四月一日の微笑 4
一番古い記憶は何だろう。
思い浮かぶのは、お父さんの少し困ったような笑顔だった。隣にはナツがいた。まだ幼稚園にも上がる前の、本当に幼い頃のこと。細かいことは覚えていない。
――ケンカしちゃダメだよ。
柔らかい口調で、叱るというより言い聞かせるようにたしなめる感じだった。頭を撫でる手のひらも温かかった。
私とナツは何て答えただろう。どんな表情をしていただろう。そもそもどこで話していたのだろう。全て曖昧だった。
だけど、妄想ではなく確かな記憶だった。
重いと思ったまぶたは、案外簡単に開いた。
見慣れるというにはまだ早い白い天井。そこから視線を横に移していけば、穏やかな寝息を立てるナツの横顔。寝顔は少し幼く見えて懐かしい気分になる。
そっと触れた頬にはぬくもりがある。ほっと落ち着く。
しばらく撫でていると、まつ毛が震えた。そうして、ゆっくりとまぶたが開かれる。
「綿実?」
「おはよう」
「……おはよう」
まだ眠いのか、目をこする動きは緩慢で、大きな草食動物みたい。なんて思いながら、ぼんやりと眺めていたら不意にぎゅっと抱きしめられた。
「ナツ?」
「あったけぇ」
「寝ぼけてるの?」
「起きてる。現実を実感してる」
「何それ」
くすりと笑みがこぼれ落ちた。要領を得ない言葉のやり取り。だけど、言いたいことは分かる気がした。目覚めた時に隣に好きな人がいる現実は、まだ日常に染まりきっていないから。
ひとしきりぬくもりを確かめ合ってから、ようやく私たちは起きた。1日はゆっくりと柔らかく始まる。
「今日、おじさんが来るんだよな?」
キッチンの隣に備え付けられた小さなダイニングテーブルで向かい合って朝食をとっていると、ナツが神妙な顔をした。
「うん、午後になったら来るって言ってたけど」
「夕飯はどうするんだろう」
その辺は私も確認していなかった。冷蔵庫の中身を思い出してみたけど、1人増えても特に問題はなさそうだ。だけど、そんなに長居はしないんじゃないかなと思う。明日は月曜日。もう新年度が始まる。
「お鍋だったら、1人増えても減っても問題ないんじゃない?」
「そうだな。鍋も食べ納めになるかもなぁ」
4月になったからって途端に気温が上がるわけじゃないけど、確かにお鍋という気分にはならないかもしれない。食べ納めと言っても半年もすれば解禁になるだろうから、そんなに残念でもない。
夕飯の心配より、部屋の体裁を整えることを気に掛けた方がいい気はする。引っ越しの段ボールがまだ少し残っているのだ。
「とりあえず部屋の整理頑張らない?」
「分かった。明日からは時間ないだろうし」
頷き合えば、同じ目的に向かって動き出せる。遠慮するわけでも、譲り合うわけでもなく、ぴったりと合わせられるこの距離感は、私たちだからだと思う。自惚れではなく。息が合えば片付けも早く進むもので、ドアのチャイムが鳴る頃には段ボールの影はなくなっていた。
「お父さん、いらっしゃい」
笑顔で迎えれば、お父さんもにっこり笑ってくれた。
「ちょっと早く着きすぎたかな?」
「そんなことないですよ」
ナツも笑顔だ。
そして自然と3人とも視線が下がっていく。
「少し遅くなったけど、引っ越し祝いだよ」
そう、お父さんの手には外熨斗のついた大きな箱が抱えられていた。
「ありがとうございます。持ちます」
ナツが申し出ると、お父さんは礼を言って渡していた。そして、大きな箱がなくなった右手の指には白い箱が引っ掛かっていた。
「え、もう1つ?」
首を傾げる私に、お父さんは大きく頷いたけど言葉はなかった。不思議に思いながらも、いつまでも玄関で話すものでもないと思い、リビングに招くことにした。
「感慨深いものだね」
ナツの後について部屋に入ったお父さんは、しみじみとした口調でつぶやく。
「どうしたの?」
「いや、あんなに小さかったのに、気づけば大きな箱を軽々持てるようになったんだなと思うとね」
お父さんにとってナツは、それこそ生まれた時から知っている子で、もう息子みたいなものなのかもしれない。ナツも何だか照れ臭そうだ。
「ていうか家から手で持ってきたの?」
「ここまではタクシーで来たから大丈夫だよ」
ちょっと安心する。とりあえず筋肉痛になる危険度は下がったと思う。
「それで、その手に持ってるものは?」
お茶の準備をしながら尋ねる。箱の形状からして中身は分かるんだけど……。
「ケーキだよ」
その答えは予想した通りのものだ。
「引っ越し祝いに、わざわざケーキまで良かったんだよ?」
用意してくれたのは嬉しい。だけど、気を遣われすぎているようで寂しくも感じる。私の眉が下がったのがおかしいのか、お父さんは笑い声をあげる。
「おじさん?」
「これは引っ越しとは関係ないよ。明日と明後日は2人の誕生日だろ?」
私とナツは思わず顔を見合わせてしまった。確かにそうだ。明日から4月なのだから。引っ越し祝いのために来ると、その一点だけを考えすぎてしまっていた。
「少し早いけど、2人とも誕生日おめでとう」
お父さんはにこにこ笑顔のまま、そのケーキの箱をテーブルに置いた。
「ありがとうございます」
「……ありがとう」
面映ゆい。
それはお父さんも感じるところであるようで、少し言い訳めいた言葉をこぼす。
「明日誕生日だな、と思ったら買いたくなっちゃってね。誕生日ケーキなんて久しぶりだからちょっと緊張しちゃったよ」
ソファに腰掛け、ローテーブルに広げられた箱の中からは、イチゴの飾られたケーキが顔を出す。
わたみちゃん、かいくん、おたんじょうびおめでとう。
というチョコレートのプレートを添えて。何だか幼い頃に戻ったような気分になる。
「おじさん、ノリノリですね!」
ナツが楽し気な声を上げると、お父さんはますます明るく笑う。
「いやー、プレートはどうしますか、って聞かれちゃったら思わずね」
「2人の名前の入ったケーキは初めてだから嬉しいです」
小さい頃はそれぞれの家でケーキを用意されていたから、確かに2人の名前が並んでいるのは初めてだ。
「いつか2人の大きなケーキを見られる日を楽しみにしているよ」
2人の?
大きなケーキ?
一瞬、クエスチョンマークで溢れる。だけど、次の瞬間、ナツと目を合わせていた。そして瞬く間に耳まで赤くなった。
つまり、ウェディングケーキだ。
きらびやかで薔薇色の未来予想図は頭を沸騰させた。だけどその片隅で、バージンロードの傍らにいてくれるんだ、と思ってしまった。ずっとお父さんでいてくれるんだ。
その安心感が言葉となって転げ落ちる。
「その時にはお母さんともちゃんと話してよね」
お父さんの目が見開かれる。それはまばたき程のことで、柔和な笑顔になっていた。
「そうだね。善処するよ」
「もう、大丈夫ってそこは言ってよ」
非難する声は、だけど明るくって、とっても軽い。
「おれもその時までにお義父さんって呼べるように練習しておきます!」
「今日から呼んでもいいんだよ」
2人がずっと昔から親子だったように、そんな軽口を叩くから余計に温かで優しい気持ちになる。家族のかたちは変わったようでいて、ずっと変わっていなかった。
洗濯機があって、冷蔵庫があって、そして電子レンジが揃ったこの部屋はとても優しくて、微笑みがこぼれて広がった。




