◆
「隠すなよ。頼む、教えてくれ。分かってんだよ、妊娠したんだろ? お前に子どもが出来たんなら、父親が俺以外なわけない」
その声は掠れ、苦悶に満ちた表情だった。
妊娠という噂はどこにもなかったはずだが、何故か亮はそれだけは確信を持っているようだった。
「どうしてそう思うの? 仮に妊娠してたとして、相手は他の人かもしれないじゃない」
「そんなわけないだろ!」
「……大きな声、出さないでよ」
また少し、周りの注目を浴びていた。
料理の皿を下げられてドリンクだけで話し込んでいるし、先ほどからの周りの目もあり段々居づらくもなってきている。
「もう出ようか」
みのりがそう言うと、亮は首を横に振った。
「お前、何も話さないでこのまま帰るつもりだろ」
頑として動こうとしない亮を見て、みのりは溜め息を吐いた。
「ねえ。聞いてどうするつもりなの?」
――どうにもならないのに。あの子は消えてしまった。もう戻ってこない。
亮が突然別れを切り出したのは、みのりの気持ちを試すためだった――先ほど知らされた真実は、彼女の心を痛めただけだった。
亮は試し、みのりはその期待に応えられなかった。
互いが互いを信じ切れずに辿った末路だ。
仮にやり直せたとして、違う結果があるだろうか。
どちらにしても、失った命はもう戻ってこない。
それは、もしもあの時2人が別れていなかったとしても、同じことだった。
「みのり……謝ることすら、許してくれないのか」
そうか、この人は謝りたいのか、と、みのりは妙に納得した気分だった。
だが一体、何を謝りたいのだろう。
謝ったら何か変わるのか。
――ああ、そっか。
彼が何を謝るつもりなのかは分からない。
理不尽に突然別れを切り出したことなのか。
不用意な行為でみのりを妊娠させたことなのか。
彼女に起きたことを何も知らずに過ごしてきたことなのか。
何を謝られたところで、時間は取り戻せない。
みのりにとって何かが変わるとは思えなかった。
だが、彼の気持ちは変わる。
謝ってみのりが一言『もういいよ』と言いさえすれば、亮の気持ちは軽くなるに違いない。
「場所、変えようか」
「え……みのり?」
「謝りたいんでしょ? いいよ」
その謝罪とやらを聞こう。
みのりが聞いて、許す――その段取りが、この人には必要なのだ。
「もう少し静かで、人が見てないとこに行こう」
例え形式的に手順を踏むだけだとしても、人前で頭を下げる亮は見たくない。
そう思っての提案だった。
店を出る時に、支払いは亮が済ませた。
みのりは黙って奢られた。
彼が今はそうしたいだろうと思ったし、引きこもりは金欠だから、正直に助かる。
そう言えば彼が何のアルバイトをしているのかを聞きそびれたな、と頭の片隅で思っていた。
もう、どうでも良い事だった。
みのりが先に店から出た。
付き合っている間ならばそういうことはなかった。
いつも亮のタイミングを待ち、亮の後を追いかけるように歩いていた。
――それもいけなかったのかもしれない。
亮に頼って、甘えて、引っ張ってもらうばかりで、強く自己主張をしたことはなかった。
少しのことならば我慢をした。
亮が言っていた通り、無理をしたこともある。
たまに喧嘩になるのは、積もり積もった我慢が限界を超えてみのりが癇癪を起した時だった。
逆に言えば、そんな時しか喧嘩すら出来ない付き合い方だったのかもしれない。
いつもどこかで亮の顔色を窺っていた。
端的に言えば、彼の気にそぐわないことをして嫌われるのが怖かった。
――昔のことだ。
1人で出た外は一段と冷え込んでいて、みのりは店先で立ち竦んだままマフラーを巻き直した。
すぐに亮が出てきて、隣に並ぶと立ち止まる。
「……場所、」
「ああ、任せるよ」
短く単語だけを発して口ごもった亮の後を、みのりが引き継いだ。
だが行先を決めあぐねているのか、亮はなかなか動き出さなかった。
話の流れからさすがにそう勘違いはされていないだろうが、よくよく考えれば『静かで人が見ていないところ』に行きたいとは、2人きりになりたいと言っているようなものだ。
場合によっては甘い意味の言葉にもなるのだと気付くと、みのりはつい笑ってしまった。
「何、急に笑って」
「ううん。場所、困ってんのかなと思って。どこでもいいよホントに。ただここはちょっと、注目浴びちゃったからね」
「いや、場所は……――」
言葉は不意に途切れ、隣を見上げると眉の下がった顔に見つめられている。
亮の手が伸びてきて、頬に触れた。
「ごめん、さっき。叩いたりして」
みのりが『注目を浴びた』と言ったから、急にそれを思い出したのかもしれない。
みのりはあの平手の時は自分が悪かったと思っているし、亮が謝りたいと言っているのも、そのことではないはずだった。
だが彼は、「大丈夫か」と叩いた所を労わるようにそっとなぞった。
外気で一気に冷やされていた頬に、彼の指先は温かかった。
そのまま目を閉じると、この距離が当たり前だった頃に意識が持って行かれそうになる。
みのりは慌てて顔に触れていた亮の手を掴み、下に降ろさせた。
「あはは、全然大丈夫。叩かれたの初めてだったね、びっくりした」
「痛かったろ?」
「うん、脳みそ揺れた」
「……マジ? ほんとごめん」
「嘘だよ嘘! いいよ、あれは私が悪かったし。むしろありがとう」
「叩かれてありがとうってのは変だろ」
「あー、Mみたい?」
わざと冗談めかして軽口を叩いている内に、亮がやっと笑ったのを見てみのりはほっとした。
自分に一度も手を上げたことがなかった彼が玲奈をぶった時、彼女は確かに小さな嫉妬を覚えていた。
みのりが口にした『ありがとう』からはその意味までは汲み取られなかっただろうが、遠慮なく本気でぶつかられたことを嬉しいと感じたのもまた本心だった。
掴んだままの亮の手を放すタイミングが分からなかった。
繋いでいるわけでもなく、一方的に手首を握っている。
本当はそのまま触れていたいという気持ちが邪魔をしていることには気付いていた。
――でも、放さないと。
そっと彼の手を解放し、所在のなくなった自分の手はコートのポケットに隠そうとした。
触れていた温もりが消えた途端に、指先が酷く冷える。
「行先、俺が決めていいの?」
「任せるってば」
慎重に念を押してくるのが可笑しくて、もう一度小さく笑うことが出来た。
それをきっかけに、みのりが行き場を無くしていた手をポケットにしまおうとした時だ。
――あ。
再び手が触れた、今度は亮の方から。
軽く包むように触れて来たその手が、このまま力を込めて良いものかどうか迷っているようだった。
探る様な目で切なげに見つめてくる亮の視線が、みのりの胸を締め付けた。
触れあった手は自然に繋がれ、これからの行先を決めるのはいつも亮で、ぐいっと引っ張られるのが歩き出す合図だ。
付き合っている間、ずっとそうだった。
もう終わったことだ。
事情が事情で再会に至ったが、今から彼が何らかの謝罪をし、それをみのりが許すという形式的な段階を踏むのは謂わば2人のけじめのようなものだった。
それが終わり亮の中のしこりが消えれば、あとはもう、本当に全てなかったことに――或いは過去の綺麗な思い出にするしかない。
今日、たった今この時間が、みのりにとって亮との間に許された最後の特別な時だった。
この後別れる時が本当の2人の決別の時で、今度こそ、もう二度と2人きりで会うこともなくなるのだろう。
自分もいい加減前に進み出さなければならない。
いつまでも家に籠って、闇の中で立ち止まっているわけにはいかない。
これから起こることはきちんと終わりにするためのけじめで、動き出すためのきっかけだ。
――これが、最後なら……。
最後だから。
今だけだから。
もう一度だけ、短い間だけ、あの頃の幸せに浸ってもいいじゃないか。
「……手。繋いでも、いいか」
「変なの。この店来る時だって許可なんか取ってなかったクセに」
亮がそうしたいと思うのが、ただの情や懐かしさなのかみのりに対する贖罪なのか、それ以外の何かなのかは分からない。
互いの存在を確かめ合うかのように指先が絡み合った。
彼のことが好きだという気持ちは、今も変わらずにみのりの中にある。
それが指先から漏れ出て亮へ伝わってしまわないことを、彼女は心の底から祈っていた。
終わりへと向かう一歩を、亮が踏み出す。
あの頃と同じように手が引かれ、みのりは彼に追従した。
謝罪をしたいという話の内容もそれを話す場所も彼に委ねた今、みのりにはもう、その瞬間を引き延ばすことは出来ない。
なるべくゆっくり歩いて欲しかった。
そして、出来ればそれが始まる瞬間までは、他愛のない会話を楽しみたい。
あの頃ではなく、今だから出来る話を――例えば大学に入ってからの彼の生活などを聞かせて欲しかった。
手を繋いだまま無言で歩くのは、あの頃を思い出し過ぎて怖かった。
戻れない時間を意識が遡ろうとする、根底にある自分の気持ちを許すわけにいかなかった。
もしも亮が今でも自分と同じ気持ちを持っていてくれたとしても、それを受け入れるわけにはいかなかった。
――傷も罪も過ちも、何一つ消えない。私たちはもう、取り返しのつかないものをなくしてしまった。
戻れないことは分かっているし、そうするつもりもない。
けれど、否、だからみのりは、今この時がずっと続いて欲しいと願った。
どこへ向かうつもりなのか、亮は目的地を告げずに進む。
険しい顔をしてみのりの方を見ようともしないが、手だけはしっかりと繋がれたままだった。
賑やかな駅前からは遠ざかり、比較的色んな店が並ぶ大通りからも離れて、車通りのない住宅街を縫うように細い道を進んで行く。
こっちに行っても店は何もないのに、と考えてから、何も話をするためにわざわざ店に入る必要はないのだと漸く気が付いた。
外でも良いし、歩きながらだって話は出来る。
むしろその方が人目にはつかずに済む。
静かな道だった。
歩きながらだったら、今話が始まってもおかしくない。
みのりの手に力がこもったのは無意識で、自分では気付きもしなかった。
生活圏内のはずなのに、普段は通る機会のない住宅街だったのでみのりは方向を見失いそうになっていた。
任せておけば大丈夫、と思っていても、住所表記を見ると知らず地名を確認している。
角を曲がったところが境目だったのか、また地名が変わった。
――ここって、確か……。
去年の冬に一度だけ2人で訪れたことのある公園がある地区だった。
公園とは名ばかりで特に遊具があるわけでもなく、元は建物を造ることの出来ないただのデッドスペースだったらしい。
細長い敷地の中心には小さいながらも噴水があり、左右には等間隔にベンチが並んでいる。
普段は小さな子どもを連れた近所の母親たちの憩いの場だったり、犬の散歩コースの一部だったりする以外には、近隣住民の抜け道でしかない。
だが、冬の間は噴水の周りがライトアップされているはずだった。
イルミネーションと呼べるほどの煌びやかな電飾もないし、クリスマスの時期には競って家を飾る区画が近くにあるので地元でもほとんど話題にすら上がらない。
この近くに住むクラスメイトがたまたまその話を教えてくれて、去年、亮と2人で訪れたのだ。
湧きあがる水に反射する光の色が緩やかに変わっていくのがとても幻想的だった。
――あそこだったらいいな。とても綺麗だった。
「お前の手、冷たい」
不意に亮が呟き、繋いでいた手がぱっと放された。
突然現実に引き戻されたみのりは突き放されたようなショックを受けたが、亮は見つけた自動販売機にコインを投入しているところだった。
ガコン、と2つ目の商品が落ちてくる音が聞こえると少しだけ安堵した。
亮は自分の分だけでもみのりの分だけでもなく、2人分の飲み物を買ったようだ。
みのりにとっては、少なくともそれを飲み終わるまでは一緒にいられるという意味だった。
「悪い、外寒いよな。考えてなかった。これ、カイロ代わりな。もうちょっとだけ平気か?」
気遣うように言いながら亮が渡してきたのはホットレモンだった。
彼の手には缶コーヒー。
「もうちょっとだけも何も、まだ話もしてないよ」
ふふ、と小さく笑って返した。
話が始まりさえしなければ終わらずに済むのに、と、さっきからずっと、自分の意思と感情が矛盾していて苦しい。
ホットレモンを受け取って確かに温かいが、これが離れてしまった彼の手の代わりなのかと考えると、途端に要らないもののように思えてくるからたまらなかった。
「ちょっと、座って話そう。もう着くよ。みのり、ここどの辺だか分かってる?」
「……噴水がある公園の、近く……?」
もう着く、と聞いて、期待を込めてそう言った。
亮が選んだ目的地があの公園だったら嬉しい。
同時に、最後の話をする時が近付いているのだとも気付いた。
だがみのりが複雑な心境に俯く間もなく、すぐに亮の反応があった。
「すげーじゃん、みのり方向音痴なのに!」
「ちょっと、今馬鹿にした?」
亮は否定しなかった、では行先はやはりあの公園なのだ。
胸が高鳴るのを抑えて、努めてただの友達らしく言葉を選んだ。
もうすぐ終息のための儀式が始まる。
恋人だった頃の感傷に浸るのは終わりにして、今を友人として楽しまなくてはいけない。
「してない、驚いた。公園どっちだか分かる?」
試す様な聞き方をされて少し悔しいが、「全然」と正直に首を横に振った。
亮はそれを見て「はは」と声に出して笑った。
どこか満足したように見えるのは、気のせいだろうか。
「大丈夫、ちゃんと連れてくから。こっち」
離れていた手が、再び繋がれた。
亮は穏やかな笑いを浮かべている。
その心の内が読めないのが哀しかった。
「あれ……なんだよ」
と、公園に差し掛かるなり、亮が不満そうに呟いた。
まさかと思ったが、中心部に近づくにつれて見間違いではないことにみのりも気が付く。
ライトアップどころか、噴水の水まで止まっていた。
「去年はクリスマス過ぎてもやってたのに……残念だね」
大学入試が差し迫った頃だったので、間違いない。
遠くの大学を受ける亮とは、彼が合格してしまえば離れ離れになってしまう。
落ちればいいのにと望む嫌な気持ちをねじ伏せて応援しなくてはならなかった。
自分の試験よりも2人の今後の方が気がかりで、春が来るのが怖く、不安に押し潰されそうだった。
水に映って揺らいだ青が、緩やかに変化して無垢な白になる。
それは少しずつ暖かみを帯びて、やがて眩く輝く黄金になった。
迷いも不安も消えて、希望の光が射したようだった。
真っ直ぐな気持ちで互いに「頑張ろうね」と励まし合えたのは、2人並んで一緒にあの光景を見たからに違いなかった。
――これで良かった、のかも。
今、亮と2人で、希望の光など見るべきではない。
水の止まった噴水が、もう戻れないのだと念を押しているようだった。
「景気のせいか? それともやっぱ知名度の問題か……」
ぶつぶつと悔しそうに言うと、大きなため息を吐きながら亮は噴水正面のベンチに身体を投げ出す。
「なくなっちゃうくらいなら、拡散しとけば良かったね?」
「そういう問題じゃ――、」
言いかけた言葉を途中で飲み込んで、亮は小さく首を横に振った。
彼が口の中で何か呟いたのが、はっきりとは分からないが「いんだよ」と聞こえた。
『良いんだよ誰にも言わなくて』――そう言ったような気がしたが、ライトアップがなかったのが余程残念だったのか、俯いて肩を落としている亮の表情はよく見ることが出来なかった。
亮の隣に腰を下ろそうとしたみのりは少し惑い、結果2人の間には、人1人分の不自然な隙間が生まれた。
繋いでいた手は彼が先にベンチに座った時に自然に離れてしまっていた。
今さら自分の方から手を伸ばすことも出来ずに、さっきもらったホットレモンから暖を取るように両手で包み込む。
『これがほとんど知られてないなんて勿体ないな』
『でも、おかげで貸切だよ。すごい贅沢だよね』
『……誰にも教えてやらねえ』
同じ会話が、今亮の中で再生されているかどうかは分からなかった。
あの時、言外に来年の約束をしたつもりになっていた。
誰も知らないとっておきの秘密の場所に、また2人だけでやって来よう、と。
だから亮は、『誰にも言わなくて良かった』と言ったのだろうか……それともただの聞き間違いだっただろうか。
「ごめんな」
「……えっ!?」
唐突な謝罪に、一瞬、何の前振りもなく話が始まったものかと思い、みのりは慌てて上擦った声を出した。
「ここまで来て、まさかやってないなんて」
と、どうやら亮が言っているのはライトアップのことだった。
ホットレモンを握りしめる両手に無意識に力が入っている。
ふう、とひとつ、気付かれないように息を吐き出して落ち着かせた。
「別に、亮のせいじゃないし……」
「でも」
「それにっ!」
言葉を、互いに遮りあった。
先に折れたのは亮の方だ。
口を噤んで、みのりに先を譲るように視線を寄越した。
「――話、しにきたんだから。静かで人が見てなくて、座って話せて、十分でしょ」
心にもないことをそれっぽく見えるように喋ることに、少しずつ、慣れてきているような気がしていた。
破片がボロボロと剥がれ落ちていくような感覚だった。
そのどれもがみのりであり、みのりでない。
落ちたのが本物なのか残ったのが本物なのか、全部偽物なのか。
ホットレモンのアルミ缶にふたつ、彼女の親指の爪が食い込んだ凹みが出来ていた。
「……馬鹿、破裂すんぞ」
力んでいたみのりの手元に気付いたのか、亮はそう言って淋しそうに笑った。
躊躇いながらも伸びて来た手が、ぽんと優しく頭に乗せられる。
「約束、してたろ。また見たかったんだ……みのりと一緒に」
「――ッ」
間にあったはずの人1人分の距離が、いつのまにか半分に縮まっていた。
心が悲鳴をあげている。
亮は優しかった。
聞かされた気持ちは嬉しかった。
甘い痛みはただただ苦しくて、切ない。
それなのに、声も涙も出なかった。
身体の内側から軋んでバラバラになっていく。
「――ごめんな、みのり。辛い思いさせたな」
ああ、話が始まるのだ、と、みのりは理解した。
どれを指してごめんと言っているのだろう。
辛かったのは確かだ、だが、怒っているわけではないのに。
「子ども……駄目だったのか?」
妊娠はした、けれど産んではいない。
亮が知っているのはそこまでだ。
彼は『流れた』という直接的な表現は避け、慎重に言葉を選んだ様子だった。
堕ろしたのか、とは聞いてこなかった。
それがみのりにとっては救いでもあり、そして、鋭い刃でもあった。
「ごめんなさい」
「――なんで、お前が謝る」
「ごめんなさい」
「みのり……?」
手がぶるぶると震え、まだ開けていない缶の中身が揺れて音を立てた。
呼吸が浅く、短くなる。
――駄目、だめだ。しっかりしろ。しっかりしないと。
冷静になれ。
そう言い聞かせるほどに、気が遠のいた。
『しっかりしなさい』と、頭の中に怒鳴るような声が響いていた。
――ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめん……――
「みのり!」
頭の中に響いていた音が、その一瞬で全て止んだ。
何か大きくて暖かいものに包まれていた。
不自然に開けたはずの隙間はゼロになり、気付いた時にはみのりはもう、力強い腕の中に抱きしめられていた。
「ごめんみのり、1人にしてごめん。試したりなんかしてごめん、信じきれなくてごめん」
ホットレモンの缶が、手の中をすり抜けて滑り落ちた。
石畳に当たって凹んだ鈍い音に続き、ゴロ、ゴロと不規則に転がって止まった。
少しだけ、冷静に戻った。
取り乱しているのは自分だけではなかった。
苦しんでいるのは。
楽になることを、望んでいないのは。
「みのりが不安だった時、話聞いてやれなくてごめん。辛かった時、傍にいてやれなくてごめん。一緒に悩めなくてごめん、一緒に泣けなくてごめん、何も知らなくてごめん。子どもが出来たって分かった時――」
涙を我慢していたのは、自分だけではなかった。
「一緒に喜んでやれなくて、ごめん」
彼も冷静ではなかった。
抱きしめた腕には力加減もなく、苦しいくらいだった。
ごめんの雨が降ってくる。
数えきれないごめんの中に、みのりが一番恐れていた言葉はなかった。
『妊娠なんかさせてごめん』――もしもそう言われたら、発狂してしまいそうだった。
だがそれどころか彼は。
「もしも一緒にいられたら……、赤ちゃん、喜んで、くれた?」
「当たり前だ!」
身じろぎも出来ないほどのきつい抱擁の中で、みのりは辛うじて顔を上げた。
見たこともない情けない顔をした亮の鼻は赤くなっていて、今にも泣いてしまいそうだった。
学生が妊娠する、本当の事態の重さを彼は分かっていない。
甘く見てただ幸せを感じて、1人でもなんとかなると考えていた頃の自分と同じだった。
それでもみのりは、亮の言葉、その気持ちが嬉しかった。
「みのり……やり直そう」
吐き出して少しは落ち着いたのか、亮の声は静かだった。
言葉は『やり直したい』という希望でも『やり直さないか』という問いかけでもない。
亮が決め、みのりが従う。
2人が築いてきた関係に相応しい言葉だ。
にも拘らず、彼は酷く脅えた顔をしていた。
みのりの震えがもう止まっていることを確認すると、亮はきつく締めつけていた腕を緩めた。
みのりにその気が無ければ逃げて良いのだと、決定を、初めて委ねられたような気がした。
『大丈夫、ちゃんと連れてくから』――いつだってそうやって自信満々だったはずの亮の目が、初めて不安で揺れている。
――初めて? 違う……。
見たことがあった。
いつだ、と考えを巡らせると、すぐに思い当たった。
『今日でもう終わりにしよう』
あの日新幹線のホームで別れの言葉を紡いだ時にも、彼は今と同じ目をしていた。
何故あの時に気付けなかったのか。
先に相手の気持ちを信じられなくなったのはみのりの方だったのに、亮だけが、こんなにも自分を責めている。
胸の苦しさに加えて、キリキリと胃が痛みだした。
「責任取るなんて言うつもりじゃない……俺がそうしたいんだ。俺の知らないところでお前が苦しむのはもう嫌だ」
何も言わないみのりを、不安に揺らぐ彼の瞳がじっと捉えていた。
恐る恐る壊れ物にでも触れるように、亮の右手が上がって彼女の髪を撫でた。
みのりが抵抗しないでいると、きゅっと眉根が寄る。
静かに滑り下りてくる手が耳を掠めた。
みのりの耳がひどく冷えているのに気付いたのだろう、今度はその耳を手のひらで優しく包み込んでくる。
じわりと広がる熱が心地良かった。
寒さではなく彼が震えているのが、鼓膜を通して直に伝わってきていた。
「ごめん、言い直す」
と、亮が姿勢を正した。
さっきまでは揺らいでいた瞳が、真っ直ぐにみのりを見つめる。
みのりは何も言わなかった――言えなかった。
「簡単にやり直せるなんて思ってるわけじゃない。けど、みのりのことが好きなんだ、今でも。どうしようもなく。もう一度……」
抱え込むようにみのりの後ろにまわしていた腕を解き、亮は縮こまっていたみのりの両手を取った。
固く握りしめ、祈るように頭を垂れる。
「もう一度俺と、付き合って欲しい」
――もう、十分だ……。
一番聞きたかった言葉が聞けた、それだけで十分だ。
この人をもう、解放してあげなくてはならない。
あの喪失の痛みを、彼は知らない。
これから一緒に共有していくことは出来るのかもしれない。
けれどそれは、ただ彼を縛り付けるだけの行為だ。
何年、何十年経っても、あの傷みが消えることはないのだから。
みのりは玲奈の家で見てきた隆司とジェシカの過去を思った。
隆司は知らなかった、だから玲奈の母と出会えた。
遺影は穏やかに笑っていた。
あの人の半生は確かに幸せだった。
今を乗り越えさえすれば、亮もきっとそうなれる。
余計な傷みを背負うことなく、いずれ自分以外の誰かと新しい恋をする。
では、何も言わずに隆司の子を産んだジェシカはどうだったのか。
彼女は、彼女の子は幸せだったろうか。
亮の子どもを身籠った時、みのりは父親がいなくても幸せになれると信じていた。
ジェシカも同じだったはずだ。
彼女の日記に綴られた自分とよく似た思いには激しく共鳴した。
けれどでは何故、彼女は20年以上も経ってから手紙を寄越したのか――。
自由にならなくてはいけない。
この人も、そしてもしかしたら、自分もなのかもしれない。
今元の鞘に戻ったところで、あの出来事はこの先何十年も自分たちを縛り付ける。
「勘違い、してるんだよ亮」
「――……みのり?」
身籠りはしたが、産まれなかった。
彼はそれしか知らない。
だから、そのままでいい。
みのりにとってはそれは、辛い選択だった。
正しいのかどうかも分からない。
けれどそれが、これからの亮の人生を考えた時の最善の方法だと思った。
余計な痛みなど背負う必要はない。
自分を責めることも、後悔することもない。
別れて良かったと、子どもが産まれていなくて良かったと、そう思えばいい。
「赤ちゃん、流れたんじゃないよ、堕ろしたの。当たり前でしょう? 私たち、もう別れてたんだから。ごめんね、亮が赤ちゃん欲しかったなんて知らなかった。でも私まだ学生だったし。産めるわけないじゃん。もしあの時別れずに付き合ってたとしても、一緒だよ」
亮の顔から血の気が引いていくのを、みのりは薄ら笑いを貼り付けたまま見つめていた。
上手く笑えてはいないのだろう。
それくらいは自分でも分かったが、ではこんな時、人はどういう表情をするものなのか。
「亮は優しすぎるな。同情か責任か、義務感だかなんだか知らないけど、気にしすぎ。だって亮には何にも悪いとこなかったよ? 押し付けがましく今さらやり直そうとか言われても、困っちゃうな」
求めて止まない人から差し延べられた手をつき返すには、紡がれた愛の言葉を覆させるには、今すぐに嫌われて愛想尽かされるには何を言えば良いのだろう。
頭の中ががんがん鳴っていた。
『しっかりしなさい』と、また、声が聞こえる。
――ああ、そうか。
「ねえ、私が殺したの。あなたの子ども、私のせいで死んだのよ」
――それが私の罪だ。許されていいはずがない。亮が、許すはずがない……。
「一緒に喜べなくて悪かったって? 笑わせないで。私が喜んだとでも思ってるの? 困ったわよ、バレないようにどう処理しようって。結局母親にはバレちゃうし、大学でも変な噂たっていられなくなって、最悪だった」
堰を切ったように嫌な言葉が出てきた。
最低な女だと自分でも思った。
こんな最低な女に、彼はもう二度と付き合って欲しいなどと言わないだろう。
「やり直したい? 馬鹿じゃない? どこまでもおめでたい人ね。私がどれだけ亮のこと恨んだか、はっきり言わないと分からないの? あんたのせいで、私の人生めちゃくちゃよ」
言いながら、段々可笑しくなってきた。
今自分が作り笑いではなく本当に笑っているのだと気が付いて薄気味が悪かった。
何かが壊れた。
それが自分の罪に対する罰だというのなら、甘んじて受け入れよう。
下唇を噛むと、渇いたそれは歯の裏に張り付いたようだった。
どこまでも恰好が付かない。
でもそれで良い、醜い思い出ほどすぐに捨て去りたくなるだろうから。
「適当にお友達ごっこして、綺麗な思い出のままにしてあげようと思ったのに……残念ね。亮がおかしなこと言うからよ」
打ちのめされたように黙り込んだ亮を、このまま置き去りにすればいい。
彼はしばらくは苦しむだろうが、やがてそれは過去になる。
彼には来るべき新しい未来がある。
何も言わずに立ち上がったみのりの手には、まだ亮の手が絡みついていた。
だが振り払うまでもなく、するりと抜けたそれは力なく下に落ちた。
これで終わりだ、本当に。
――さよなら。
楽になりたいと、願ったわけではない。
あの喪失を過去に変えるつもりなどみのりにはなかった。
ずっと覚えていなくてはならない。
一生背負っていかなくては。
――でもそこに、亮を巻き込むわけにはいかない……。
『落ち着きなさい』
『しっかりしなさい』
『母親が取り乱したらお腹の子も不安になるんだからね』
母の言葉が、纏わりついて離れない。
1人で何とか出来ると思っていた頃の自分はなんと浅はかで、どれだけ思いあがっていたのだろう。
隠し通せるわけがなかった。
もっと早くに相談するべきだった。
後ろめたいことがあるから堂々と胸を張ることも出来ず、こそこそとただ時が来るのを待っていた自分は卑劣な臆病者だ。
母親に妊娠を気付かれただけで動揺して、そしてそのせいで。
『大袈裟に騒ぎ立てない方がいい。あなたが取り乱せば、お腹の赤ちゃんにそのまま影響を与えますよ。苦しい苦しいって、今頃泣いてますよ』
――お母さんは、味方してくれたのに。勝手に赤ちゃん殺されるって勘違いして、怯えて。
母親も医者も、母体の精神状態が不安定だと胎児に悪影響が出ると言った。
それはみのりを落ち着かせるための発言に他ならない。
けれどそれまでが順調だったが故に、みのりは流産の原因を出血した瞬間と結びつけて考えずにはいられなかった。
『みのり……あんたまさか、妊娠してるの?』
母親が聞いてきた言葉に、目の前が真っ暗になったあの瞬間。
――隠してなどいなければ。初めから母を頼っていたら。
自分を責めずにはいられなかった。
――私のせいで、私が馬鹿だったから、赤ちゃんは。
傷みを忘れる努力など、出来るわけがなかった。
みのりはずっとこのまま、1人であの傷みを、犯した罪を、背負っていくしかない。
2人が陣取っていた噴水正面のベンチ裏に、隠れるようにひっそりと黒いポールが立っている。
零れ落ちそうな涙を堪えて上を見上げた時、みのりはその先端に時計が付いていることに気が付いた。
時間を忘れてライトアップされた噴水に見惚れていた去年は存在にすら気付かなかったが、その時計はずっとそこでひっそりと時を刻んできたに違いなかった。
時間は流れている、みのりが立ち止まっている間にもずっと。
――進まなければ、前に。目を背けて逃げ隠れしてるだけじゃ、背負ったことにはならない……。
亮にはっきりと決別を告げた。
それはみのりにとって再出発の一歩だ。
赤ん坊は自分のせいで死んでしまったけれど、自分は生きている。
生きているのだから、いつまでも引きこもってなどいないできちんとしなくては。
それが遺された者の果たすべき責任であり、罪を犯した者の――受けるべき罰だ。
この先ずっと1人で重荷を抱えたまま、周囲に溶け込み同化して生きていくことが。
時計の分針がひとつ動く。
20時57分を指していた。
玲奈の家を出てから3時間近く、亮と2人でいただろうか。
懐かしい店で一緒に食事をした。
あの頃と同じように並んで歩き、手も繋いだ。
最後にもう一度好きだと言って貰えた。
抱きしめても貰えた。
十分だ、これ以上何を望むと言うのか。
亮の子どもを守るどころか死なせてしまった自分に、再び彼に愛される資格などない。
20時58分。
針が動く瞬間をじっと見ていたからか、それともそれだけその場所が無音だったからか、時を刻む音がやけにはっきりと耳に届いた。
一歩足を引いた瞬間、足に何かが当たって音を立てた。
足元に転がっているのは、亮が最後にくれた優しさだった。
みのりはゆっくりとしゃがんで、角のひしゃげたその缶を拾い上げた。
まだ温もりが残っている、ほんの少しだけ。
――お守り代わりに。これくらい、許されるよね?
ぐずぐずしてしまった。
だが今漸く、立ち去る覚悟が出来た。
背を向ける。
自宅はどっちの方向だろう、と一瞬だけ迷ったが、すぐに来た時とは反対の出口へ向かうことに決めた。
亮は来た道を帰るのだろう。
ならば自分は、それとは逆の道を。
20時59分に変わる瞬間の音を、みのりは聞かなかった。
正確に言えば、その小さな音はかき消された。
「――なんでそんなに、嘘が下手なの」
亮の辛そうに絞り出された小さな声と、掴まれた手首に驚いて呑んだ自分の息に。
「もっと上手くやれよ。笑うんなら幸せそうに笑えよ。そんなんじゃ騙されてやれねえよ」
血液が逆流したみたいに激しく鳴り出した鼓動に。
「なんで嘘吐くんだよ。俺もうそんなに信用ない?」
「嘘なんか……」
吐いてない、と、最後まで否定の言葉が出ない。
喉元につかえたその言葉を外に出した瞬間に、堪えているものも一緒に出てきそうだった。
「なあ、俺のためとか思ってるんなら、お前全然分かってねえよ」
言葉が出ない代わりに、みのりは懸命に首を横に振った。
これ以上聞いたら決意が鈍る。
振り払ってでも立ち去らなければともがいた。
「なんでそんなに自分ばっかり責めてんの。俺のせいにしろよ。抱え込むなよ、半分こっちに寄越せよ」
亮の言葉が、閉ざした心を強く叩く。
ガンガンと響いて、軋んだ。
みのり、と何度呼びかけられても振り返ることも出来ないのに、立ち去るために一歩を踏み出すことも出来なくなっていた。
「みのり――、1人で決めないで。2人で考えよう」
2人で考える。
その言葉が、ひときわ大きくみのりの心を揺さぶった。
付き合っている間中ずっと亮に全てを委ねてきておいて、妊娠した時も決別を告げる時も、勝手に1人で大事なことを決めようとしている。
それが間違いなのか。
『俺たち、大事なこと何にも話し合って来なかったんだな』
レストランで彼が言った通りだ。
だからすれ違って、何度も間違えた。
また同じことを繰り返そうとしているんだろうか。
――でもそれじゃ、亮は幸せになれない。
亮が一方的に別れを告げてきたのも元を正せば彼を信じ切れなかった自分のせいだ。
流産に留まらず、そもそも妊娠したことだって原因は自分にあった。
責めろと、半分寄越せと言われても、原因を作ってきたのはいつだって自分の方だった。
重荷なのだ、自分が彼の傍にいること自体が。
元々釣り合ってなどいなかった。
亮が何を言おうと、やはりもうその優しさに甘えるわけにはいかない。
自分が悪いのだから。
自分が元凶なのだから。
一緒にいれば、彼を不幸にする。
手首が痛いほど強く掴まれていた。
それを全力で振り払うために、みのりは掴まれている方の手を振り上げた。
21時00分。
突然視界一面に青が射し、風が吹いたような音を背中に聞いた。
反射的に思わず振り返って、その光景を見た瞬間に全てが飛んだ。
水が踊って、その表面を撫でるように光が包んでいる。
揺らぎの青はやがて無垢に――そして。
「亮……助けて」
希望の光が射した瞬間、涙と一緒に我慢していた言葉が零れた。
――この暗闇から連れ出して。
ずっと言えなかった。
彼をそこへ引きずり降ろしたくなかったから、道連れにはしたくなかったから。
けれど今、光が射した。
そのまま泣き崩れたみのりを、亮の両腕がしっかりと支えた。
「助ける。守る。今度こそ必ず」
約束するように力強く、亮が言った。
それから彼は耳元で囁いた。
「俺がお前を守るから……お前が俺を幸せにして」
みのりにとってそれは、亮の望む幸せが自分と共にあるのだと、初めて信じることが出来た瞬間だった。




