◇
最後のホームルームが終わった。
だが無論、生徒たちがすぐに解散するわけではない。
別れを惜しんで取り囲んでくる友人たちへ、少女は困ったような笑いを浮かべた。
「ごめん、飛行機の時間が……」
数ヶ月分の着替えやら学校教材やら、かさ張る荷物は全てまとめ、昨日の内に既に送ってあった。
ほとんど身ひとつと言って良い状態で終業式を終え、彼女はこのまま直接空港へ向かう予定でいる。
「急がないと」
「送っていくよ」
男が割って入って声をかけると、居合わせた友人たちは皆、気を遣ってその場で2人を解放した。
彼らが恋人同士であったことは、教室では周知の事実である。
「みんな、元気で……必ずまた会いましょう」
校内にはまだまだ人気が残っていた。
ざわつく廊下を急ぎながら数度振り返る。
背中を見送っていたクラスメイトも、三度目に振り向いた時にはもう消えていた。
「大丈夫――もう誰も」
「リュウ、ごめんね」
「謝るなよ」
急ぎ、階段を駆け下りる。
下駄箱で靴を履き替えた時、少女は自分の上靴を、後で処分しておいて欲しいと男に頼んだ。
昇降口を飛び出し、最後にもう一度、通い慣れた教室がある辺りを見上げる。
窓から誰か覗いていないかと思ったが、確認出来なかった。
「誰も見てないな……淋しい?」
「少し……でも、良かった」
校門へは、向かわなかった。
木造の旧校舎は今はもう使われておらず、年明けには取り壊し工事の着工が決まっていた。
施錠のなされた入口とは別に、裏にまわれば鍵の壊れた通用口が鈍い音を立てて2人を向かい入れる。
踏み入れると埃が舞い、湿ったカビ臭い空気が纏わりつく。
淀んだ暗い雰囲気に、男は怯んだ。
「ジェシー、やっぱり……」
「お願い、リュウ」
「だけど」
「ごめんなさい……でも」
分かった、と、男は少女の謝罪を遮る。
「もう謝らないで。嬉しいんだ、俺だって本当は」
少しでも落ち着ける場所を探して、2人は奥へと進んだ。
木造の床は、一歩踏むごとに不気味な音を立てる。
けれど、固く繋ぎ合った互いの手から伝わる熱が不安を吹き飛ばした。
各教室の入口に、墨で学年やクラスが書き入れられた木の板がぶら下がっている。
1階は避けたかった。
万が一表を通りがかった誰かに覗かれたくない。
1年生の教室が並ぶ1階を素通りし、階段を見つけると迷わず上に上がっていく。
2階へ着くと、階段正面が職員室のようだった。
長く続く職員室に沿って廊下を進むと、その奥に校長室の表示がある。
もしかしたらそこならば、と、男はそっと引き戸を引いた。
「驚いた……残ってるのか」
奥の窓辺に校長用の椅子と机があり、入口側には来客用なのか、重厚な造りのテーブルとソファ。
古くさく革も劣化はしているが、立派なものだった。
1階の教室の中には机や椅子も残されていなかったのに、この部屋だけ時が止まったかのように、使われていた当時の状態のまま残されているようだ。
「座れる?」
「汚れるよ」
言いながら男がソファを叩くと、堆積していた埃がそれを待っていたかのように舞い上がる。
咳き込みながら、2人は顔を見合わせて笑いあった。
換気をしたいところだが、窓を開けて外から見つかってはたまらない。
「別にいいわ、ここで」
と、少女が先に腰を下ろした。
残っていた埃がまた舞い、気にならないわけはないのに満足したように微笑んでいる。
「隣に……」
「うん」
男が言われた通りに腰を沈めると、少女はテーブルの上に鞄を置いた。
中身は渡航に必要な財布やパスポート等必要最低限のものだけだった。
それと、もうひとつだけ。
「リュウ、これ」
「ああ……これも最後か」
渡されたノートを、男が受け取る。
淋しげに笑う男に「手紙を書くよ」と言ってから、少女はそっと顔を近づけた。
目を閉じる。
唇が触れあう。
ノートは小さな音を立てて床に落ちた。
これからしようとしていることに、何の躊躇いも疑問もなかった。