江戸を守る者
※1640年前後のお話です。
柔よく剛を制すと父は言った。
剛よく柔を断つと師は言った。
どちらも七郎にはありがたい教えであった。
そのために幾度も死地を脱したのだから。
江戸の町には浪人があふれていた。
これは前三代将軍が全国の大名を次々に改易したからである。
大名の改易によって全国にあふれた浪人は、十六万人とも言われる。
なので江戸のみならず世間は物騒だった。
夜間の外出を禁じた藩もあるという。
明日をも知れぬ浪人が、凶賊に転じることは珍しくなかった。
「ーー命惜しくば身ぐるみ脱いで置いていけ」
浪人は叫んだ。手には刀を握っている。尾羽打ち枯らした浪人達に囲まれ、七郎は絶体絶命であった。
「ほお、物盗りか。やむをえぬ」
言った七郎は落ち着いている。なぜに夜間に外出したのか、理由があるはずであった。
七郎は腰の帯に差していた小太刀を鞘ごと抜いた。
「さあよこせ」
浪人が歩み寄って小太刀を受け取ろうと左手を差し出した。
その機をとらえて、七郎は動いた。
彼は握った小太刀の鞘部分で、その浪人の頭を殴りつけた。浪人はたちまち目を回して後方へ倒れた。
「な、何をする」
戸惑う別の浪人にも、七郎は小太刀の鞘で殴りかかる。
動きは滑らかで洗練されていた。七郎は兵法の心得もあるようだ。
他の浪人は七郎の技に泡を食って逃げ出し、無傷で立っているのは一人になった。
「きいさまあー!」
浪人が刀を振り上げるのへ、七郎は小太刀の鞘を投げ捨てながら応えた。
疾風のように七郎は浪人の懐へ飛びこむ。
後の先だ。
飛びこんだ瞬間には、七郎は浪人と組みつき技をしかけている。
「うわわわ!」
浪人の体は悲鳴と共に、背中から路上へ落ちた。
七郎がしかけたのは、後世の柔道における背負投によく似ていた。
浪人はうめきながら、やがて気絶した。
「さて、あとは同心らに任せるとするか」
月光に照らされた七郎の顔には、冷や汗と共に不敵な笑みが浮かんでいた。
昼である。
江戸城に程近い九段にある茶屋の店先で、七郎は茶と団子を楽しんでいた。
(今日もお江戸は日本晴れか)
七郎は通りを眺めた。忙しそうに行き交う人々の群れ。
働く者は忙しい。忙しいからこそ生きられるのだ。
(俺の仕事はいつまで続くかな)
そんな事を考えていると、茶屋の老婆が七郎の側にやってきた。
「まったく、大の男が働きもせずに…… この怠け者!」
「は、ははは……」
老婆の小言に七郎は苦笑するのみだ。




