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作者: りっくん

旅のはじまり


 窓の隙間からこぼれ落ちてきた海の波音が、僕の小さな部屋の中で小さく跳ね回っている。その音はまるで、全身を楽にした僕の体全体を、耳を通して優しくさすってくれているようにも思える。

 夜はもう遅いというのに、やっぱり夏っていうのは温度が下がらない。掛け布団はとうに剥いで足下のほうにくしゃっと折り畳んでしまっていた。でもこの暑さが、外からの要因だけではなく、自分の内側から来ていることも分かっていた。前の自分ならありえないことだが。

 浜辺で海を眺めているときみたいに、海の近くに居るときは、波の音の中にも鳥の鳴き声だったり、岩に不規則に水がぶつかる音だったり、いくらでも規則の中の不規則を感じる事はできるのだけど、流石に何百mも海から離れたこの家からだと、波の音はただのかすかな単一音の連続にしか聞こえなかった。

 そういえば、潮の匂いがやけに鼻につく。もう慣れてしまったその匂いをわざわざ気にする事に、すこし違和感を感じる。でも、すぐに僕は、ああ、またいつものやつか、と思い至った。心がそれに向けて無意識に準備を始める。

そしてその現象は、すぐに始まった。

 いつものやつ。それが織りなす不思議な感覚に僕はしばし身を委ねる。それはいわば、僕を包み込むリアルな感覚と、そして僕が最近心待ちにしている夜中の「旅」の中で感じた感覚が交ざって行く、そんなものだった。

 いつしか僕が全身を預けていたベッドはなんだかゼリーみたいに柔らかくなっていって、そしてそれと一体化しているような僕自身も、全身から力が抜けた状態から更に一歩すすんだような、全ての神経が透明になって行くような状態になる。ここでコツなのが、絶対にそれから起こる変化に抗おうとしないことだ。そうした瞬間、僕はまたあの高湿度で、狭くて埃っぽい部屋に引き戻されてしまう。

 僕はじっと、この名前も付けられないような現象に耐え続ける。全身に余計な力が入らないようにしている分、体から冷や汗のようなものが大量に吹き出て来る。やがて、視界さえもただの闇すら越した「漆黒」に包まれる。それでも僕の意識は何かに導かれたように繋がれる。

 そうやって、それが改めてわずかな光と質量を取り戻したときが、「夢の旅」の始まりだ。

 もう大丈夫だろう、と改めて開けた僕の視界に飛び込んできたのは、さっきまではあんなに遠くにあると感じた、日をほんのわずかに反射してわずかに青く光る、圧倒的な質量を持った海と波の揺らぎであった。



 ぼくの後ろに薄く伸びている影は、着々とその長さをのばしていた。でもその影もそろそろ、周囲をもまた包み始める闇にとけ込もうとしていた。今まさに、水平線の向こうに、太陽は世界の裏側の人々に光を届けるべく身を隠そうとしていた。今の季節は夏、それも夏至に近い。だから、日が暮れるということは、もうそろそろ帰らねばならない時間のはずだ。そのことを、今更ながら自分の頭が認識した。いつまでもこうしていることはできない。けれど、ぼくの座っている砂浜がまるで強力な磁石になったかのように、ぼくの体を離してくれない。でもいわばこの感覚は、くっついているというより、もはや溶接されていると言った感じだ。急に不安感にかられて、さっと視線を下に落とす。けれど、そこにはいつも通りの、白アスパラガスみたいな足がくたりとあぐらを組んだ形で横たわっているだけだった。一つため息をついて、ぼくはやっとのことでのろのろと立ち上がった。親が帰ってくる前に、家に戻っておかなきゃいけない。

 防波堤を登り、時々車が通るだけの、人気の無い海沿いの公道へ出る。尻や靴についた、細かな砂を丁寧に払い落とした後、ぼくはポケットに入れたままだったイヤホンを取り出して耳に詰めた。

 ipodの電源がとうに切れているのは分かっていた。けれど、いつも通りにぼくはそのまま、家に向かって歩き出す。なんだろう、イヤホンをすることで感じる、周囲の世界と自分自身の間に一つ薄い壁が出来たような感覚がなんだかとても好みなのだった。


記憶のピース


 魂を一言で形容するとしたら、それはなんていわれるのだろう。

 仮に、今現在までに存在する言葉で形容するとしたら、それはきっと、「炎」なんだろうと少年は考えていた。なぜかというと、死んだ人はとても冷たいから。はつらつとしている人はとてもまぶしいから。炎はエネルギーの塊。

 そして少年は、自分はそのいわば「魂の炎」の大きさが圧倒的に他人よりも小さいのではないかと認識していた。理由はいくつかあるが、まとめてしまえばそれは自分でも感じる自身の透明感だったり、見るからに貧弱そうな体だったり、そして、周囲の環境や人々に全く自分が適合していないというどうしようもない事実もそうであった。かといってそれを別段気にしていたわけではない。あの時までは。

 少年は、幼いころから、空気のような存在だった。ほとんど働き詰めの母は、まるで少年が、もう今では何をやっているかすら分からない父が残していった腫れ物でも扱うかのように、ほんの少しも刺激を与えようとしなかった。それがある意味災いして、少年とのふれあう距離を測りきれないままに、少年が15歳のあの時になるまで放置という結果になったとは思う。

学校でも家庭でも、決していなくなる訳ではないが、掴もうとしても絶対に掴めないような、少年は周囲から見て、まさに「なんだかどうしようもない」存在になってしまっていた。いや、それは少年自身が望んだ結果でもあったと言える。

 少年の周りを取り巻く社会に接する時間はただひたすらに、感情やその他もろもろを額縁におさめてしまい込み、人との関わりを断絶できる海辺でゆっくりゆっくり放出する。サイクルみたいなものだ。


 こんなふうに、15歳までの「ぼく」という存在にまつわる事実を、僕はここまで「組み上げかけていた」。

 これらの記憶、そして思考は、僕が後になってから断片的な記憶をもとに、ピースすら揃っていないパズルをはめていくように客観的にまとめたものだ。

 二度と僕は、主観的にこの事実の記憶をさかのぼることは出来ない。もし出来るとしてもそれはきっと、あの深夜にする夢の「旅」の中でだろう。

 あの日以来、僕の記憶は、まるでそれ自体が、夢だったかのように、あるいはそれ自体が空気だったかのように、さらには、あの広大な海にとけ込んでしまったかのように、水を多く含んだ筆で紙にサッと絵の具をのせたかのような薄くぼやけた記憶を残して、ほとんどが消えかかってしまった。

 15歳のその日を境に、少年の中でうすくうすくとぐろをまいていた自分自身の記憶は、すっかり雲隠れしてしまった。

 でも時は経ち、その雲というものも少しずつ晴れてきたような気がする。

 そして今日の夜、いくつかの夜中の旅を経験して、ついに最後の思考のピースが埋まるんだという、どこからかわき上がった静かな確信とわずかな高揚感が僕を包んでいた。


あの日


 ふと、ぼく自身の体までもが、この水と同じように波打ったような気がした。もう、体の感覚と意識とのあいだには既に何も通っていないようだった。かじかむというよりは、むしろ海の方が自分の温度に合わせてくれているような、そんな心地よさを感じた。だからこそ、恐怖や不安も感じなかった。いやむしろ、麻痺しているという方が正しいのだろうか。

 何を考えるのもめんどくさい。どんな思いも、悩みも、海は全て還元して単一のものにしてしまう。それがいい。

 今日は、本当に静かな海だった。こんなに圧倒的なスケールと包容力みたいなものを持ちあわせたものに体を預けることが、ここまで穏やかで幸福なものだとは思いもしなかった。空と海の境界などはない。具体的なものの長さを測ったり大きさを比べるものがない海の上では、スケールを無尽蔵に広げる事ができる。

 海を外から眺めるだけではだめだったのかもしれない。こうやってただ浮かんでいるだけなのに、天と地の差というのはこのことをさすんだなと思った。


 今までの海辺と今日の海辺の違いはなんだったのだろう。周囲に、いつもならぽつぽつといる人影が全く無く、公道から漏れ出す車の走行音がずっと途切れたままだった気もした。

 いつも通りに砂浜に座り込もうとすると、ひと際大きな波がふと押し寄せ、少年の足首をさらりと撫でて引いていった。何故だろうか、その足首を撫でた水の感覚は、普段と違って生暖かくそこに居残り続け、そしてそれを後押しするかのように、少年の嗅覚が、もう気にもしなくなったはずの潮の匂いを、そして、聴覚が、視覚が、肌が、なにか、絶対的な吸引力をもった力を海に感じ取った。それをなんとか自分の頭の中で具象化しようと、少年はいつのまにかよろよろと一歩を踏み出していた。もう既に周りの景色の色彩、光は消え失せ、全神経は、その、ピントの合わない海へと向けられていた。肌に張り付く服の違和感も、僕の歩みを止めるにはいたらなかった。


 どのくらい時間がたったのだろう。自分をこうやって包み込む満足感、そして透明感こそが、あのとき感じた力なのだろうか。

  ああ、ぼくは疲れてたのかな。。

 唐突にぼくはそんな感想を抱いた。いままでの生活、そして自分の存在というもの自体にガタがきていたんじゃないだろうか。だって、海に浮かんでいるこの瞬間は、こんなに楽で、こんなにも穏やかだから。

 ぼくは目を閉じて、考えずに、ぼんやりと祈った。

 願わくば、この瞬間が永遠であれ。

 ぼくは既に意識と無意識の間でブランコをはじめていた自分の脳に、休め、の指示を出した。そして、それと同時に、この形容出来ないほどの幸福感に、いままでの「空気のような」人生の記憶を塗りつぶさせた。やがて思考は単一になってゆく。

 海は、ぼくの空白みたいなこれまでを埋めてくれる。きっと。


 おやすみ。


そして得られたもの。目覚め。


 そうやって、そのままずっと寝られたら、どれだけ良かったのだろうか。

 僕は、人知れず苦笑した。

 今までに無いほど、ぼくが感じた思いや快感にあふれた、この夢の旅に関する思いで、今夜はもう寝られそうにない。片膝を立てて半身を起こした姿勢のまましばらく目をつむって、自分の夢の余韻が去るのをじっと待つ。

 そうして、思考の海に降り注ぐ記憶の雨がやみ、海がしずかになるまで、じっと自分の心と対話し続けた。

 最後に、手のひらにかるく爪を立てて意識を完全に取り戻すと、僕はベッドからすっと立ち上がった。

 もうすっかり暗くなってしまったが、僕は親を起こさないようにそっと家を出た。もっとも、彼女の寝ている時の耳はアラームの音くらいしかほぼ受け付けないのだが。問題は無いはずだ。

 外は、蒸し暑い空気の籠った自分の部屋よりも幾分か快適だった。微かな海風を肌に受けながら、僕は歩き出す。

 電灯もまばらで、道の先に見える夜の海と夜空の境界線は不思議に繋がっている。周囲に車の音は全く聞こえない。何者にも邪魔されない、純粋な波の音が少しずつ大きくなっていくにつれ、僕の中の思考と考えと、眠りから覚めたときのあのけだるさも、波のように騒ぎながらどっと押し寄せてきた。

 あの日、ぼくは浜辺に打ち上げられていたところを地元の人に発見され、そして病院へと運び込まれたらしい。僕を見つけたとき、周りの人はなんと思ったのだろうか。どんな反応をしたのだろうか。それを僕は、今でもほとんど覚えていない。記憶に関わらず、意識をほとんど失っていたからだろう。

 医師からいわせればいわゆるショックによる一時的な記憶障害というやつ。「海での眠り」から目がさめたばっかりでもうろうとなっていた僕に様々な言葉が降り注いだ。

 今でこそ、海の中で感じたあの感覚、高揚感は手に取るように分かるが、その当時は自分自身の行動を事実として認識してから手ほどきしていくしかなかった。海に溶けていなくなってしまうことに失敗した僕は、前にも増して抜け殻のような人間に見えたらしい。

 無限の空間の広がりと質量を持ち、境界という存在を考える事が馬鹿馬鹿しくなるほどの海。

 すべてが白で幾何的に仕切られ、固定された病院。

 そんな皮肉にも対照的な環境で、病院のベッドに身を沈めた僕は何人もの知り合いの見舞いを受けた。大抵は、笑顔の下に不安そうな表情を隠しているような感じであったり、中には何故だろうか、覚えてもいない過去のことを取り出して、僕に謝罪してくる人さえ居た。

 そしてそれらに上の空で対応しつつも、記憶を取り戻しきれない僕が退院するまでに、僕の中に居座り続けた巨大な違和感があった。

 今なら、それに説明がつく。

 僕は今まで他人から、あれほどまで具体的な「表情」や「言葉」を向けられた事が、ほとんどなかった。きっと僕からの反応の手応えのようなものが全く感じられなかったからだろうか。扱いにくかったからだろうか。

 病院のベッドに身を沈めた僕に、かけられた言葉たち。

「ごめんね。」「辛かったよね。」

 そんな言葉って、一体どういう状況から生まれてくるのだろう。その言葉に至る思考は確かに理解は出来るけれど、それだけじゃない。その言葉はもちろん。

具体的な対象、そして事柄が発生したからこそ、出て来る言葉なのだ。ただの空気に向かって言うものではない。

 そこで僕はついに、結果的に自殺未遂をした少年というレッテルを貼られた事によって、何が起こったかを理解した。

 僕の自殺。それによって周囲は少年のイメージを「なんだか良く分からない少年」から、「自殺をしようとした可哀想な少年」にすり替えることができたのかもしれない。ああ、あの子は実は辛い思いをしていたんだな。それは俺のせいだ。私のせいだ。あの子は可哀想だ。そんなイメージの固定により、僕はきっと計らずして周囲の人々に僕との距離感を調整させる機会を与えてしまったのだ。なんだかふわふわしたような存在だった者が、いきなり固定化される。海でたゆたってた時みたいに、とけ込めるなんて嘘っぱちだった。僕という存在は限りなく相手の捉え方依存で、自殺ですらその機会でしかなかった。意図的にやったものではない。でも、自殺なんてものは、自分自身を自ら凍結して、そして風化させるものとしか思えなかった。

 歩みを進めながら、僕はぎゅっと唇を噛み締める。

 そして僕は、僕の口の中に、言いようのない、寒気に似た不快感が広がっているのを感じた。それは、初めて社会からの煽りを受けたゆえのものだろうか。

 その新鮮な感覚に戸惑いつつ、しかし、僕の思考は、今まで空っぽだった思考の穴の中になにかが流れ込んで来るように、一つのところへとまとめられ、なだらかに埋まりつつあった。 


 僕の期待していたような無限の広がりをもつ世界は、この社会にはきっと存在しない。かと言って僕がそこから消え去ろうとしても、逆に僕という存在の価値は他人に決定され凍らされてしまう。社会は海ではない。


 でも、僕がこうやって生きているうちは違う。自分自身によって、自分の印象はいくらでも変える事が出来る。そうやって変えていくことも、もしかしたら場合によっては海に身を預けるよりも案外楽しいのかもしれない。

 

 僕はやっと、自分の心の中に、確かに僕自身の魂の炎がぽっと点火されたような気がした。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 心の中を探索するような、純文学に会えてうれしかったです。 少し重い話なのに暗くなく、健康的でさえあり、作者の幸運に持ち得た長所と思います。 ご多幸心より願っています。
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