妹よ 愛してるから 行かないで
「ぎゃーーーーー!」
お尻を拭いたトイレットペーパーに血がついてたのを見て俺は絶叫した。
慌てて手持ちのスマートフォンで『お尻 血』で検索をかける。
一番多く出てくる『痔』というワードを無視して俺の目は『大腸ガン』という言葉に吸い寄せられた。明らかに作為的な情報収集である。その時探してる文字以外って目に入らないもんだよな。
「うわーーーーー!」
と叫びながらトイレを出て二階へかけ上がり妹の部屋をノックした。
コンコンコンコンコン!
「妹妹妹妹妹!!」
「うるさいなぁ!なに!」
がちゃりと扉を開けて迷惑そうに俺をにらむ妹。フードの付いたパーカーを着ている。
俺は肩で息をしながら衝撃の事実を告げる。
「聞いてくれ!俺は大腸ガンかもしれん!」
「……1から説明して」
いぶかるように低いテンションで聞かれる。
まったくコイツは大丈夫か!反応が鈍すぎる!
妹のこういうところを目の当たりにするたび俺は心配になる。こんなのでこれから一人東京に行ってやっていけるのかね。
「うんこしてお尻拭いたら血が出た!」
「痔!!!」
俺は部屋から蹴りだされた。
兄の心妹知らずとはこのことか。俺のこの心配をあいつは感じないらしい。まったくやれやれだ。
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今度の事件は夕食の準備をしているときに起きた。
サラダ用にブロッコリーを洗っていると、茎のところにウニウニ動く幼虫を発見したのだ。
「ぎゃーーーーー!」
俺は水道の蛇口を閉め、慌てて二階の妹の部屋へ走った。
コンコンコンコンコン!
「妹妹妹妹妹!!」
「お兄ちゃん!今度は何!」
がちゃりと扉を開けて覗く妹の表情はややうんざりしているようだ。
部屋の中には開け放たれたトランクと、タンスから引っ張り出された沢山の衣服が見える。
「……」
「……なに、黙っちゃって。さっさと言いたいこと言ってよ」
「……ブロッコリーの間に幼虫がいた。気づいて良かったけど、気づいたらもう食いたくない」
「忙しいの!出てって!」
また蹴りだされた。
幼虫に気づいた俺のファインプレーを褒めこそすれ、邪険に追い出すなど信じられん。
どうせ明日にはこの家を出ていく身だろう。せっかく構ってやってるのに釣れないやつめ。
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服を脱いで、お風呂の蓋を開けたときに大変なことに気づいた。
お風呂の栓が開いており、沸かしたはずの湯を全て捨ててしまっていたのだ。
「ぎゃーーーーー!」
俺は脱いだばかりの服を着て、妹の部屋に向かった。
コンコンコンコンコン!
「妹妹妹妹妹!!」
「もう!うるさいなぁ!」
がちゃりと扉を開けた妹は、怒っているような困っているような、複雑な顔だった。
「なんでそう今日は騒がしいの!」
「だ、だって」
「なに」
「お風呂が……」
「どうしたの」
俺はすっかり片付いた妹の部屋を見て息が詰まるのを感じた。
あんなに汚かった机の上もすっきりして、コルクボードの写真は外されている。
トランクは、もう満パンで閉まっている。
俺は震える唇で言った。
「お、お前が東京に行ってしまうから……」
「……」
俺の目から情けなく涙が溢れた。
「い……行くなよ東京なんて……」
「……」
大学へはここから通えよ。ちょっと遠いけどさ。だって、ほら、ダメだろ一人暮らしなんて。兄より早く家を出るなんて不幸者だよ。ありえないだろ。
妹は俺が泣くのを黙って見つめていた。俺は立ったまま両腕で顔を覆った。嗚咽が漏れるのが恥ずかしかった。
妹は俺を部屋の中に招き入れ、そのままベッドに腰掛けさせた。そしてすぐ隣に座った。
妹は俺を慰めてはくれなかった。だって慰めたところで、お前は行くんだもんな。だったら何もしないでいいよ。
と思ったら妹は俺の膝の上に手を置いた。腕で顔を覆っていたから見えなかったけどその感触があった。
俺はしばらく泣いて、泣き止んだら何も言わないで部屋を出た。お湯を入れなおしてすぐ入った。その沸かしたてのお湯のにおいで鼻がツンとした。
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翌日、東京に向かう妹を両親と一緒に見送った。
一生の別れでもなし、「じゃあまた帰ってくるね」と淡白なものだった。
両親も、妹も平気そうに見えた。俺だってもう平気だ。
妹の上着の襟がめくれていたのでさっと近寄って直しながら
「愛してる」
と言った。
妹は襟を正す俺の手に手を重ねて、歯を見せて笑った。
それから、ぽろっと泣いた。
泣くなよ、と思った。
泣いた癖に、やっぱり妹はそのまま東京に行ってしまった。
何度も何度も、もう二度と会えないんだろうという気がした。そんなわけないのに。