表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/31

結局、隆司は妻には真実を告げずにジェシカとの再会を果たしたようだ。


ジェシカへの手紙の返信には明らかに隆司が彼女の娘を自分の子だと認識している感情は現れていたが、彼は一言もそれを確認する言葉を綴っていない。


ただ今現在自分には妻がいること、夫婦の間でどういう流れでジェシカのことが話題に上り彼がオーストラリア訪問を決めたのかという経緯が報告されているだけだ。



『話に聞いていた真夏のクリスマスとやらを一度味わってみたい。今年そちらを訪れてみたいのだが、迎えてくれるだろうか』


そんなような文面だった。



にも関わらず、順を追って2人の歴史を追いかけて来たみのりには、手紙に綴られた内容だけで隆司の葛藤や妻との食卓の光景が見えるようだった。



どのように2人が顔を合わせ、元恋人として、また親として、どんな会話を交わしたのかはそこに残された手紙には書かれていない。


隆司がジェシカの娘との対面を果たした時に何をどう感じたのかも、何も残されていなかった。

最初のジェシカからの手紙同様、2人共その子が『隆司の』子どもだとはどこにも記していない。


会った時に口頭で確認したかその内容が書かれた手紙がここにないだけか、もしくは隆司は確認などせずともその子をひと目見ただけで確信したのか。

或いはもしかしたら、ぎりぎりのところでグレーにしておくことこそが、20年の空白を経た後の2人の再会に必要なことだったのか。



その後の手紙により、隆司は帰国後に、妻へジェシカとの過去を話しているらしいことが分かった。


子のことを隆司が妻に対してどのように話したのかはジェシカへの手紙には書かれていないが、子どものことだけを隠し通したとは思えない。



どうやら隆司の妻――玲奈の母親は、葛藤の末にその事実を乗り越えたのだろう。

彼のもうひとつの家族のためにもと考えたのか、積極的にオーストラリアへの渡航を勧めるようになったようだ。


隆司が学校で交換留学制度の導入に動き始めたのも、彼女の強い勧めがあったからだという事実に3人は息を呑んだ。



「凄いね……玲奈のお母さん」


「なんていうか、強い人だな」



――強さか……慈愛か。ううん、両方か。



手紙は頻繁にやり取りしたわけではないのかそれともここにないだけなのか、その後の経緯の詳細は追えなかった。


ただその再会から1年経たぬ内に、ジェシカの方から娘が結婚後すぐに長女に恵まれたことの報告があり、隆司からはそれについての祝いと、こちらも念願叶って妻が身ごもったという報告が返されている。



玲奈の父親が海岸から搬送された時一緒にいたという、ひとつ年下の少女の正体がその子なのだろう。


玲奈は初め『妹なのでは』と予想していたが、それとは少々――かなり違う。

隆司にとっては孫になるその子が、玲奈からしたら何にあたるのかはよく分からなかった。



最後に一通残った封筒が、これまで以上に禍々しいものに見えた。



交換日記もジェシカの日記もその後のエアメールも最初に開く時には覚悟を要したが、玲奈の母親に最初に忠告されたような『受け止めきれない』ような事態は今のところ起こっていない。


少なくともみのりにとってはそうだし、ひとつ蓋を開ける度に玲奈の様子を気にはしていたが、彼女もショックを受けた様子はあれど、取り乱したり打ちひしがれるようなことなくここまで冷静に事態を受け止めている。



つまり最後に残されたこれが、一番の爆弾なのではなかろうか。

玲奈が産まれる前から隆司のもうひとつの家庭の存在を知っていたらしい玲奈の母親が、『気持ちの整理がつかない』と寝込むほどの何かが。



表書きはない。

投函されたのではなく、直接手渡されたものらしい。



「玲奈……開ける?」


「はは……どうしよっか」


初めて彼女が見せた躊躇いに、みのりは胸が痛くなった。



「ねえ、明日また来ようか? 今日はもうほら、そろそろ夕飯の時間だし。ちょっとゆっくり休んで……お母さんとも、少し話したら?」



みのりの提案に、玲奈は迷いを見せた。

既に心も脳も疲れ切っているのだろうが、後回しにすることも躊躇われるのだろう。

表書きのない最後の封筒へ、何度か手を伸ばしかけては引っ込めている。



「亮はバイト休んで戻って来てくれてるんでしょ? いつまでこっちにいるの?」


と、玲奈は結論を出す前に亮の予定を尋ねた。



大学は今冬期休暇に入っているらしく、この機にしばらく地元にいるつもりだとはこの家に来る前に聞いていた。

だがみのりは、彼が向こうでアルバイトをしていることすら知らなかった。



「元々帰省はする予定だったから、年末年始はバイト入れてないし。なんなら講義が始まるぎりぎりまでこっちで過ごすつもりだけど」


玲奈の質問に答えた後、「こっちの友達ともしばらく会えなかったしな」と独り言のように呟くのが聞こえた。



――その中に、私は入ってる……?



彼は何のアルバイトをしているのだろう。

講義がはじまるぎりぎりとは、具体的にいつを指すのだろう。

亮と玲奈は分かりあっているらしい会話が、みのりには分からない。


場違いに思考が自分と亮とのことに囚われ、唇を噛んだ。



――しっかりしろ。今は、玲奈のことだ。



みのりが考え耽っている間に、彼女は決めたようだった。


「もしもう一回呼んだら、2人共、また来てくれる?」


と聞いてくる。

やはり今日最後の手紙に手を伸ばすには、心が疲れすぎているのだろう。



「こっちにいる間なら、俺は」


「もちろん、私も来るよ」


答えた2人に、玲奈は力なく微笑んでありがとうと言った。



階下に降りていくと、キッチンに繋がるドアが開けられたからだろう、ふわりと漂ったのは鰹の出汁の香りだった。

先ほど隆司の手紙を読みながら脳裏に浮かんだ食卓のイメージが、また少し現実味を増して色付いた。



夕食の支度をしていたらしい玲奈の母親が心配そうな顔を覗かせている。

声をかけたいが、何と言うべきか迷っている様子だった。



「……もう、お帰り? 夕食、一緒にどうかと思ったのだけど」


と、結局彼女は、一番言いたいこと、聞きたいことを避けることにしたようだ。

食事の誘いを、みのりと亮は丁寧に断った。

既に準備してくれているのならそれもどうかと思ったが、どうやら何人分作るべきかで迷っていたところらしかった。



「あの……」


遠慮しながらも、去った後の母娘が心配になってみのりはおずおずと口を開く。


「実は全部は読み切れなくて。私たち日を改めますから、今日はお2人でゆっくり話してください」



――余計なこと、言ったかな。



親子の問題に、ただでさえ首を突っ込みすぎな気がしている。

その上口も出すなんてとも思った。


が、気まずそうに立ち尽くしている2人の様子を見ていると、このまま互いに気を遣いあい遠慮しあってちゃんと話を出来ないのではないかと不安になるのだ。



「全部は……そう……。ありがとう、そうするわ」


まだ全部は読んでいないと聞いて母親は安堵したような落胆したような複雑な表情を浮かべたが、最後には感謝の意を笑顔で見せてくれた。


彼女の表情に、やはり最後の一通が一番の爆弾なのか、という予想が強まった。

大丈夫か、と玲奈の方へ視線を向けると、彼女も「ありがとうね」と微笑む。


良く似た母娘だった。



外に出れば既に陽も落ちて辺りは真っ暗になっており、途端に冷たい風が頬を冷やした。



「寒……長居になっちゃったな」


と、亮が首をすぼめている。


「玲奈、大丈夫かな……」


出てきたばかりの家を振り返りながら、みのりは呟いた。



来た時とは受ける印象が違う。

禍々しく淀んだ空気を纏っているように見えていたが、今は酷く不安定で弱々しいものに見えた。

それが単に昼間と夜との違いなのか、中に踏み入れて内情を覗いた後だからなのかは分からない。



「どうだろうな。でも玲奈ならきっと乗り越えるだろ。あの母親も気は弱そうだったけど、芯は強そうだし。上手く支え合っていくんじゃねえの?」


ぶっきら棒で少し突き放したような言い方だった。

けれどみのりには、彼が他人事として感心を失っているわけではないことが分かる。

気がかりで仕方がないといった様子で、亮も何度も玲奈の家を振り返っていた。



「ネットで書かれていたのとは、全然違ったね……」


高校教師が現役女子高生と――酷い言いがかりだった。


父に自分以外にも娘が――それどころか孫まで――いて、自分の知らぬところで彼らが定期的に会っていたというのは、玲奈にとってはショッキングな事実に違いないだろうが。

死して尚赤の他人に叩かれなければならないような汚らわしい事実など、どこにもなかった。


それどころか真実が美しく純粋なものにすら感じられるのは、やはり高校時代から追いかけている内に彼らに感情移入しすぎたせいだろうか。



「なんかさ、母親ってすげぇな」


不意に呟いた亮の真意を、みのりは量り兼ねた。

今の言葉の『母親』が指しているのは、玲奈の母親のことだろうか。

それともジェシカのことだろうか。



「お前だったら、どうする?」


続いた質問も、どうとも取れる。



――それは、私がもし玲奈の立場だったら、という意味? それとも……。



ジェシカの立場だったら、という意味だろうか。

どちらにしても、難しい質問だった。



父の突然死だけでも大変なところに畳み掛けるようにネットの中傷記事、さらに衝撃的な事実を突き付けられた玲奈の気持ちを、親友として案じ、推し量ることは出来ても完全に理解は出来ないだろう。


どれだけ相手の身になって考えたところで、実際にその立場になってみなければ分からない複雑な感情というものはある。



ジェシカの立場だったら――その答えなら、みのりの中にはあった。

だがそれを亮に対して打ち明けるのは、ひどく勇気のいることだった。



質問に答え兼ねたみのりは、上手く回答を避けるために別の質問で返した。


「母親が凄いって、突然どうしたの?」


問いかけに対する返事を誤魔化されたとは気付いていないのか、亮は気にする風でもなく答える。



「だって男が親になるのは腹の外に出てきた後だろう。でも女は、宿した瞬間から母親なんだなって……1年くらいいるんだろ、腹ん中に。母親……つーか、女だよ、すげえのは」


敵わないな、と、亮は少し笑った。



「なあ、みのり」


「ん――?」



2人、肩を並べてこうして歩いていると、まるであの頃に戻ったようだ。


彼の心が本当はずっと玲奈に向いているのでは、という漠然とした不安を抱えながらも、付き合っている間、2人の仲がそうおかしな方向にすれ違っていたようには感じていなかった。

うまくいっているつもりだった。


だからあの日、突然切り出された別れはみのりにとってわけが分からず、簡単には受け入れがたいものだった。



「この後、もうちょっと時間あるか?」



――そんなこと言われたら、期待してしまう。



さっきまでは玲奈がいた。

あくまでも場の主役は彼女で、自分も亮も彼女のためにあの家へ行き、彼女のための時間をあそこで過ごしてきた。



玲奈は、かつて亮が――否、今現在でももしかしたら想っているかもしれない相手であり、みのりにとってはそのことで嫉妬も抱いてきた相手である。

だが今日は、2人は対等に、玲奈の一友人として彼女を訪ねたのだ。


少なくともみのりはそのつもりで、だからこそ玲奈を介している間は、亮との過去やそれにまつわる嫉妬心は忘れることが出来た。

多少動揺して取り乱しかけた時もあったが、比較的冷静でいられたつもりだ。



それが今は2人きりだ。

玲奈のことを心配したり気にかける必要はない。

自分の感情だけに素直になって良いのだ。


状況が、みのりの抑え込んでいた感情を否が応にも揺さぶった。



「な……くは、ないけど。亮こそ久しぶりにこっちに帰ってきてるんだから、お家の人、待ってるんじゃない?」


返した言葉は、ひどく曖昧なものだった。



本音を言えば、もう少し2人でいたい。

けれど、これ以上一緒にいたところでその先に何があるのだろうか。

自分と彼とは既に終わっている。

玲奈のことがなければ、こうして再会することだってなかっただろう。


共にいる時間が長くなればなるだけ、欲が出る。

期待をする。

けれど未だにあの頃の気持ちを引きずっているのは、自分だけなのだ。

後になって惨めな思いをするのは、傷を抉り返すことになるだけなのは分かりきっている。


『一緒に玲奈の家に行く』という再会の目的を果たした今、それならばこのまま、余計な時間など過ごさずに別れるほうが賢明だ。



そう頭では分かっていても、みのりは自分の口からはっきりと「もう帰ろう」とは言い出せなかった。

既に彼女は、この後の都合を尋ねて来た亮に、抱いてはいけない期待を抱いてしまっていた。


あの頃に戻れるならと、この数ヶ月、どれだけ考えてきただろう。

もしかしたら、彼はこの後、「やり直そう」と言ってくれるつもりなのではないか。



――まさか。久しぶりに会った友達と、ちょっと昔話でも懐かしみたいだけよ。



希望の光など、妄想に過ぎない。

家に引きこもるようになってから、何度そんな夢を見ただろう。

現実になったことなど、一度もなかった。



――もしくは玲奈のことで、お互いの見解でも交換したいとか。



結局、彼が気にかけているのは玲奈だ。

そう考えるのは辛かったが、その方が納得出来てしまう自分が悲しかった。



「俺はヘーキ、全然」


と亮は笑って、そのままみのりの手を引いた。


どくんと心臓が脈打った。

本当にあの頃に戻ったようだ。

暗に断ったとも捉えられるみのりの気持ちを確かめることもなく、ぐいぐいと引っ張っていく。


そういう少し強引なところが亮にはあった。

そしてそんなところも、みのりは好きだった。



――手なんか繋がないでよ。


そう、口にすることは出来なかった。



錯覚してしまう、時が戻ったのだと。

あの別れの言葉も、離れて過ごした数ヶ月も、全部悪い夢だったのだと。



「飯は? 家で?」


みのりの手を引いたままそう聞いて来たのは、亮自身もどこを目指すつもりなのか決めあぐねているからかもしれない。



「何も……言ってきてないから……」


だから多分、家で食事の用意はされているだろう。



けれど母親は、久しぶりにみのりが外出の支度をしているのを見て喜んでいたようだった。


連絡さえ入れれば、少し帰りが遅くなっても両親にとって喜ばしいことなのかもしれない。

それとも久しぶりの外出だからこそ、心配するだろうか。

みのりには判断が付かなかった。



ずっと引きこもっていることに、もう両親は何も言ってこなくなっていた。

初めの頃はこのままではいけないと思っていたみのり自身も、いつのまにかその生活が当たり前になっていた。


そんな生活をしてきたことを、両親に対して申し訳ないと感じたのは実に久しぶりのことだった。



「そっか。その方がゆっくり話せるかと思ったんだけど、飯は無理なら仕方ないな」


亮はそう言って、自分の中で行先を決定したようだ。

温かい飲み物でも飲みながら座って話せる、どこかカフェにでも向かうつもりだろう。



「待って」


と、みのりはさっきから自分の手を引っ張っている亮の手を、反対に引き返した。


「家に聞いてみるから……ちょっと、待って」


「ほんとに!?」


まだ、食事に行けると答えたわけではない。

それなのに亮があまりにも嬉しそうで、みのりは逆に怖くなった。



――今さらだよ。なんでそんな風に、誘ってきたりするの?



これから本当に2人で食事することになったとして、一体何を話すつもりなのだろう。

それとも彼は、自分たちがとっくに別れていることも忘れてしまっているんじゃないだろうか。

或いは付き合っていた事実さえ忘れて、本当にただの友達として、再会の時を楽しみたいだけなのか。



みのりは彼から少し離れて、母親に電話をかけた。

ワンコールも鳴り切らない内に母が出て、もしかしたら相当な心配をかけているのかもしれないとまた申し訳なくなった。



玲奈の父親が亡くなったことと、今日の外出目的が彼女の家に行くためであることは伝えてある。

だが亮と一緒だとは言ってこなかった。


高校の頃みのりに廣岡亮という恋人がいたことと、春に別れたということは両親にも知られている。

その彼と今一緒にいるのだと分かったら、どう思われ、何を言われるだろう。



『みのり? 玲奈ちゃん大丈夫だった?』


「うん……落ち着いた頃に、また行くことになるかも」


『うん、そうしてあげなさい。もう帰ってくるの?』


「あのねお母さん。ごはん……食べて帰っても、いいかな」


『え? いいけど……。あんた、大丈夫?』



母が聞いてきた【大丈夫?】が指しているは、久しぶりに外に出たことについての心配だろうか。

そのことならば、みのりは自分でも思いの外【大丈夫】だった。



外を歩いている間、亮がずっと一緒にいたからかもしれない。


否、待ち合わせ場所に向かう前に、1人でドーナツを買いに行った時も大丈夫だった。

人ごみも他人の目も不必要には気にせず、ドーナツ屋の見知らぬ店員と口を聞くのも問題なかった。


みのりの意識が久しぶりの外の世界ではなく、その後に控えた亮との再会や、玲奈への心配に向いていたからなのかもしれないが。



「うん、全然大丈夫だったよ……ごめんね、心配かけて」


これからはきちんとした人間らしい生活を送るようにする、とは、現段階で約束することは出来なかった。

それでも母には十分だったようで、いいのよ、と嬉しそうな言葉が返ってくる。



『それで? 玲奈ちゃんのお宅でご馳走になってくるの? それならご挨拶したいから、電話代わって……』


「あ、違う! あの」


母が誤解をしたようなので、慌てて否定する。


だがこの後、何と説明すれば良いのだろう。

亮の名前を出すべきかどうか、みのりは少しだけ迷った。



『みのり?』


と、突然黙った彼女に、母が心配そうに呼びかけてくる。


「玲奈の家は、もう出てきたから。ごはんは、一緒に玲奈の家に行った友達と」


結局彼女は、亮の名を言うことが出来なかった。

友達、という表現は、決して嘘ではない。



母親との通話を終えたみのりは、亮の元へ小走りに近寄った。

じっとしていて寒かったのだろう、彼は両手をポケットに入れて背中を丸くしている。



「ごめん、待たせて」


「いや。行けそう?」


「うん、いいって」



話しながら、亮は既に歩き出していた。

ポケットから手が出てくることはなかった。

みのりは慌てて半歩後ろからそれを追いかけながら、やはりもうあの頃とは違うのだ、と冷静さを取り戻していた。



――馬鹿な期待はしない。あの時はもう、絶対に戻ってこないんだから。



もう、亮がどうしたいと思っているかという問題ではないのだ。

母に彼の名を告げることが出来なかった。

みのりにとって、それが全ての答えだった。

どれだけ望んでも、例え亮の気持ちが戻ってきたとしても、あの時には帰れない。


友人として一緒に食事に行く、ただそれだけだ。

努めて冷静にとみのりは自分に強く言い聞かせた。



この先を少し行けば、付き合っていた頃に良く利用したイタリアンのチェーン店がある。

学生の財布にも優しい価格設定でありながら味も悪くなく、何より長居しやすいので重宝していた。


前をやや急ぎ足で歩く亮が目指しているのはその店だろうと予想がついていた。



「いつもの店でいいだろ?」


「え――」


突然振り返った亮に聞かれ、言葉がすぐに出てこなかった。


わざわざ確認してくるとも思っていなかったので驚いたのもあるが、彼が使った『いつもの』という言葉が刺さったからだ。

亮は無意識にその言葉を選んだのだろうか。


「……違う店の方がいい?」


沈黙の意味を勘違いされたのか、探るように聞き直される。

みのりは慌てて首を横に振った。


「いつも行ってたとこでいいよ」


過去形で言い直したことに、彼が気が付いたかどうかは読めなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ