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無明を断つ12 ~恐ろしの般若面よ~

 ゆえに七郎は瞬時に敵を倒す事を目指した。

 そして無手にて敵を制する事をも目指した。

 師と父、二人の理想を体現せんとしたのだ。

 その追究の日々は飽きず、七郎にとっては生涯と命を懸けるに値した。

 追究の日々が七郎を迷いから遠ざけていた……

「ーー若殿」

 商人の小男ーー名は丙兵衛ーーが七郎の側に素早く歩み寄った。

「若殿はよせ」

 七郎は口から煙管の煙を吐き出しながら言った。

「まあまあ。ところで先日の浪人でやすが」

「文治朗の事か」

 七郎は先日助けた浪人を思い出した。女のために死地に身を投げ出すとは、見所のある男であった。

「今はあの女と一緒に住んでるようで」

「うらやましいなあああ」

 七郎は眉をしかめてつぶやいた。平時の彼の俗物ぶりはなかなか面白い。

「それと…… この近くで浪人が群れておりやす」

 平兵衛の言葉に七郎の顔つきが変わった。



 夜になった。

 この時代、夜間の外出を禁じていた地方もあった。

 三代将軍の代に改易となった大小の藩は数知れず。その結果、全国にあふれた浪人は十六万人だという。

 江戸にも四万人ほどの浪人が流れてきた。明日をも知れぬ浪人が強盗に転ずるのは珍しくなかった。

 今宵も商家に侵入する浪人の一団があった。

「命惜しくば騒ぐな」

 浪人らは商人とその家族、使用人らを縛り上げ、猿轡を噛ませて声も出せぬようにした。商家の用心棒も早々と降伏していた。

「なあに、金さえもらえば帰る」

 浪人達は、金を盗む事に手慣れていた。よその土地で押しこみ強盗をしていた者達が、江戸に流れてきたのだろう。

 浪人達は手際よく商家から出てきた。夜空には満月が輝いている。月明かりに照らされながら、浪人は数人がかりで千両箱を運び出していた。

 その四方を囲んだ浪人達が周囲を見回す。夜の中に蠢くのは、彼らだけのように思われた。

「ーー待て外道」

 低い男の声に浪人らは揃って動きを止めた。

 見れば、彼らの行く手に立ちふさがる黒衣の人影があった。

 全身を黒装束に身を包んだ様子は、すでに忘れ去られていた忍びの者のようでもある。

 が、その顔に黒い般若の面を認めて浪人達は驚愕した。


 ーーああ恐ろしの般若面よ。


 江戸の巷で悪党どもが噂する存在がある。

 般若の面をかぶった謎の男。

 彼とその仲間の奮闘によって、捕らえられた浪人は数知れぬ。

 般若面は唐突に踏みこんできた。浪人らは応戦する間もなく、先頭の者が般若面の一刀に斬られて、月下に鮮血を吹き上げた。

「一人も逃すな!」

 般若面の号令一下、周囲に身を潜めていた黒装束の者達が飛び出した。

 刀を抜いた浪人へ、黒装束の小男が石つぶてを投げつけた。体勢を崩した浪人へ、別の黒装束が体当たりして吹き飛ばす。

 黒装束の者達と浪人らはたちまち乱戦になった。が、金品強奪が成功して気の緩んでいた浪人達と、待ち構えていた黒装束の者達では、士気が違っていた。

 小男の石つぶてを顔に浴びてうめく浪人へ、他の黒装束の者が飛びかかる。勝敗の行方は、早くも見えた。

「キイエーイ」

 最後に残った浪人が般若面に斬りつけた。横薙ぎの一閃を般若面は避け、踏みこんで一刀を打ちこんだ。

 ガアン!と甲高い金属音と共に、夜闇に火花が散った。

 般若面の一刀を浪人が受け止めたのだ。

 つばぜり合いの姿勢から、両者は力を振り絞る。どちらもただ者ではない。世には名人達人は山ほどいるのだ。

 つばぜり合いの姿勢から、般若面は刀を手放した。同時に体の力も抜けていた。

 前に泳いだ浪人の懐へ、般若面は右肩で当て身を食らわせた。

 うめいた浪人が刀を手放すと同時に、般若面は瞬時に技をしかけた。

 浪人の右袖を左手でつかんで引くと同時に、膝をつかんばかりに体を沈ませ、背負って投げた。

 浪人は顔から大地に落ちた衝撃で気を失った……

「……ふう」

 般若面は面を外した。現れた顔は隻眼の七郎であった。他の黒装束には、うどん屋の主人と、商人の小男も混じっていた。

(今日も生き延びたか)

 七郎は汗に濡れた顔で満月を見上げた。死の恐怖の緊張から解放された七郎は、生の喜びに満たされていた。命をかけた死闘の果てに、彼は菩提の境地へ到っていた。

(我が闘争、未だ終わらず…………)

 七郎の江戸を守る戦いは続く。

 魔性が人の心から産まれるように、邪心もまた人の心から産まれる。

 世に邪心は尽きることはない。

「俺はやるぞ、やるべきことを」

 満月を見上げた七郎の隻眼に、恐れも迷いもなかった。



〈了〉

※ここまで読んでいただき、ありがとうございました!

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