柔よく剛を制す
※寛永三年(1626年)頃のお話です。
「死ぬなよ十兵衛さん」
小野忠明は言った。十兵衛は隠密として西国大名の動静を探る旅に出る。
十兵衛は忠明に別れを告げに来たのだ。
「老師の教えは忘れません」
「何を言う、親父殿のしごきに比べればたいした事はあるまい。それより」
忠明の目つきが変わった。
「わしと真剣で、勝負せんかね? 全身全霊をふりしぼった最高の勝負を」
しばし後、十兵衛と忠明は小野家の道場で向き合った。
互いに提げているのは真剣であった。
「死んでも後悔されるな」
忠明の顔は真剣そのものだ。老人とは思えぬ気迫に十兵衛は全身総毛立つ。
戦国の剣聖、一刀齋より剣を学んだという忠明。その実力は高く評価され、将軍家剣術指南役として八百石をたまわっている。
対峙する十兵衛は――
なぜ忠明の申し出を受けたかわからない。
後悔こそないが、忠明の気迫に血の気が引く。
死の恐怖に怯える。
しかし、それを通り越し、死を覚悟した十兵衛の魂は、無の境地に到っていた。
後に十兵衛は、その境地を「捨心」と著書につづっている――
「――キィエーイ!」
狂気じみた忠明の叫び。
打ちこまれた一刀。
ガギイと鋼の刃が打ち合う音。
十兵衛は瞬時に刀を抜いて、刃を以て忠明の凶刃を受け止めていた。
重く鋭い一刀であった。
死を恐れず踏みこみ、全身全霊を用いて受け止めなければ、十兵衛は刀ごと斬られて果てていたかもしれない。
「やるな、十兵衛さんよ! しかし、わしはあんたを斬りたくて、うずうずしておるのだぞ!」
鍔迫り合いの状態から忠明は力をこめる。
十兵衛は怖かった。忠明の発する狂気に。
否、人間の持つ暴力の意思に――
「――御免!」
叫んで十兵衛は刀から両手を離した。
素早く忠明の右手側に回りこむ。
前につんのめりそうになる忠明の腰に手を回し、足を払って後方へ倒した。
現代柔道における大外刈りの変化型だ。無手で敵を制する柔の技こそ、世に言う「無刀取り」である。
「ぐふ!」
背中から道場の床に叩きつけられて息が詰まる忠明。
その彼を心配そうに見下ろす十兵衛。
やがて呼吸を整えた忠明は十兵衛を見上げ、不敵に笑った。
「その意気だ十兵衛さんよ…… 強敵難敵に対峙した時は、わしの事を思い出してくれよ」
つまり忠明は、これから死地へ向かう十兵衛に命がけの稽古を施してくれたのだ。
「今の真剣勝負、忘れるな。水杯はせんぞ、必ず帰ってこい」
十兵衛と忠明は再会する事はなかった。十兵衛が旅の最中に忠明は他界した。
柳生十兵衛三厳は十二年後に将軍家光の御書院番(側勤めの親衛隊)として出仕した。
十二年に及んだ空白の時期に彼が何をしていたのか、それはわからない。
が、兵法(武術)の練磨に励んでいたのではないか、と後世の人々は言う。