夢幻(ゆめまぼろし)のごとく
慶安三年(一六五〇)、柳生三厳は死んだ。将軍家剣術指南役の彼の葬儀は盛大に行われた。
「これで我らを阻む最大の壁はなくなった」
由井正雪は彼の死を悼みながらも、喜ばずにはいられなかった。
生涯最大の好敵手と認識していたが、決して嫌いではなかった。
ただ目指す道が違っていた。
「この世に法と秩序をもたらすために!」
正雪の胸には、幕府を打倒し法と秩序の新世界を造り出すという、青雲の志が燃え盛っていた。
彼につき従う張孔堂門下五千人、阻止する者がいようとは思われなかった。
***
――火事だ!
丸橋忠也は眠りから覚めた。火事と聞いては一大事、彼は寝間着のまま家の外に飛び出した。大なり小なり、自分にできる事があればやろうと思ったのだが、
「む?」
丸橋は目をしばたいた。夜は静かであった。満月に照らされた夜の江戸は、厳かな静寂に包まれていた。
「久しいな丸橋」
夜の闇に響く男の声。それを聞いて丸橋は絶叫した。
「や、柳生三厳!」
丸橋は月光に照らされた黒装束の男を見た。誰が忘れよう、憎き仇敵の顔を。右目の潰れた隻眼の異相を。
しかし彼は死んだはずだ。鷹狩りに出た三厳―― 通称十兵衛は、正雪の放った刺客団に襲われ、全身十数ヵ所を斬られたのだ。
それがために、先日死んだのではなかったか。
「とどめを刺さなかったのが運の尽きだな」
十兵衛は月下に不敵な笑みを見せた。
「兵は詭道なり―― 油断したな、お主たち。今頃は裏柳生の者が正雪を捕らえているかもしれぬな」
「な、何故だ…… 何故、貴様は死なぬのだ?」
丸橋はうめく。彼から見た十兵衛とは、幾多の死線を乗り越えて尚生き延びる、あり得ない存在であった。
「確かに俺は死地に落ちた…… だが、武徳の祖神は俺に死ぬ事は許さぬとよ。倒すべき敵を倒すまではな」
***
しばしの後――
十兵衛と丸橋は死合いの場所を河原に求めた。
十兵衛は変わらず黒装束、丸橋は稽古着に着替え、得意の十字槍を手にしていた。
「おあっー!」
穂先を十兵衛に突きつけ、丸橋は槍を構えた。対する十兵衛は両手に二刀を提げ、静かにたたずんでいる。
「おおおおお……!」
丸橋の気合いが河原に響く。音に聞こえた槍の使い手、丸橋。その気迫は武装した兵すら怯ませそうだ。
だが対峙する十兵衛に動じた様子はない。彼の心は恐怖を遠く離れている。
姿は即ち是、空なり。
死を覚悟した十兵衛の心は無の境地に入り、天地宇宙の気と調和していたのだ。
「はあっ!」
丸橋が槍を繰り出した。
十兵衛の左手が動いた。握った小太刀の刃が、槍の穂先を切断していた。
「おお!」
丸橋は宙に舞い上がった自身の槍の穂先を見た。そして襲いかかる十兵衛をも――
「御免!」
十兵衛は右手の刀で丸橋の左肩を打った。峰は返していた。打たれた衝撃に丸橋は気絶し河原の上に倒れた。
***
「……真打ち登場か」
気絶した丸橋を縄で縛り上げていた十兵衛は、河原に姿を現した凛々しい若者を見た。
金井半兵衛だ。正雪の側近にして懐刀、その正体は男装した少女……
「あなたを斬る」
半兵衛は静かに言った。
「正雪のためか」
十兵衛は半兵衛の秘めた思いを知っている。
「女は時に男よりも勇ましい……」
半兵衛の気迫に感服した十兵衛は再び刀を抜いた。次いで左手で小太刀をも抜く。
二刀を提げて半兵衛に歩み寄る十兵衛。その様は鬼神のごとき迫力だ。
だが半兵衛は恐れる事なく短刀を抜き、逆手に構えた。十兵衛を討つという決意は鈍らぬようだ。
(この一瞬が俺の全てだな)
十兵衛は半生を振り返った。激しい闘争の中に身を置いた人生だったが、悪くはなかった。
(戦いで果てるなら本望……)
十兵衛と半兵衛の間合いが迫った。
「覚悟!」
半兵衛は十兵衛に斬りかかった。
十兵衛の二刀が閃いた。
満月だけが二人の戦いを見つめていた。