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学年末試験の答案が一通り返ってきた。結果は、理系科目は比較的良かったものの、文系科目は可もなく不可もなく。1年後の進路のことを思うと、少し考えてしまうところではある。
綿実は、もう決めていたんだよな、1年前の今頃には。意志の強い瞳を思い出す。
自分が今すべきことは何だろうか。
教室の窓に目をやると、青空が広がっていた。高く澄んだ青色だった。気持ちよさそうに飛んでいる鳥が見えた。しかし、手を伸ばしても決して届かない距離。
だから、どうしろと言うんだ。溜め息をついてしまう。
「こら、夏衣、何溜め息ついてんだよ!」
声とともに、背中を力いっぱい叩かれた。バシッと威勢のいい音が振動した。
「な、何すんだよっ」
突然のことに対処できずに、ちょっとむせた声が出た。振り向くと案の定、俊雄がいた。にやけた笑いが、ちょっとウザイ。
「最近、ぼやっとしすぎだからだよ」
「んなことねーよ」
「いや、あるね」
即答で返された。あまりの断言ぶりに二の句が継げない。気をそらすようにまた窓の外を見ると、したり顔の声が聞こえた。
「ほらな、また空なんか見ているし。青春だねぇ」
「空見ただけで青春かよ。つかホームルームは」
まだ終わってねぇだろ、と言おうとして、やめた。終わっていた。俊雄が堂々と席を立ち、バカでかい声を出しているんだから、そりゃ終わっている。周りも思い思いに雑談している。
「ホームルームはとーっくに終わってるぞー」
癇に障る言い方だ。しかし反論のしようがない。ぼやっとしていたんだろう、確かに。担任の話を聞いていないくらいには。
「で、何?」
色々と言われるのが面倒なので、自分から話を振った。学年末が終わった今、授業も午前中で終わりだ。
「今日部活の後、ファミレス会議するから夏衣も来いよ」
「そんなこと改めて言いにきたのか?」
「だって、お前部活終わったら即行帰るじゃん? 部活前に捕まえとこうと思ってさ」
「そりゃ、どうも」
「で、オッケー?」
一瞬、ためらった。携帯電話が鳴るような気がした。でも、ズボンのポケットは静かなままだった。だから頷くことにした。
「いいよ。ていうか何会議するんだ?」
「まぁ、もう春だからな」
首を傾げたが、俊雄から明確な回答は出てこなかった。部活が終わるまでのお楽しみってことか? 春だからって、そんな大層な話があるとは思えないし、思い当たらない。
春だからと言って。
まぁ放課後になれば分かるんだし、深く考える必要はないだろう。鳥のいなくなった青空を見上げながら、嘆息しつつ思った。
しかし、分からなかった。
ファミレス会議の話を要約すると、本格的に受験生になる前に部活仲間で旅行しようということだった。春はあんまり関係なくないか?
しかも行き先は京都だと言う。去年行った修学旅行で充分じゃん、と思ったが、そんなことは口に出して言えない雰囲気が漂っている。
テーブルに次々と並んでいく色味の強い食べ物と、ジュース。一体いつの間にこんなに注文してんだ、と呆れるが、笑ってしまうのはそれでも平らげてしまう食欲だろう。
「で、夏衣はどうよ?」
不意に俊雄が声をかけてくる。口にミートソースがついているぞ。
「どうよって何が?」
「だから、旅行についてだよ。聞いてなかったのか?」
「聞いていたけど」
2泊3日。旅館は、俊夫の親戚のつてで安く泊まれる所がある。
メンバーはバスケ部の2年で仲の良い6人。マネージャーの坂口瑠美、つまり女子もいるのだが、当人は大して気にも留めていないようだ。まあ俊雄を始めおバカな奴らばかりだから……いいのか? 本人が笑っているんなら良しということにしておこう。
「けど、なんだよ?」訝しがる俊雄の顔。
「おれ、旅行に行く金なんかないよ」
学業と部活。バイトしている時間なんてない。卒業旅行でもないのに親が出してくれるとも思えない。格安で泊まれると言ってもタダじゃないし、交通費等と合わせるとそこそこの額だ。
俊雄はにやりと気味悪い笑みを浮かべた。
「ええ? 何とかなんない?」
「ならねぇよ」
「受験前の息抜きって言ったら何とかなるんじゃね?」
「無理だろ」
「まあ1度親に相談してみろよ。参加する気はあるんだろ?」
もちろん腑に落ちなかった。しかし、周囲はすっかり京都でどこに行くかの話題に入っている。誰もお金のことなど心配している素振りを見せない。そしてテーブルには更に皿が増えていく。
帰りたい。
頬杖をついて、気付かれないように小さく溜め息をついた。
みんなは笑顔だった。不意にこの笑顔とも1年たったら会えなくなるのだ、と思った。みんなそれぞれの道を歩き出す。今みたいに当たり前のようにファミレスに集まることなんてなくなる。笑い声が一瞬、遠くなる。
現実として、すとんと胸に落ちた。
だったら、この旅行を一先ず楽しむ方向で考えてもいいんじゃないか……?
結局、観光ルートは決まらなかった。当日までにまた詰めていくことになるだろう。
それにしても春に京都か。修学旅行で行った時は秋だったから、また違った雰囲気なのかもしれない。だけど、春に京都。憂鬱な影がちらりとゆらめく。学生服を着て語っているのが嘘っぽく感じてしまう。しかし袖口からは、教室の、チョークの粉と日向が混ざったような匂いがした。
旅行の話から脱線して、だらだらとしていると、携帯電話が震えた。ズボンのポケットから取り出すとメールの着信がある。
綿実だ。
ちらりと、会話に興じる俊雄たちを見やってから、メールを確認した。
『明日の放課後ってヒマ?』
最近、綿実からこの手のメールが多い。暇、と答えれば引っ越しの手伝いをまたすることになるのだろう。別に問題はないはずだ。授業は午前中で終わるし、部活も体力を根こそぎ奪われるほどハードにはならないだろう。だのに指先を動かすことができない。無機質な11文字がチカチカとディスプレイに表示されたまま。
「何、しけた面してんだよ?」
俊雄は案外、世話好きなんだろうか。目を伏せる時にはいつも声をかけられている気がしてきた。
「別に。メールが来ていただけ」
「佐野先輩から?」
何故そうなる。当たっているけど。俊雄の思考回路を少し覗いてみたい。適当にはぐらかそうとしたら、横槍が飛んできた。
「佐野先輩って?」
瑠美だ。好奇心と猜疑心を半々にしたような目をしている。
「この前卒業した3年の人だよ。知らない?」
俊雄は軽い調子で話を振る。何故お前が話すのか。瑠美は、少し思案するように首を傾げる。けれど、すぐにイタズラっぽい笑顔を見せた。
「うん、知らない。てか何で俊雄、知ってんの?」
「ああ、夏衣の知り合いだから。って俺も会ったことないけど」
「何それ。どういう知り合い?」
勝手に話が進んでいる。俊雄の覗きみるような視線に、小さく咳払いした。俊雄が話し続けると、おかしな方向になりそうだ。
「単なる幼馴染み。住んでいる団地が一緒なんだ」
「へぇ、何かすごいね。団地が一緒ってことは、小学校も同じとか?」
「うん、赤ん坊の頃から一緒」
何気なく言った1言だったけど、瑠美は大きく目を見開いた。分かりやすい表情だ。赤ん坊からの幼馴染みとなれば、やはり珍しいのだろうか。産まれた病院が一緒であることや、誕生日が1日しか違わないことなどをかい摘まんで話すと、瑠美はますます瞳を輝かせた。
「なんか面白いね。1日違いで先輩後輩になるのって」
明け透けに言うと思う。何も他意はないのだろう。だけど、きちんとした返事ができずに、ただ苦笑する。
「じゃあ好きだったりもしたの? 初恋とかさ」
瑠美は直球でもあるらしい。今更に思い知る。
「まさか、ないよ」
否定の言葉はいともたやすくこぼれた。
「女子ってすぐ色恋沙汰に結びつけんのな」
からかうような口調で俊雄が言う。すると手に持っていたスプーンを、瑠美は俊雄の鼻先につきつけた。
「それ勝手な妄想だから」
「妄想、ですか」
冷めた目をする瑠美は1つ頷くと、とろりと溶けかけたアイスののったパフェを食べ始めた。すぐに、おいしい、と無邪気な声を洩らしている。おれと俊雄は顔を見合わせて、結局何も言わなかった。
改めて携帯電話を見たおれは、暇だよ、と簡潔に返信していた。他に言葉も思い浮かばなかった。ましてや断るような言い訳など想像もできない。
綿実が何を想っているのか、もう理解できないのだとしても。
夕闇がとっぷりと深くなる頃、ファミレス会議は解散となっていた。京都に行くことは決まったものの、それ以上の進展はなく、いささか前途が思いやられる。だけど、旅費のこと同様に深く考えないことにした。なるようになるだろう。オレンジジュースを飲んでいる内に楽観的な考えが全身に回っていた。
「あ、旅行の日、31日から4月の2日までになるけどオッケー?」
別れる間際、俊雄が軽快な声で言った。周囲からも、りょーかい、という軽い言葉が飛び交っている。春の近づく、沁みるような夕焼け空には、いっそ爽快に響いていた。ようやく1つ、かちりとはまるものがあった。
だから、おれも、小さく、頷いた。