武の深奥
※隠密として旅をしていた頃、1630年前後を想定しています。
寄せては返す波の音に、十兵衛の心は安らいだ。
九十九里の砂浜で、十兵衛は海の彼方の地平線を眺めていた。
心に映るのは、父宗矩と恩師小野忠明との修業の光景だ。
――どうした十兵衛! 白紙になって打ちこんでこい!
宗矩の組打の妙技に、十兵衛は幾度となく音を上げた。刀剣の威は、時に対手の気迫を引き出すが、組打の苦痛は意気を削ぐ。
――我が剣魂に怯えるな、無心で参れ!
忠明の老人とは思えぬ気迫を思い出して、十兵衛は身震いする。あれが時を越えて伝えられる剣の達人、一刀齋から剣を学んだ御子神典膳なのだ。
己と比べれば、父と恩師は格が違った。宗矩、忠明共に武の巨人であった。
(それでも俺は武の深奥を一目見たい)
父、宗矩の言う無拍子。
師、忠明の言う夢想剣。
幕府隠密という命懸けの任に就いたのは、その技の妙利を得んとするためでなかったか――
今となっては、十兵衛はそのように思うのだ。
(む……)
殺気を感じて十兵衛は波打ち際から飛び退いた。
浅瀬の波をかきわけ、長い蛇のようなものが飛び出してきたのだ。
それは見間違いでなければ、体長十尺を越える竜であった。
竜は口を開いて十兵衛を一口に飲みこまんとする。
ふつ――
微かな音は、刃が空を切り裂き、肉をも断った音だった。
瞬きほどの間に、十兵衛は左手で抜いた脇差しで竜の牙を横薙ぎに切り、右手で抜いた三池典太を打ちこんで竜の頭部を一刀両断にしていたのだ。
波打ち際に竜が倒れた。
(今のは……)
全く考える事なく、二刀を振れた。
十兵衛自身ですらが、いつ刀を抜いたか自覚しておらぬ。
(……これか!)
十兵衛の身が震えた。
無拍子。夢想剣。
これが武の深奥ではないのか。
歓喜に震える十兵衛だが、もう一度やれと言われてもできぬ。
武の深奥、その奥義は見えたと思えた瞬間には、はるかな遠くにある。
そして竜など何処にもいなかった。全ては十兵衛の白昼夢であったのか。陽は高く、昼に近い時刻だ。
(これも経津主神の導きか)
経津主神とは香取神宮の祭神で、古来より武術の神として祭られている。
ふつ、とは刀剣でものを断つ音という。
ひょっとすれば、経津主神が十兵衛に何かを教えたのかもしれぬ。
先は長いと十兵衛は思った。
この九十九里浜から見える彼方よりも、武の深奥は果てしなく遠いように思われた。
十兵衛は二刀を鞘に納め、歩き出す。
前途には新たな敵が待っている。