遺言のコーヒー牛乳
大浴場で温められて血行の良くなった柔肌をタオルで拭く私は、この「岸和田天然温泉 ともの湯」が今も残っていた事に心から感謝した。
町の銭湯が健康ランドやスーパー銭湯を向こうに回して生き残るのは、並の苦労じゃないからね。
『誉理ちゃんが言ってたように、地元の人に愛される銭湯なんだね。身体だけじゃなく、心まで温かくなった気分。』
ロッカーから出した衣服を身に付けて髪を結い上げながら、私は友達だった女の子に想いを馳せていた。
陸軍女子士官用兵舎で仲良しだった友呂岐誉理ちゃんは、実家の「ともの湯」を自信満々で紹介してくれたんだ。
-来てくれたら、コーヒー牛乳位なら私が奢ってやるよ。
そう約束してくれた誉理ちゃんだが、結局は白木の箱に入ったお骨という形でしか日本に帰れなかった。
この銭湯を私が訪れたのは、モスクワで戦死した故人を偲ぶと同時に、友達との約束を果たす為でもあったんだ。
来た時は下町風の気さくなオバサンが応対してくれたけど、今は大将と思わしき白髪混じりのオジサンが、番台に座って旅行番組を見ている真っ最中だ。
誉理ちゃんにはお兄さんがいるって聞いたけど、この人がそうなのかも!
「あの、すみません…友呂岐誉理さんのお兄さんですか?」
「友呂岐誉理…それは父方の叔母の名前だね。生憎だけど、親父はもう亡くなってしまいましたよ。」
誉理ちゃんの没後に産まれた甥っ子さんでは、誉理ちゃんの思い出話をされても困ってしまうだろうね。
-仕方ない。この銭湯を継いでくれただけでも感謝しないと。
そう気持ちを切り替えた私は、せめて故人を偲ぶべく、番台のオジサンにコーヒー牛乳を注文した。
ところが…
「御代は構いませんよ。私じゃなく、誉理叔母さんからの奢りです。」
オジサンは冷蔵庫から牛乳瓶を取り出すや、支払おうとした私を押し留めたの。
「親父の遺言でしてね。『誉理伯母さんを尋ねる女性客には、コーヒー牛乳を奢って差し上げろ。』ってさ。誉理伯母さんが戦地で綴った最後の手紙に、そう書いてあったとか…」
「自分に何があっても、約束を果たせるよう備えてくれたんだね…ありがとう、誉理ちゃん…」
震える声と手で受け取ったコーヒー牛乳は、涙で少し塩辛かったの。
だけど、今まで飲んだどのコーヒー牛乳より美味しかったんだ。