無明を断つ3
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七郎は本来、武士の身分だ。
が、町民のふりをして市中をうろついている。
三代将軍の御書院番(お側つきのいわゆる親衛隊)でありながら、彼は務めをしばしば放棄していた。
七郎の父は「せがれには任を与えてある」として幕閣をあざむいていた。
江戸市中には強盗殺人にまで及ぶ凶賊が無数におり、七郎は江戸城御庭番と共に彼らを秘密裏に撃退していたのだ。
義のゆえだけではない。
弟を失ってから七郎は、自ら死に場所を求めていたのだ。
さて、七郎は馴染みの鍛治屋に入った。
「できたか、どれ」
七郎は鍛治屋の主人から品を受け取った。
それは二本の鉄製の細い棒だ。どちらも一方の先端に、握り部分が横についている。
形状は「卜」に似ていた。
「薩摩で見た武具だ」
七郎は握りの部分を握りしめ、二度三度と鉄棒を回転させて様子を見る。
見たのは薩摩だが、実際には遥か琉球の地で用いられる旋棍という兵器(武器)であった。
「持ち歩くのに便利だと思ってな」
七郎は上機嫌である。彼は武士の身分だが、二刀は差さない。世と人を欺くためである。
かといって小太刀も差さない。この時代、町民には刃渡り二尺未満の、いわゆる小太刀を持ち歩くのは許されていた。
なにぶん、江戸の市中には刀を差した浪人があちこちにいた。
その浪人達が刀を用いて威圧し、無銭飲食を働くというのは、数えきれぬほどあった。
小太刀を町民が携帯することによって、浪人はたやすく威圧することはなくなったがーー
その代わり凶悪な事件は多くなってきたように、七郎には思われた。
「ふむ、手に馴染むな。流石だ」
「へえ」
「これを袖に隠して…… ふむ悪くない」
「……お代を」
「す、すまん」
七郎は苦笑して代金を主人に支払った。
鍛冶屋を出ると七郎は江戸の市中を歩きだした。
目指すのは、彼が師事する禅師が住職を務める寺であった。
本来ならば馬か駕籠屋でも頼んだ方が良さげな距離だ。
だが七郎は自身の足で歩いた。
“常に兵法の道を離れず”
かの大剣豪、宮本武蔵が後世に伝えるように、七郎は生活の中で己の選んだ道を進む。日々が修行であり実戦だ。
心中には父の武勇伝を思い出した。大阪の役では、七郎の父は二代将軍を守るために奮戦ーー
槍を構えた鎧武者十七人を斬り捨てたとされている。
真相はわからぬ。が、七郎の父が幕閣に重用されているのは、その武勇伝が真実だからだろう。
やがて七郎は寺に着いた。夕闇が辺りを覆いつつあった。
経の聞こえる本堂へ向かえば、師事する禅師の背が見えた。
「禅師」
七郎の呼びかけに老人は振り返った。この老人が七郎の師事する禅師だった。
「ほう、これは七郎か」
禅師は目を細めて笑った。体は小さいが、秘めた気配はいかなることか。七郎の父にも劣らぬ迫力があった。ただの寺の住職ではない。
「いやはや今一瞬、親父殿かと思ったぞ」
禅師は七郎の父と知り合いであった。まだ戦乱の頃から、七郎の父と禅師は命がけの青春を駆け抜けてきた。
その禅師が言うには、七郎と父はよく似ているとの事だ。
「親父殿がよく言うように、七郎は祖父殿の生まれ変わりかもしれぬな」
「まさか」
禅師は言う。七郎の祖父は、彼が産まれる前年に亡くなっていた。ありうる話かもしれぬ。
「さて、どうした七郎」
「俺は悩むのですよ」
「何にだ」
「ーー兵法の道と、平和の道」
七郎の隻眼は暗い光を帯びた。彼の脳裏には、強盗によって殺された幼子の亡骸が思い浮かんだ。
同時に弟の事もだ。七郎の心は揺れに揺れた。
「兵法とは平和の法なり」
禅師は微笑した。
「七郎よ、悩むのはお前さんが兵法を人殺しの技としか思っておらぬからだ。禅を組み、天地宇宙に問いかけてみよ」
「禅師はいつも同じことを言われる。朝まで禅を組んでいろと?」
「そうだ、その通りだよ七郎。お主は業が深すぎる。仏法天道の導きなければ、お主の行く末は餓鬼畜生に劣る地獄だけさ」
禅師は笑いながら怖い事を告げたので、七郎も眉をしかめた。
「この本堂で心中に不動明王を思い描き、深き瞑想の中で己の道を見つけるがいい」
夜となった。
七郎は本堂にて座禅を続けていた。
旋棍は禅師に預け、身に寸鉄も帯びぬ状態で七郎は瞑想に入る。
深き瞑想の中で、七郎は命のやり取りに及んだ者達を思い出した。
今となっては彼らですらが懐かしく思われた。
兵法の道は、修羅の道。
常々、七郎の父はそれを言っていた。思うにそれは、七郎に死を覚悟させるためでなかったか。
死を覚悟した七郎は、命がけの隠密行の中で、狂う事も迷う事も、ましてや逃げ出す事もなく、使命を全うした。
ーーただ一瞬に死すべし。
生還した七郎は平然と父に告げたものだ……
七郎は座禅したまま、暗い本堂の中で微かに隻眼を開いた。
半眼となって本堂内を見つめた。
月明かりが本堂内を照らしている。
夢か現かわからぬ夢想の境地に到った七郎は、果たして本堂の中に艶かしい女の姿を見た。




