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四月のすき間  作者: くさき いつき
第1章 四月二日の黄昏
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 ふわふわと白い息が夕闇に溶けていく。

 頑なになっている母さんを説得するのは骨が折れる。みんな、どうやって親に説明しているんだろう。特に瑠美なんかは大変だと思う。男と一緒の旅行なんて。でも、今日の部活の様子を見ていると、みんな、難なく親の関門をクリアしているようだが。


「面倒だな」


 つい言葉が口からこぼれていた。昨日、今日と部屋にいると、扉越しに母さんの視線を感じて重かった。帰り道すがらあれこれ思案してみるが、早春の冷えた空気が頬に痛いだけで、何も解決策は出てこない。

 ふと前を見ると、公園があった。

 幼い頃の遊び場であり、通学途中でもあるので、今も毎日のように通り過ぎる場所だ。綿実の卒業式の帰りにも寄った。いつも変わり映えがない。見慣れている。

 だけど、息を呑んだ。綿実がいたから。ひとりで。

 ベンチに腰掛け、缶コーヒーを両手で抱えている。綿実の横顔は無表情で、誰かと待ち合わせしているようにも、1人で物思いに耽っているようにも見える。

 とっさに踵を返そうとした。しかし、すぐに頭を振って歩を進める。顔に影を落とす位置まで近づいた所で、綿実もようやく気付いた。


「よっ。何してんの、こんな所で」


 一瞬、じっと見つめられた。心の深層部まで射抜くような強い瞳だった。すぐに笑顔を見せたので、おれは何とか平静を保つ。


「別に何もしてないよ。思い出探索?」


「思い出探索って何だよ」


 一先ず待ち合わせしている様子はないことに安堵している自分がいる。気取られないように、綿実の隣に腰掛ける。


「そのまんまの意味だよ。部屋の整理とかしていたら、今住んでいる町をもっと見とこうと思ってね」


「後始末?」


「後始末って……まぁ、そうなのかな。分かんないけど」


 微笑しながらも曖昧に答えると、缶コーヒーを1口飲んでいた。綿実の口からあったかそうな息が洩れる。思わず身震いした。


「寒いの?」


「ちょっと」


「飲む?」


 突き出された缶コーヒー。綿実の唇が艶やかな輝きを帯びて見える。おれは首を横に小さく振った。


「いや、大丈夫。いいよ」


 1度頷くと、綿実は缶コーヒーにまた口をつけていた。夜がひっそりと近づく公園の中で、妙にしっくりとはまっていた。このまま闇の中に溶けていきそうで、怖い気もする。

 何を考えているのか読めない顔で、綿実は公園全体を見渡しているようだった。その瞳に映っているものは、今ではなく過去なのだろうか。それとも明日の光をもう見ているのだろうか。そんな横顔を見続けるのは忍びなくて、思わず自分も公園に目を向けていた。

 何か特別なことがあるわけじゃなかった。ブランコや砂場、鉄棒といった児童公園ならありそうな物ばかり。特にこの公園じゃなきゃいけないことは何もないだろう。思い出は確かにあるけど、その影は遠くなっている気がした。

 でも、鼻の奥がツンとした。

 夕暮れの、暗闇が迫る忙しない時間の中で、取り残されたようにベンチに座っているからだろうか。隣に綿実がいるからだろうか。手を繋げる距離なのに繋げない気持ちを思った。

 ふ、と横顔を覗き見ると、ちょうど綿実もこっちを見た。瞳がぶつかる。


「今日、お母さん、泣かせちゃった」


 視線が出会ったことに気まずい思いをしている内に、綿実がさらりと重いことを言った。泣かせた?


「それで公園に家出ってわけか」


 冗談めかして呟くと、綿実は小さく笑った。けれど、すぐに表情は消えた。軽薄な言葉を後悔する。綿実が立ち上がる様子がないことを見てとると、今度は慎重に言葉を選んだ。


「何があったんだ?」


 口にしてみると漠然とした言葉だった。でも綿実は溜め息をこぼさなかった。


「ちょっとこれからのことの話をしていたんだけどね。それが思っていたより、こたえたみたいなんだよねぇ」


「これからのことって、大学も引っ越しも随分前に決まっていたことだろ?」


 離婚した元夫の所に行く娘のことを、特に非難している様子はなかった。引っ越しの手伝いに行った時も微笑んでいた。


「うん、それとは違うの」


 綿実は首を横に振った。おれは首を傾げる。


「進路のことじゃなくて、何ていうか、これからの生活のこと」


「生活のこと?」


「結婚してもいいんだよ、って言ったの」


「結婚?」


 あまりに突飛な響きに、声が少し裏返ってしまった。綿実はくすりと笑みを落とした後で、説明してくれた。この春から自分は京都に引っ越してしまう。1人暮らしになるのだから、もう気兼ねなく今の彼氏と結婚してもいいんだよ、と感謝の気持ちを込めて言ったのだそうだ。しかし、おばさんは泣いた。

 私を本当にひとりぼっちにしたいの、と。

 おばさんが今付き合っている人は何と言ったか。たしかトモキさんだったか。思い出してはみたが、名前以上のことは知らなかった。もちろんおばさんとトモキさんの関係もよくは分からなかった。結婚を前提にしているのか、恋愛に終始しているのか。


「どう言えばよかったのかな」


 綿実の悩みに、どう返答したら良いのか見当がつかなかった。

 自分の家は至って平和だと思う。母さんはヒステリックな所はある。だけど夫婦仲が悪いわけじゃない。父さんの帰宅が早い時にはきちんと家族3人で夕食を囲むことができる。

 じゃあ、だからといって綿実は幸せじゃないと言えるのだろうか? 両親は確かに別れている。でも2人とも綿実を大切に想っていることは間違いないはずだった。それは断言できる。約18年、隣で見てきた自分だから分かる。

 それなのに今かける言葉が思いつかないなんて。ショックだった。


「気にするなよ」


 気付いたらありきたりな言葉が口をついて出ていた。それでも綿実がこちらを注視している空気を感じる。


「まず家に帰ること。で、話すこと。それで大丈夫だろ」


 何を偉そうに、と半ば自嘲する思いだった。綿実の、だよね、と小さく頷く声がとても遠かった。


――だよね。


 ふと既視感を覚える。いつのことだったろう。砂場に目をこらすと、10年前の夕焼けが見えた。綿実の幼い笑顔。


「なぁ、覚えているか?」


 尋ねたところで、もちろん綿実は首を傾げた。ちょっと苦笑する。あの時の綿実は一体どんな気持ちで頷いていたんだろう。そして今の綿実も。


「もう10年ぐらい前だっけ。おれが小学1年の頃。名前のことでいじめられたっつーか、からかわれたことあったじゃん?」


 眉根を寄せて真剣に記憶を辿った様子の綿実は、ああ、とやがて頷いていた。


「そんなこともあったねぇ。ナツ」

 わざとらしく「ナツ」と言う。にやっと笑う顔が少し憎らしい。


「ナツっていうな」


「いいじゃん。ていうかその名前のことがどうしたの?」


 1度、仕切り直す思いで咳払いをした。

 小学1年の頃。クラスにすでに漢字を読めるやつがいた。お受験に失敗して結局公立に通うことになった、そんなやつだった。そいつがおれの誕生日を知った時、せせら笑って言った。


――お前、4月生まれなのに何で夏なんだよ。だっせー!


 今思えば何がださいのか良く分からないのだけど、季節外れな名前は無邪気な子供心を刺激するものがあったらしい。わざと春衣と言ったり、夏男と言ったりして、からかわれることになった。それはやがて2年生になっていた綿実の耳にも届いた。


――ナツ、いじめられているの?


――いじめられてねーよ。


 綿実の悪意のない言葉が1番こたえた。


――だいじょうぶ?


 瞳は真剣に心配していた。幼心にも分かって、頷くより他なかった。だけど、気恥ずかしさが先に立って、そっぽを向く。


――つーか、うちの親のせいだよ。4月なのに夏とかありえないし!


 綿実は頷いた。少し困っている空気が横顔に伝わってきた。


――ごめん。私のお父さんとお母さんのせいだね。


――どうして?


――だって、私の名前から決めたって聞いたし。


 綿実は4月1日生まれ。ワタヌキ、とも呼ばれる日だ。服の綿を抜いて夏に向けて準備をする衣替えのことを指す。綿を抜く代わりに実り豊かな人生を詰めることができますように、と綿実と名づけられたそうだ。

 その名づけ方に影響を受けたおれの両親は、4月2日生まれのおれは夏に衣替えしたのだから夏衣かいと、単純に名づけた。旧暦の呼び習わしも習慣も、当時はもちろん理解できていなかった。けど、おれと綿実の名前に関連性があることは分かっていた。だからと言って、それは綿実に責任のあることじゃない。


――ワタちゃんのせいじゃないよ。父さんと母さんがダメなんだよ。こんな変な名前つけるから。


 溜めていたグチが、綿実を前にすると不思議なくらい素直にこぼれた。


――もう少し子供の身になってほしいよ。


 マセたことを言っていると、思い返せば鼻白む。綿実はどう思ったのか、困惑した顔をしている。


――だよね。


 と頷いて。実感のある響きだった。綿に実という名前も風変わりな名前ではある。もしかしたら綿実自身も苦労していたのだろうか。今更に思い当たってもどうしようもないことだ。

 だけど、おれ達は知っていた。おれ達の両親は昔から仕方のない人達だった。


「おれ達が名前で苦労するかもなんて微塵も考えなかったんだろうな。こっちの気も知らないで、自分たちがいいって思ったことを優先しちゃうんだよ。だから泣かれたくらいで凹むなよ。自由気質な人達なんだから、おれらが凹んでいる内に笑っているよ」


「なんか身も蓋もない言い方ね」


「でも本当のことだろ?」


 綿実は何も言わずに立ち上がる。そして1つ伸びをした。空はすでに藍色に染まり上がり、公園の外灯が影を大きくする。頭上には満月には少し足りない楕円形の月があった。


「なんかすっきりしたかも」


 納得したような声が上から落ちてきた。頷くと、おれも立ち上がっていた。まとわりつく空気が一段と冷えて、すっかり夜の匂いだった。


「さみー」


 思い出したように呟くと、綿実は笑って歩きだした。そのまま公園を出るのかと思ったら、自販機の前に行った。脇のゴミ箱に空になった缶コーヒーを捨てると、また1つ買っていた。


「はい、あったまりなよ」


 笑顔で差し出される。お礼だから、と1拍遅れて囁き声が聞こえた。サンキュ、と言って受け取ると思ったよりも熱かった。それは心地良い温かさでもあった。

 母さんときちんともう1度話そうと思った。母さんは仕方のない人で、確かに昔から母親だった。

 白い息を転がしながら、ゆったりとした歩調で綿実と一緒に帰途につく。隣に手が届く距離で、缶コーヒーを手に持って歩いた。


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