無明を断つ5
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江戸市中を見渡せば男ばかりだ。
これは多数の地方の男が、江戸に出稼ぎにやってきたからだろう。
浪人も数万人単位で江戸に流れてきている。職と金を求めて、今日も男たちは忙しげだ。
「ここが俺の城だ」
浪人、文治朗は借りた長屋の一室に、大の字に横になった。
三十を過ぎた男盛りだ。仕えていた小藩は改易になり、父母もすでに亡い文治朗は江戸へ流れてきた。
先祖から伝わる刀は早々と売って金に代え、それを基にして身なりを整えた。
安い長屋の一室を借りて、住むところも手に入れた。江戸で何もできずに餓死した浪人に比べれば、文治朗は恵まれていたかもしれない。
(御先祖様のおかげだ、ありがたい、ありがたい)
先祖伝来の刀は高く売れた。文治朗には重くて扱えない、戦国造りの太刀であった。それを売ったことで、文治朗は武士としての傲りを捨てられた。
「食わねばならん」
文治朗は手に職を求めて行動した。長屋の主人に働き口を教えてもらい、埋め立ての人足になった。
朝早くから日が暮れるまでの重労働であった。三日に一回働けば、なんとか食っていけるようになった。
「生きるとは…… 忙しいことだ」
文治朗の生活は安定し、彼も江戸の住人として足がついてきた。衣食住が満たされた文治朗はその日暮らしにも慣れてきた。
「へい、らっしゃい」
馴染みのうどんの屋台で、文治朗は夕食のうどんをすする。具は刻みネギは当然として、薄く切ったかまぼこ、ちくわがある。この辺りでは評判のうどん屋だけあり、満足感があった。
「よお、景気はどうだい」
文治朗の隣に座った小男が気さくに話しかけてきた。この小男はうどん屋の主人とは知り合いで、浪人などに仕事を斡旋しているという。
「まずまずかな」
文治朗はうどんの汁を飲み干し、ぷはあと一息ついた。
「あとはまあ…… つ、妻のあてでもあれば」
「紹介できる女はいねえなあ」
商人の小男は苦笑いだ。この時代、江戸に女は少なかった。人口の七割が男、三割が女だったとも伝えられる。
「ふうむ」
七郎はこの時、意外にも屋台の長椅子の一番端に腰かけていた。
うどん屋の屋台の店主も小男も、実は江戸城御庭番だ。彼らは秘密裏に城下を観察し、江戸の治安を守る事に貢献していた。
また、七郎は先日の禅師の言葉と、己が遭遇した魔性について考えこむようになっていた。
「ーーおやじ、うまいな」
「へえ」
七郎の正体を知る屋台の店主は、慇懃に頭を下げた。文治朗はそれを不思議に思いつつ、代金を払って席を立った。
「ーー今のも元は浪人か」
席に座したままの七郎は、隣の小男に声をかけた。
「そのようで。ふう、あちい」
「よく働いてるようですがね」
「そうか。それにしても、お主らのおかげで助かる」
「なあに、あっしらは命を懸けるのが仕事でさあ」
七郎は小男と店主を交え、三人でしばらく話していた。もうじき陽が暮れる。この薄闇は逢魔が時だ。
文治朗は長屋の近所を散策する。
そろそろ夜が来る頃合いだ。文治朗は夕陽の照らす空を見上げた。彼は己の行く末というものに、不安を感じていた。
今はまだいい。金の貯えは少しならある。何もせずとも、数ヶ月は暮らせるはずだ。
仕事もある。埋め立ての人足仕事にも、少しずつ体が慣れてきた。三日に一度働くだけならば、余裕すら感じるようになった。
だが、これからどうするのか。
手に職を持つというには、あまりにももろい。
人足の仕事すら、いつまであるのかわからぬ。病や怪我も不安である。文治朗が働けない体になった時はどうするのか。
江戸で生きていく事に、文治朗は果てしない恐怖を覚えた。
考えすぎと気休めながら言ってくれる友人がいるわけでもない。文治朗はいつしか自身の住む長屋から少し離れた場所へきた。
誰も住まぬという古寺を前にして呆然と立ち尽くしていると、境内から誰かが駆けてくるのが見えた。
「た、助けて……」
駆けてきたのは着物を乱した女であった。




