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「Dear……亮?」


Rとyだけがやたら目について、みのりはつい思ったままを口に出していた。



高校の頃、それこそ付き合う前から、ノートや手帳の片隅に悪戯に何度も書いては1人にやけて、誰にも見つからないようにこっそり消した文字だ。


付き合っている間も手紙を書く機会などほとんどなかったが、誕生日やクリスマスのプレゼントにカードを付けた時には自分もそう書いた気がする。


『Dear Ryo』と。



「は? ……って、Ryuだろこれ、よく見ろよ」



みのりが手にしているものを後ろから覗きこんできた亮が訂正する。

肩口に顔が近付いて、声が耳元で響いた。

どくんと心臓が鳴って、咄嗟に身体をかわせば怪訝そうな顔をされた。



「りゅう? ――それ、きっと父だわ。隆司と言うの」


不安げに少し離れて様子を窺っていた玲奈が言った。


「何が入ってた……?」



みのりが祭壇の白布の向こうに見た四角い缶の話をすると、玲奈はそんなものは知らないと言った。


そして今、階下から引き上げてきたその缶を開けたところだ。

玲奈は開ける勇気がないと言い、みのりがその役を頼まれた。



四角い缶は、海外――恐らくはオーストラリアの、菓子の空き缶のようだった。

ポップで可愛らしくはあるが、原色使いが多く少々派手なデザインだ。


もしもこれがもっと落ち着いた箱であったなら、祭壇の下に隠されていても何も違和感を覚えなかったかもしれない。

香典だとか葬儀関係の書類でも一時的に保管しているのだろうと思って納得しただろう。



この家のインテリアはどこも柔らかく落ち着いた雰囲気に統一されていて、イメージがかけ離れる。

家人が好んでこの缶を取っておいたとはどうにも考えられなかった。


この缶の持ち主はもしかすると、オーストラリアの『ホストファミリー』なのかもしれなかった。



見るのが怖いという玲奈の気持ちも分かる。

みのりは彼女の代わりにひとつひとつ缶の中身を確認して教えた。


「ノートと、手帳……日記かな。あと、手紙が何通か。ノートなんか、すごい古いよ」



他人の手帳や手紙を覗くのには少々抵抗がある。

だからみのりが最初に開いたのはノートだった。


古いとすぐに分かったのは紙の変色具合からだが、変わり映えの無い普通のキャンパスノートとはっきりは言い切れない程度に、デザインにも少々時代を感じるものがあった。



開けてみれば、そのノートの出だしが『Dear』なのだ。

ノートに手紙を綴るなどあまり聞いたことがないが、と首を捻りながら、まじまじと中身を読むのも気が引けてパラパラとページを捲った。



「あれ? これって……」


1、2ページ置きに字体が変わった。

『Dear Ryo』で始まるページと、『J』で始まるページでは書いている人物が違うようだ。



「じぇ……えっと、Jessica……Jessie? え?」


「見せて――ああ、ジェシーはジェシカの愛称だ。同じ人のことだよ。これは……」



みのりが持つノートのページを、亮が捲っていく。

その距離が居たたまれないみのりには全く気付かない様子で、亮は数ページ確認してから確信したように言った。


「交換日記だな、これ」



ごくんと玲奈が唾を飲み込んだ音が聞こえてきた。


「へえ、ジェシカ。それが父の不倫相手の名前なの」



それは背筋が凍るような冷たい声だったが、実際にそのノートを目にしているみのりも亮も冷静だった。



「これ多分、俺たちくらいの歳の頃のだろう」


「うん、まだ結婚どころか、玲奈のママとは出会ってもいない大昔だと思う」


「そもそも不倫で交換日記はしないだろ」


「うわ、確かに! 怪しすぎるわ」



2人が口々に言って笑い出すと、玲奈はほうっと大きく息を吐き出して脱力していった。


漸く少しは安心出来たのだろうか、と、みのりはその姿を確認して苦笑する。



「どうする? 玲奈……これ全部、読む?」



代わりに読めと言われれば、そうするつもりだった。


だが、これ以上首を突っ込むべきではないという思いもある。

玲奈を心配すると同時に、それとは全く別で、純粋に彼女の父の若い頃の恋愛模様にも興味が湧いてしまったから。


何十年も昔の日記がこうして残っているのだ、他人が面白半分で荒らして良い思い出ではないだろう。



全てを玲奈の意思に委ね、みのりは質問を発した。



迷い、躊躇い。

俯いたままの玲奈に見え隠れするのは、不安と一縷の希望。

疑いが晴れれば良い、だがもしその逆だったら、待っているのは今以上の絶望だ。


静寂が部屋を支配し、みのりも亮も、じっと玲奈が答えを出すのを待った。


その重苦しい沈黙を破ったのは、外からドアをノックする音だった。



「玲奈――、開けていい?」


「お母さん!?」



ドア越しのそのやり取りに、みのりと亮ははっとして顔を見合わせた。


全く気配がなかったからすっかり居ないもののように油断していたけれど、玲奈の母親は留守だったわけではない。

玲奈は最初に、確かに『母が寝ている』と言っていた。



みのりが咄嗟にノートを缶に戻すと、亮がそれに素早く蓋をした。

あんなところに隠してあったのだ、他人が勝手に持ち出して中を見たと知ったら。



2人はあたふたと隠し場所を探したが、すぐには見つからない。

切羽詰まった亮が尻の下からクッションを抜いて、それを缶の上に被せようというところで、ドアは外側から開かれた。



「休んでたんじゃなかったの? もう大丈夫?」


「大分良くなった。心配かけたわね」



精神的にか体力的にかなど突っ込んで聞くことは出来ないが、具合を悪くして寝込んでいたにしては玲奈の母親はきちんとした格好をしていた。



寝てなどいなかったのでは、と、みのりは一瞬不審に思った。


否、もしも本当に寝ていたのだとしても、飛び起きるに違いないだろうことがさっき起こったではないか。

玲奈の常軌を逸した大泣きは、母親の寝室にも聴こえていたに違いない。


それで目が覚めて、来客に気付き身支度を整えたのだとしたら合点がいく。



――だとしたら……。



みのりは、亮がなんとかクッションの下に隠した缶をちらりと見やった。

端がはみ出ているし、座布団代わりのクッションなのに上に座るでもなく両手で押さえつけているのも違和感だらけだ。

すぐに見つかってしまうだろう。



しかし、目が覚めていれば階下に降りる気配には当然気付かれたはずだ。

会話はどれだけ漏れ聞こえたのだろうか。

玲奈の母は、この缶がここにあることを既に知っているのかもしれない。



それで、中を見ないよう止めに来たのだろうか。

泥棒のように人の家を勝手に漁ったことも含めて、怒られる覚悟を決めた。



顔を上げると、ばちっと目が合った。



「お、お邪魔してます……」


みのりに倣い、亮も慌てて会釈する。



自分でも気付かぬ内に余程焦っていたようで、ここが喪中の家で、相手が喪主であるということは言ってしまってから思い出した。

お悔みを言った方が良かったのでは、とすぐに気が付いたが後の祭りだった。



玲奈の母親は、にこりと柔らかく微笑んだ。


「いらっしゃい。せっかく来てくれたのに何にもお構いできなくてごめんなさいね。お線香、ありがとう」


「いやっ、あの……!」



もう気付かれていることを確信した。

怒ってはいないようだった。

玲奈の母親の視線はしっかりと亮のクッションを捉えていて、むしろ困ったように苦笑している。



「すみません、勝手に……!」


「お母さん、私が頼んだの!」


玲奈が慌てて庇いに入ると、母親はくすくすと小さな声を出して笑った。


「大丈夫よ、別に怒ってるわけじゃないから」



それを聞き、ほうっと3人揃って息を吐いた。

亮は気まずそうに、クッションの下から缶を出して部屋の中央に押し出す。



「少しだけ、お邪魔してもいいかしら」


と母親が部屋の中へ入ってきて、缶を中心に囲むようにして、4人がひとつの輪になった。



「すぐに本当のこと、話してあげられなくてごめんね玲奈……」


母親の謝罪に、玲奈は無言で俯いた。



腹を割った親子の対話が始まろうとしている。

このまま同席しても良いものだろうか。


気まずい沈黙の中みのりがこっそりと亮を窺えば、彼もやはり居心地の悪そうな顔をしている。



「あの――席、外しましょうか俺たち。いや出直した方が良ければ、今日は……」


と、辞意を切り出したのは亮の方だ。

みのりにはその沈黙を破る勇気がなかった。


だが玲奈の母親は首を横に振った。



「どうかいてやってください。娘が全てを受け止めきれなかった時、そばで支えてあげて欲しいの」


そう静かに頭を下げられると、それ以上強くは言えない。



そばにいたところで、自分には何も出来ないような気がみのりにはしていた。


先ほどからずっと、肝心なところで何度もパニック障害のような症状の兆候が出かけている。

亮のフォローがあったから何とかここまで正気を保ってこれたが、状況とバランスを見たら自分は完全にお荷物。



――ああ、そうか。



ふ、と気が付いた。

玲奈の母親は、亮に頼んだのだ。

玲奈をそばで支えるべきなのは、亮だ。

亮が支えるべき相手は自分ではなく、玲奈だ。


折を見て1人で静かに立ち去ろう、そう決めたみのりを、玲奈の母親の視線が絡め取った。


「あなたが見つけてくれたのかしら」



ぎくりとした。

やはり、咎められている?

だがそれを理由に向こうから追い返してくれるのならその方が楽、と言ってしまえばその通りである。



「ごめんなさい、勝手に。あの、わざとじゃなくて……ドーナツを差し上げようとした時に、たまたま布に手が触れて台の下が見えてしまって」



家探しのようなことをしたと思われるのだけは嫌で説明を試みたが、自分でも見苦しい言い訳としか思えず、声は尻すぼみに小さくなっていく。


家の雰囲気にそぐわないやたらと派手な缶だったから余計目についたのだ、もしそうじゃなければ勿論開けるつもりなどなかった。

本当はそこまで伝えたかったはずだが、途中で恥ずかしくなって中途半端なまま口を噤んだ。



「ドーナツ……?」


と、さして重要ではない部分を拾い上げて玲奈の母親は首を傾げる。


「玲奈が好きだから。げ、元気になればと思って……」


「まあ。それを仏前にも?」


「すみません」



これ以上、自分に話を振って欲しくなかった。

もう嫌だ、と、みのりは全て放置してこのまま逃げ出したい気分に駆られていた。


ドーナツを持参したのもそれを仏前にあげようと言ったのも自分だ。

玲奈を元気づけることだけ考えていた。

こんな時なのに、こんな時だからこそ、自分に出来る方法で彼女を笑わせなくてはならないと思っていた。


だがそれは、対玲奈の関係が土台にあるから許されることで、一方では不謹慎で非常識なやり方なのかもしれないという思いもどこかにあった。

本音を言えば、玲奈がそのやり方を受け入れてくれるかどうかすら不安だったのだ。


きっとドーナツも死者にあげるものではなかった、あげ方もいけなかったし、そもそもあげてはいけなかった。

きっと自分で思っていた以上に、二重にも三重にも無礼を働いたのだ。

みのりは自分を責め、後悔した。



「お父さんが苦手そうな一番甘ったるいヤツをね」


「――えっ!?」



ずっと黙っていた玲奈が不意に放った言葉が信じられず、思わず聞き返していた。


『二番目に好きなヤツにする』と指定したのは玲奈だ。

みのりは何の疑いも持たず、彼女が二番目に好きなドーナツを手に取った。

クッキークランチは確かに数ある種類の中でも甘い部類だが、そんな意図があったなんて微塵も気付かなかった。


ドーナツを買う際に確かに故人は甘いものは好まなかったのではないかと考えもしたが、玲奈がわざと苦手なものを選んでいたなんて。



はっとして口を押さえ、恐る恐る玲奈の母親の顔色を窺うと、驚くべきことが起きた。

彼女はまさにその時、堪えきれなくなった笑いを解放したところだった。



「あははは! さすがね玲奈。隠し事をした罰ね。お父さん、今頃胸焼けで顔しかめてるわよ」



玲奈はさすがに、まだ母親と一緒になって声をあげて笑うことはしなかった。

けれど、どこか満足したような表情で顎を突き出している。

さっきまで俯いていた玲奈とは別人のようだった。



みのりはただおろおろとするばかりだ。

何故声をあげて笑えるのか、理解しがたかった。

あの、と、居たたまれなくて横から口を挟む。


「すみません、お父さんが甘いもの苦手だったとは……」


「いいのよ。ありがとう、あなたのおかげよ」



謝罪は途中で遮られた。

何が自分のおかげなのかはさっぱり分からないが、咎められているわけではない、というのだけは相手の柔らかい表情から読み取ることが出来た。



「あの……私、ここにいていいんですか?」


思い切ってそう聞いてみると、周りはそろってきょとんとしている。


亮が肘で突き、「それさっき俺が聞いただろ」と小声で耳打ちしてきた。

思わず「だって」と言いかけた時、玲奈が口を開く。


「お母さんがみのりを追い出すつもりなら、私がお母さんを追い払うわ」


「えっ!」


慌てるみのりを尻目に、玲奈の母も可笑しそうに笑っている。


「あらあら、じゃあ尚更、いてもらわないと困るわねえ」



いつの間にか、随分和んで寛いだ空気が出来上がっていた。

ついさっきまではピリピリと張りつめていなかったか。

何が流れを変えたのかみのりには考えつかなかったが、それでも先ほどまでのような居心地の悪さはない。



玲奈の母親が、中央に置かれた缶に静かに手を伸ばした。

どうやら、話が始まる。

その場の全員が無意識に背筋を伸ばした。



「はじめからこれは玲奈に見せなきゃと思っていたんだけど……どう切り出して良いのか分からなくて。私も中々心の整理が付かなかったし」


言いながら、彼女は缶の蓋を外す。


「いつか……そう思いながら、あんなところに隠したままにして。そのせいで玲奈を余計悩ませて、苦しめてしまったわね」


缶の中身をひとつひとつ確認しながら並べていく。

どうやら古い順に直していっているようだった。



「みのりさん。見つけてくれてありがとうね」


突然呼ばれ、にこりと微笑みかけられると、みのりは慌てて顔の前で両手を振った。



「玲奈」


と、母親が呼びかける。

呼ばれた玲奈は、覚悟を決めたように喉をごくりと鳴らした。



「ここにあるのは、あなたが知らない、あなたのお父さんの人生の半分よ。全部読んで――、自分の目で確かめて、自分で納得しなさい」



玲奈は視線を自分の膝頭あたりに落とし、それから並べられたノートや手紙を見つめ、もう一度母の目をしっかりと見返した。



「私が欲しい答えが、この中にあるのかしら」


「――どうだろう。知りたくないこともあるかもしれない。でもひとつだけ、これだけは信じて欲しい。……お父さんは私たちを裏切ってはいない。あの人はいつだって良い父親で、良い夫だったわ」



母子がじっと視線を交わすのを、みのりと亮は黙って待った。

緊張した沈黙は一瞬で、決意を込めて玲奈が頷くと、母親はほっと肩の力を抜く。



「本当のことを言うとね、あなたの耳には入れたくなかったの。お父さんが亡くなった時、一緒にいた人のことを。知ったら傷付くかもしれないと思って……それなら、知らなくても良い事だから」


でも、と言った時、母親の穏やかな笑みには少しだけ、苦悶と自嘲が滲んだ。



「まさかあんな形で、表に出てしまうなんて。こんなことなら初めから隠さなければ良かった。余計に傷付けることになって……本当にごめんなさい」



玲奈は返事をしなかった。


見守っていたみのりと亮に後を任せ、母親は静かに部屋を出て行った。

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