満ち足るを知る
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江戸の町は活気にあふれていた。
参勤交代制が始まり、江戸には多くの武士が住むようになった。武家屋敷は増築され、職のない浪人が労働力として雇われる。
江戸で多発していた浪人による犯罪も減少してきた。江戸は天下泰平に相応しい世界へ変化していた。
変化は日本全土に起きていた。参勤交代のために全国の大名が江戸を目指す必要がある。
それは一日でできる事ではない。全国各地に宿場町が設けられ、そこにも人が集まる。職を求めて浪人も集まる。
改易によってあふれた浪人は全国で十万人以上、その全てを救う事はできないが、再生の道はある。
(これも知恵伊豆様の神算鬼謀だ)
七郎は杖をつきつつ江戸の往来を歩いていたが、不意に足を止めて青空を見上げた。
右目の潰れた隻眼の風来坊たる七郎は、江戸の夜の中で戦ってきた。江戸の人々を守るためにだ。
七郎の側を楽しげに通り過ぎる親子連れ。彼らの笑顔は天下泰平の象徴だ。
自分の命がけの戦いも少しは役に立ったかもしれぬ、と思えば七郎も満ち足りるのを知った。
「いつもの」
やがて七郎は馴染みの茶屋で足を止めた。店先の床几に腰かけ、人々の流れを見つめる。
茶屋の老婆が運んできた茶を一口飲み、団子も頬張る。この茶屋にいる時だけは、七郎は一人の男でいられるのだ。
(これでいい……)
七郎は夜の中で命をかけてきた。
白刃を避けて踏みこみ、刹那の間に組みつき投げる。
または打つ、当たる、蹴る、極める、絞める。
柔よく剛を制す、その体現。
父、又右衛門の説いた無拍子。
師事した次郎右衛門の説いた夢想剣。
まだまだ二人には遠く及ばないが、七郎はすでに満たされていた。
いつ死んでも満足できる境地でいるが、その静寂にも似た心境を打ち破るのは、いつも女だ。
「ねえねえ、知ってる?」
茶菓の看板娘おりんが七郎に話しかけてきた。
「武家屋敷におばけが出るんだって」
おりんは楽しげだが、七郎は曖昧な笑みを浮かべて硬直していた。
なぜならば、おりんの話す武家屋敷とは、七郎が幕閣から調査依頼を受けている案件ではないか。
「女のおばけらしいけど…… 男ってすぐにさあ、女だからって追いかけようとするからイヤなんだよね」
「ふ、ふうん」
意味ありげに横目で眺めるおりんと、硬直したままの七郎。
男と女は、武の深奥よりも深淵だ。




