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立派な家構えだった。
それでいて過度に飾り立てた様な嫌味もなく、その辺りの住宅街にしては広めの庭は良く手入れされているのが外からも伺えた。
高い壁に隔たれることもなく通りから庭の向こうに見える大きな窓、その奥は恐らくリビングで、きっと普段はオープンなのだろう。
庭の手入れをしながら、或いはリビングで紅茶でも飲み寛ぎながら、この家の婦人が道行く人に会釈をする。
そんな絵が見えるような家だった。
庭に面した窓の内側は、厚いカーテンに閉ざされていた。
絵に描いたように優雅で幸せそうなその家は今、何か重たい、どんよりとした空気に包まれている。
――喪中の家というのは、どこもこうなのだろうか。
みのりは自分の家を思った。
ごく普通のマンションだ。
目の前の家ほど贅沢ではないが、別段古くも狭くもない。
だがあの家がこの空気を纏ったら、中の人間まで蝕まれそうだ。
――或いは。
もしかするとそのせいで、自分は数ヶ月家に閉じこもってたのではないだろうか。
久しぶりに外に出たというのに、そんな考えに憑りつかれそうになってみのりは頭を振った。
外に出なかったのは自分の意思だ。
目に見えない何かのせいにするなんて、馬鹿げている。
空気が人を蝕んだのではない。
中の、或いはそれを取り囲む周囲の、人間が家の周りの空気を蝕んだ結果がこうなのだ。
隣に立っていた男が、みのりに目で合図を寄越してから呼び鈴に手を伸ばした。
半年以上も会っていなかったのに、あの頃と何も変わっていない男の隣に立っているのが恥ずかしかった。
『みのり! 何でライン通じなくなってんだよ!?』
――あの日、真夜中にも関わらず、亮の反応は速かった。
返事があるとすれば当然メールだと思っていたみのりは携帯のバイブレーションに咄嗟に手を伸ばしたが、その瞬間、スピーカーモードにでもなったかと思うほどの大音量が漏れ聞こえた。
焦って取り落とした携帯からは、何事かと心配して大声で呼び続ける亮の声が響く。
そのまま切ってしまおうか、と思ったのはほんの一瞬だった。
ずっと聞きたかった声が、彼女を呼んでいる。
みのり、どうしたみのり、大丈夫か。
必死で呼びかけてくる声は、自分を心配してくれている。
2人を再び繋ぐきっかけとなった、不幸の渦中にいる玲奈ではなく自分を。
泣きそうだった。
嗚咽を堪え、声が震えないよう細心の注意を払って話をした。
ラインが通じなくなっていることが分かってから数人の元クラスメイトと連絡を取る内に、みのりが大学を辞めたことは既に亮の耳に入っていた。
『みのり、一体何があった?』
玲奈のことで連絡を取ったはずだった。
なのに亮が真っ先に聞いたのは、みのりのことだった。
通夜告別式も全て内々で行うから、と、自宅への訪問を望んだのは高嶋玲奈の方だったらしい。
一緒に行こうと言ったのは亮だ。
『心配なんだろ? 仲良かったしな、お前ら』
長い間――それこそ片想いだった頃からずっと玲奈に対しては嫉妬を抱いていて、付き合い始めてからも別れた後もその不安は無くならなかった。
にも拘らず、みのりは玲奈のことが好きだった。
なるほど亮が惹かれたのも当然と納得せざるを得ない、高嶋玲奈という女は同性から見ても魅力的な存在だった。
朗らかで誰にでも優しくて親しみやすく、包容力がある。
成績も良かった。
机上のみならず特に芸術的センスに優れていて、音楽や美術の授業では圧倒的な世界観で周囲を包み込む。
加えて玲奈は容姿も優れていた。
下手したらやっかみの対象ともなり得るはずのそれら全ての美徳が合わさると、小さなプライドや敗北感など薄れてしまう。
高嶋玲奈という人間は、自分と比較して卑屈になるのも馬鹿らしくなるような高尚な存在だった。
はじめは亮の視界に入りたくて玲奈に近づいたみのりも、すぐに彼女に魅了された。
そして何故か――みのりがいくら考えても理由に思い当たらない――友達も多くみんなに愛されていた玲奈の方も、みのりのことは特に気に入ったようだった。
2人が仲良くなるのにそう時間はかからなかった。
亮が言う通り、仲が良かった。
親友だったと言っても良い。
その玲奈が今、この重たい空気を纏った檻の中に身を潜め隠れている。
呼び鈴を押してから数十秒、ドアの内側に小さな物音がする。
すぐには開かない扉の真ん中に付いたスコープへ向け、亮が合図を送るかのように頷いて見せた。
それに倣い、みのりも小さく口を開く。
『玲奈』と、声には出さず、向こうから覗いているだろう彼女へ向けて呼びかけた。
静かにドアが開いた。
細い隙間から顔を覗かせた玲奈はまるで病魔に冒されたかのように青白く、目の下には彼女本来の優しい雰囲気を破壊する隈が広がっていた。
あまりの変わり様にみのりは息を呑んだ。
冷たい空気が喉の奥を刺激した。
ひりついて、声が出ない。
――乾燥、乾燥のせいだ。
ショックを受けたわけではない、と、乾いた空気のせいにしてみのりは動揺を宥めた。
顔色と隅だけの問題ではなく、彼女は随分と痩せてしまっていた。
さらさらだったはずの髪にはブラシも通していないのか、ごわごわと絡まり、毛先もパサついている。
きめ細かく艶やかだった肌は白く乾燥し、薄っすらと皺が刻まれている。
据わった目には光がなかった。
隣で同じく言葉を失っている亮の様子が物語っていた。
玲奈のこの変化は、みのりが知らない高校卒業からの9ヶ月間に少しずつ進行したものではなく、父を喪ってからのほんの数日で起こったことなのだ。
ゾクリとした。
この家を取り囲む淀んだ空気の発信源は、間違いなく彼女である。
玲奈は静かに人差し指を唇の前に立てた。
乾燥して裂けた血が乾いた跡の様な筋が、その唇に1本走っている。
「母が寝ているの」
低い低い静かな声で、玲奈がはじめて喋った。
その声は、地の底から伸びてきた手に突然足首を掴まれたような恐ろしさを感じさせる。
――引きずり込まれる。
とても声など出せそうになかったみのりは、小刻みに首を縦に振ることでなんとか了解の意思を返した。
玲奈は必要以上にドアを開こうとせずに、踵を返して家の奥へと戻っていく。
閉まりかけたドアに慌てて手をかけた亮が、不安に縮こまるみのりへと目配せをする。
『大丈夫か? 入るぞ』
その声が聞こえたようだった。
勘違いしそうだ。
亮は今日、自分を支えるためにここへ来たわけではない。
今支えを必要としているのは玲奈の方だ。
決して自分ではない。
意を決し、家の中へと踏み入れた。
玲奈は自室へ向かうつもりか、既に階段の真ん中あたりまで上っている。
その影を背負った後ろ姿を見上げながら、隣にいる亮への意思表示としてひとつ頷いて見せた。
「――ッ!」
危うく大きな声をあげそうになったみのりはその時、ひりついた喉が声を取り戻したことに気が付いた。
錆び付いたロボットのようにぎこちなかった身体中の動きに、潤滑油を差されたように自由が戻る。
右手に確かに感じる、熱。
無言で繋がれたその手を、亮が静かに引く。
場所を、立場を、ここへ来た目的を忘れそうだった。
こみ上げてきそうになる涙を瞑目して堪え、亮に手を引かれたまま、みのりは玲奈の後を追った。
当然のように、部屋に入る前にその手は離れていく。
――亮はもう、私のものじゃないんだから。
こんな風に亮に頼ったり甘えたりしてはいけない、と、みのりは自分に強く言い聞かせた。
「……ごめんね、せっかく来てくれたのに、お客様を迎える準備も出来てなくて」
自室へ戻ったからか、玲奈の雰囲気は玄関で見た時よりも幾分か和らいでいた。
苦笑しながら自分のことを「酷い有様でしょう」と言う彼女は、僅かにだが、みのりの良く知る玲奈に戻ったようにも感じられる。
「大変だったね……玲奈」
言って、みのりは彼女を抱きしめる。
途端感情を取り戻したかのように、玲奈の肩が震えだした。
「ごめん――泣いても、いいかな」
律儀に断りを入れるところが彼女らしかった。
そして玲奈はその言葉の通り、みのりの腕の中で声をあげて泣いた。
「見たんでしょう、ネットの中傷……」
漸く泣き止んだ玲奈からのその質問に、なんと答えるべきなのか分からずにみのりは目を泳がせた。
外に出ない内に喋り方も忘れてしまったのだろうか。
ろくなことを言ってやれそうにない自分を呪いながら、僅かに隣の人に期待を抱いていた。
――また、亮に頼ってる……。
酷い自己嫌悪がみのりを襲った。
亮と2人で玲奈を助けに来たつもりだ。
今玲奈へ差し延べられるべき彼の手を、奪うつもりか。
玲奈へ差し延べるべき自分の手で、彼女への救いの手を横取りするつもりか。
それなら初めから来るべきではなかった。
何をしに来た? と、みのりは自分に問う。
背負い切れない重荷で自分も一緒に溺れるくらいなら、いない方がマシだ。
傷に触れる覚悟はなかったのか?
ただのひやかしや義理だったか?
偽善者ぶりたかっただけなのか?
――違う。私は玲奈を、救いに来た。
「その前に――何か飲んだ方がいいよ、玲奈。干乾びちゃう」
この子のどこにあれだけの水分が残っていたのだろう、と不思議になるくらい泣いた後だ。
カサカサに乾燥した肌に残る涙は、そこに潤いを与えるどころかさらに奪っていくように見える。
その跡をそっと拭ってやりながら言うと、どこかほっとしたように玲奈は笑った。
喪う痛みを、みのりは知っている。
その傷口を抉るように心無い中傷が伴えば尚更。
今玲奈がギリギリのところに立っていることを、みのりは良く理解しているつもりだった。
だからこそ、不謹慎であろうと気が乗らなかろうと、無理やりにでも笑いが必要だ。
水分も栄養も――心にも、身体にも必要だ。
何故なら彼女は生きているのだから。
故人と一緒に死んだわけではないのだから。
「ほら、これ」
と、鞄を漁り、来る途中で買ってきたものを取り出す。
出てきた紙袋を見ると、玲奈はくしゃりと顔を崩した。
――そう、その調子。
思いきり泣けた後だ。
次は笑わなければならない。
話はその後で構わない。
まずは空っぽになった心と身体に、補給が必要だ。
「玲奈好きだったでしょう、ここのドーナツ」
「うん……懐かしい。よく学校帰りに寄ったね」
目を細めてそっと開いた紙袋の中を覗いた玲奈は、中身を確認するとさらに表情を緩めた。
「こんなに!」
漸く自然に零れたようなその笑みが、間違ってなかった、とみのりを安堵させた。
「だって玲奈、3つはぺろりと食べるじゃない」
「やだ、やめてよ。2人だけの秘密でしょうそれ!」
高校の頃みのりは、玲奈の細い身体の一体どこにそんなに入るのかと毎回驚かされたものだった。
玲奈も当時を思い出したのか、くすくすと笑う。
そうやって少しずつ、みのりが知る『高嶋玲奈』が、戻ってくる。
「ねえ玲奈、私温かいカフェオレがいいなぁ。亮はブラックだよね?」
今まさに始まろうとしているお茶会があまりにも予想外だったのか、突然話を振られた亮は、戸惑ったように曖昧な返事をした。
なんて場違いで図々しいことを言い出すのかと思っているのかもしれない。
笑いを浮かべてはいけないと未だに律しているような気配すらあった。
けれど、玲奈は言われた通りに飲み物を準備するつもりのようで、すっと腰を上げるとみのりに向かって微笑んだ。
「分かってる。ミルク増し増し砂糖抜きでしょ?」
「あ、覚えてる」
ふふ、と目を合わせて笑いあう。
女同士独特のコミュニケーションを見せつけられて、亮はますます混乱したようだった。
「あ、玲奈」
さも今思い付いたかのように、みのりは部屋を出て行こうとする玲奈を呼び止めた。
「甘いモノお好きかどうか分からないけど、ひとつ、お父様に。それから……お線香、あげさせてもらっていいかな」
一瞬だけ、部屋に緊張が戻った。
漸く笑えるようになった玲奈に、もう少しだけ辛い現実を忘れさせていた方が良かったのかもしれない。
けれどそれがみのりが思う死者への礼儀であり、周りが何を言っていようと自分には敵意はありません、という彼女なりの意思表示でもある。
「もちろん……ありがとう」
答えた玲奈の声は、僅かばかり震えていた。
けれど次の瞬間上げた顔には、感謝の意が浮かんでいる。
「まだお仏壇もなくて……下なの、着いて来てくれる?」
本来の来訪目的へ立ち返ったここで、漸く亮もペースを取り戻して腰を上げた。
ところが言いだしっぺのはずのみのりは未だに座りこんだまま、先ほど玲奈に差し出した紙袋を覗きこむ。
「お父様にあげるドーナツ、どれにしよう。可愛いピンクのにする? ストロベリー」
「え、駄目! それ私が一番好きなやつ!」
「馬鹿ね玲奈、後でもらえばいいのよ。死んだら人はドーナツ食べないの、これからはお線香が食事なの」
みのりの言葉に、亮はぎょっとしたように目を剥いた。
『死』というワードを、無意識に避けたかったのかもしれない。
みのりにとっても、無神経だと自覚するその言い方はある種賭けだった。
まだ傷口は新しい。
また奈落へ突き落としかねなかった。
けれど彼女は、自分が知る『高嶋玲奈』を信じている。
乗り越えなくてはいけない。
そして玲奈は、必ず乗り越えられる。
しばらく黙り込んだ玲奈は、小さく「そっか」と呟いた。
「でも癪だから、二番目に好きなヤツにするわ」
その言葉に内心ホッとしながらにやりと口角を上げたみのりは、紙袋の中から迷わずクッキークランチを取り出した。
玲奈が言った通り、階下に仏壇はなかった。
簡素な3段ほどの台に白い布がかけられている。
台の中心に置かれた、同じく白布に覆われた四角い箱らしきものの中身が遺骨だろう。
位牌、遺影、線香、お鈴。
寺か葬儀屋にでも言われるままに用意したのだろうか、必要最低限のあるべきものだけがそこに並んでいた。
見知らぬ人の良さそうな男が黒い枠の中で笑っている。
無機質に塗りつぶされた青をバックに、黒い背広と白いネクタイを着用した男が。
仕事柄スーツ姿の写真はあったのだろうが、決して不自然な仕上がりではないのに奇妙な違和感を覚える白ネクタイは、遺影用に加工されたものに違いなかった。
写真に正対し姿勢を正したまま、みのりはじっとその人を見つめた。
優しそうな笑顔だった。
家にあった写真を使ったのだとしたら、撮影者は玲奈の母親だろうか。
柔らかい眼差しがレンズ越しにカメラを持つ誰かに向けられている。
幸せそうに見えた。
――やっぱり、信じられない。家族を裏切っている人が、こんな風に笑えるわけがない。
死後、遺影用の写真を簡単に加工出来てしまうように。
故人をまるで知らない赤の他人の、根拠のない憶測に基づいたネットの書き込みくらいで、この人の人生を書き換えられて良いわけがなかった。
みのりと亮が交代で線香をあげ手を合わせている間に、玲奈は湯を沸かしコーヒーの準備をしていた。
「これ、みのりからあげて」
みのりが彼女の父のために用意したドーナツは皿に乗せられ、祭壇にではなく、みのりに直接手渡された。
玲奈が祭壇の前に座り線香をあげることはなかった。
そういうものなのか、何かしらの心理がそうさせるのかはみのりには分からない。
言われるままにドーナツを受けとり、再び祭壇に向き合ってから逡巡する。
どの段に供えるとか何か決まりごとがあるのかどうか、みのりにはその知識がなかった。
首を傾げて迷ったまま一旦皿を祭壇の下に置くと、その拍子に祭壇を覆う白布の端に手が触れてしまった。
神聖なものに対して無礼を働いたような気になり、慌ててその手を引っ込める。
慌てたのがいけなかった。
手を引いた瞬間、白布が却って大きく捲れた。
「……あ、れ?」
祭壇は納骨が済むまでの間の簡易的なものだ。
故に、布の下は骨組みだけの簡素な造りで空洞だらけだった。
一瞬翻った白布の下に、何かが見えた。
隠すようにそっと置かれた、何かが。
「みのり? どうした?」
「適当に空いてるとこに置いておけばいいよ、みのり」
それが見えたのはほんの一瞬のことで、どうやら視界に捉えたのはみのりだけだったようだ。
祭壇の下に隠されたそれに小さな違和感を抱きつつ、みのりは2人に促されるまま供え物をすると、再び玲奈の部屋へ上がって行った。