無明を断つ1
※「柳生無明剣」の後、1640年頃の話です。
ーーああ恐ろしの般若面よ
江戸の夜だ。
とある商家に強盗が入った。
彼らは浪人であった。三代将軍の治世では全国の大名が次々と改易され、浪人があふれた。
その数は全国で十六万人という。
江戸にも数万人の浪人が集まり、治安は非常に悪かった。
浪人たちは商家の者を一人残らず縛り上げ、猿轡も噛ませて声を立てられぬようにした。
そうしておいてから、浪人数名で千両箱を担いで外に出た。夜空には満月が輝いていた。
浪人たちが気を緩めた時だ、彼らに声がかかったのは。
「ーーそこまでだ有象無象」
月下に照らされた人影を浪人たちは見た。
黒装束に身を包んだ男だ。その顔には、黒塗りの般若の面があった。
それを見た時、浪人たちの脳裏に閃く噂があった。
江戸の夜にのみ現れる般若面。
般若の面をつけた彼の者は、江戸の凶賊を相手に生死を懸けた闘争に臨み、刀槍を手にした者たちと戦いながら未だ敗北せず。
荒ぶる悪鬼も怖じ気づく、修羅を喰らう羅刹のごとく、と。
「喝!」
般若面の威嚇の一声に浪人らは硬直した。事が上手く運んだと油断もしていた。
その隙に般若面は浪人たちに向かっていった。
般若面は右手に木の棒を握っていた。
長さは一尺五寸あまり、一方の端には握りがついている。
この時代では琉球に伝わる武具であった。
「んが!」
「ぐえ!」
浪人の悲鳴が夜空に響いた。般若面は手にした棒で、浪人の肩を打ち据えたのだ。
小太刀術のような洗練された滑らかな動きであった。
「おお」
もう一人の浪人は気合いと共に抜刀し、般若面に斬りつけてきた。
闇を裂く白刃の閃きを般若面は避けて、右肩から浪人の胸元へぶち当たった。
「ぐぶ」
みぞおちに衝撃を受け、浪人はうめく。
その間に般若面は浪人の右袖を左手でつかむと、体を回して投げた。
浪人は背中から大地に落ちた。後世の柔道の技に近い。
投げられた衝撃に、浪人はうめいて気絶した。
「天命、未だ我にあり」
般若面はつぶやき、夜の闇に走り去った。
後には武装した同心らが提灯を持って商家へ駆けつけた……
翌日、七郎は江戸城の中にいた。
「般若面なる者を知っておるか」
父は七郎を見た。政治家にして兵法指南役の七郎の父だ、その眼力は他者を怯ませるものがあった。
「さて、とんと存じませぬ」
七郎は平然と言った。隻眼の彼は前年に弟を失ってから、少々おかしくなったと人は言う。
「そうか」
父は言った後、七郎に背を見せ硯に向かった。
「江戸には凶賊、更には魔性が夜な夜な出没するそうな…… 魔性を斬れ、七郎。世を乱すものなり」
「承りました」
七郎、うなずいて父の前を辞した。
魔性とは人の心から、悪意から生まれるものの総称であるか。
「俺の死に花を見るがいい」
七郎は青空を見上げてつぶやいた。彼は心中に昨年他界した弟を思い描いていた。
昨夜、浪人たちを成敗した般若面の正体は七郎であった。
彼は死に場所を求めていた。同時に目指すべき境地がある。
それは武の深奥だ。
彼の祖父や父、伯父らが目指した武の深奥を七郎は目指したい。
そのための戦いであった。彼は命がけで狂気じみた修行に励んでいるのだ。
凶賊退治は七郎の修行なのだ。
「いい空だ」
七郎は微笑し、人混みの中を歩きだした。
新たな敵を予感していた。