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「……」
ページを捲る途中から、誰も声を発せなくなっていた。
交換日記が綴られたのは、彼らが高校1年生の時のことである。
日記はどうやら『Ryu』――玲奈の父、高嶋隆司が『Jessica』に想いを告げ、交際が始まった日に彼女の方から始めたもののようだ。
Dear Ryu
今日は本当にうれしかった
ゆめを見ているみたい
冬になったらhomeに帰らなければならない
伝えたらいけない気持ちだと思ってた
あなたが私と同じ気持ちでいてくれてすごくうれしい
I love you.
Jessica
最初はそんな短い文章で、ただ気持ちを伝えあうだけの甘ったるい内容が続いた。
ほんの一時の熱に浮かされた幼い恋心。
初めから期間限定であることを互いに分かっていたが故に、それ以上は踏み込めない恋人ごっこ。
拙い日本語はストレートで、それに乗せられるように隆司のページも日本人男子らしからぬあからさまな愛情表現で埋め尽くされていた。
それがページを追うごとに、少しずつ内容が濃く、深くなっていく。
2人がどのように時を共有し、どんな風に互いを想い合い、どう影響し合い、その時がどれだけ幸せで輝いていたのか――いつの間にか日記に目を走らせるみのりの中には、彼らに終わりの時が来ないよう祈るような気持ちすら湧いていた。
ジェシカの留学期間最後の日、彼らが高校1年のクリスマスイブ、終業式。
この日の出来事や想いが交換されることはなかった。
愛している人との未来が、相手とのこどもが欲しいから、用意はあったのに避妊をせずに彼らは身体を重ねた――。
鳥肌が立ったのは、他の誰でもなく、みのり自身が抱いたことのある感情とそれが共鳴したからだ。
何の疑いもなかった。
どんな結果が出ようとも、後悔などしない自信があった。
――何故なら、愛していたから。
その日以降は、そのノートは隆司個人の日記としてしばらく綴られ続けていた。
玲奈の母親が交換日記の次に置いたのは女の子らしい柄物の手帳で、どうやらそちらが帰国した後のジェシカの日記と思われた。
「――この時もし妊娠したんだとしても、その子はもう……40歳くらいだわ」
と、玲奈が呟いた。
「ああ、海にいた子ではないな。……てか、出来なかったんじゃないか? 出来てたら……」
亮は途中で口を噤んだ。
もしもこの時授かっていたとしたら、こんなに想いあっていた2人の願いが通じて希望が叶ったことになる。
ならば全く違う今があるように思われたが、それを口にしてしまうのは、玲奈の家庭を、下手したら存在そのものを否定することと同じだった。
「玲奈……どうする?」
時期を並行して綴られたと思しき隆司とジェシカそれぞれの日記を指しながら、みのりはどういう順番で読み進めていくか尋ねた。
ジェシカの日記がここにある理由は分からない。
今回の渡航の際に玲奈の母親がもらってきたものかもしれないし、もっと前から玲奈の父が何らかの形で手にしたのかもしれないが、それも読み進めて行けば分かるのだろう。
ぱらり、とジェシカの方の手帳を捲ると、中身は当然全て英語だ。
みのりは得意ではない。
久しぶりに目にする英文に、軽く眩暈がした。
英語圏のネイティブらしく書き連ねられた文字は、下手というわけでも雑というわけでもないが、外国人独特のクセと崩し方が見える。
日本人が書いたアルファベットよりもみのりにとっては読みづらく、ただでさえ苦手な英字に重ねて拒否反応を起こさせた。
「こっちのノートの続きを、先に……」
と言いかけた玲奈も、ジェシカの日記が英語なのに気付く。
「亮、1人でこっち読んでて」
「は? 俺?」
「私、やっぱちょっと見たくないし。訳して、重要なとこだけ後で教えてよ」
「え……やだよ、女子の日記なんか1人で読ませんなよ」
父の昔の恋人の日記を見たくないという玲奈の気持ちも、こういう事情であれ異性の日記に目を通すことに抵抗を感じる亮の気持ちも分かるが、みのりはそのやり取りを黙って見守るしかなかった。
「仕方ないでしょ、それともみのりにやらせる気? 英語で書かれてるのよ。みのりにとっては異世界の呪文みたいなものよ。熱でも出して倒れたらどうするの」
「ぐ……ごめん、私が馬鹿なばっかりに」
ついにはっきり地雷を踏んできた玲奈に、みのりは両手を合わせる。
本来ならその役は自分が買って出るべきなのだろうが、とてもじゃないが無理そうだ。
くすくすと、玲奈に束の間の笑いが戻る。
嫌な役を押し付けられて顔をしかめていた亮も、ふっと笑った。
自分でも嫌になるくらい、みのりはこの場で役立たずだった。
2人が笑ってくれるから、それだけが救いだった。
仕方がないといった様子で亮がジェシカの手帳を、みのりは玲奈と一緒に隆司のノートの続きを読みにかかった。
隆司の日記はまず、ついに身体を重ねることが出来た喜びがそのまま綴られていた。
相手のことをどれだけ愛しく思っているのかがダイレクトに伝わってくる文面に、みのりは玲奈の心情を思って顔を歪める。
が、玲奈はそこに関しては、既に大昔のことと割り切って見ているようだった。
もしかしたらみのりと同様に、彼らの交換日記を覗いている内に応援する気持ちすら芽生えていたのかもしれない。
続いて無事に帰国出来たかを案じるページ、彼女から帰国後の一報が入って安堵するページ。
最初の手紙を受け取った後、同封されていた彼女の国のクリスマスの様子に驚いたり、家族との再会を喜ぶ彼女を微笑ましく思うページが続く。
日記は手紙を受け取った日、出した日、待っている間の心情が交互に現れる。
今とは違い、学生が簡単に便利なネット環境を得られる時代ではなかったのだろう。
最速で返しても往復するのに何日もかかる手紙のやり取りだけが彼らを繋いでいて、手紙を待つ間の空白を埋めるように日記が綴られていた。
日付を追うと日々の出来事として毎日書かれたものではなく、ただジェシカのこと、彼女への気持ちだけが数日置きに残されている。
学校が始まると、彼女がそこに居ない事実がひときわ大きな空虚となって彼を襲った。
『そこへ行けば毎日君に逢えた日々がどれだけ幸せだったのか、今さらのように思い知らされている』
『君が捨てておいてと言った上履きを未練がましく今でも自分の下駄箱の上段に隠し持っている。開けるたびにそれを見て、君が確かにここにいた事実をただ噛みしめる』
『いつか必ず会いに行く。もしも君にこどもが宿っていたら、どんな手を使っても、何を捨てても、今すぐにでも迎えに行けるのに』
それが落ち着くと、日記は2週間置きくらいのペースになった。
今日手紙を受け取った、という記述で始まるページがほとんどだった。
手紙の内容に対する感想や、返事には何を書こう、といった内容だ。
別れの日から4か月ほど経ったところまでそのペースが続いたが、謎の白紙のページを3枚捲った後の記述に、みのりも玲奈も息を呑んだ。
『返事が来ない』
手紙が途絶えた期間は、日記の日付から、約2か月ほどと考えられた。
別れの日からは半年ほどが経過している。
これからジェシカへ最後の手紙を書くつもりでいること、その返事が届かなければ潔く諦め、今までやり取りしてきた手紙も全て処分し、忘れるつもりでいることが書かれていた。
そしてその次のページで、隆司の日記は唐突に終わっていた。
『とっくに結果が出ているはずなのに、君からこどもが出来たという報せはない。恐らく駄目だったのだろう。俺は賭けに負けた。奇跡は起こらなかった。俺たちは運命の相手ではなかったということなのかもしれない』
『距離の壁は高かった。今の俺は無力で未熟で半端だった。追いかける力も引き留める力も約束を交わす勇気もなかった俺に、君をこれ以上束縛する権利はない』
『今はただ後悔している。あの日俺たちは卑劣な賭けになど出るべきではなかった。だからこうして終わってしまった。神頼みなどではなくきちんと段階を踏んでその時を迎え入れる準備を重ねていくべきだった、どれだけ時間がかかっても』
『それでも君を本気で愛していた。出会えた奇跡には感謝している』
『君が今幸せでありますように』
あっけない終わり方だった。
そこにどんなに当時の想いが強く残されていようとも、言ってみれば遠距離恋愛からの自然消滅だ。
こどもが出来れば或いはと望みはしたがそんな奇跡が起こることもなく、そしてこういう終わり方をするのであれば、奇跡など起こらなかったことこそが幸いだ。
「よ……良かったじゃん? 玲奈」
隆司にこどもが出来ていなかったことは、玲奈にとっては喜ぶべきことだろう。
そう思ったのに、みのりの声は何故か震えた。
涙がこぼれそうなのに気付いて、慌てて誤魔化した。
「やっぱり、お父さんに他にこどもがいるなんて玲奈の妄想だったんだよ」
「そう……なのかな?」
「そうだよー。散々騒がせといて、最後はなんかあっけない終わり方だったね」
「うーん……」
釈然としないような面持ちで、玲奈は首を傾げている。
2人がノートを読み終わったことに気付いた亮が、怪訝そうに顔を上げた。
「なにそれ、そっちどうなってんの?」
「どうもこうも、しばらく文通したあとジェシカからの手紙が途絶えて自然消滅よ。ちょっと切ないっていうか、玲奈のお父さんのこの頃の本気が伝わってくる分、なんだか……」
可哀想ともやるせないとも思ったが、玲奈の手前その言葉は飲み込む。
とにかくこどもは出来てなかったのだから、玲奈にとっては良かったのだ、とみのりは自分に言い聞かせた。
が、「こどもはいないって?」と念を押すように亮が聞き返してくる。
その問いかけを不思議に感じながらみのりが頷くと、亮は今度は玲奈にも確認するように顔を向けた。
それから蒼白になって、しばらく逡巡したように視線を彷徨わせた後に彼は言った。
「だけどジェシカは出産してるぞ」