示をきびきび出してから、正宗に「後は任せる」と言い残していなくなった。
通常なら、もう少しだけと言い訳しながら仕事にきりをつけられない玄馬を、秘書らが寄って集って正宗を添えて追い出し出発する有様なのだが、今回は引き止める間もなく、自ら進んで退社していった。
その日、玄馬の会社では稀なる天災に見舞われるのではないかと戦々恐々とした社員が後を絶たず、秘書室一同は必死の形相で気象情報を収集していたとかいないとか……。
ともかく、問題の依頼書は、開封されぬ状態で局地的な騒動を引き起こしていたのだった。




