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四月のすき間  作者: くさき いつき
第3章 四月二日と四月一日の明日
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四月二日の自覚 4

 コーヒーカップから漂う香りは、どこかほろ苦い。でも、一口飲めば、落ち込みそうになる気分を律してくれている気もする。口内に広がる苦くも甘い味が、中学生や高校生だった頃の自分を思い起こさせたから。


「今までごめんなさい」


 だけど、そう言って頭を下げる母親の姿は、やっぱり物悲しくもあって、こんな姿は見たくなかったな、という思いもよぎる。向かいの席に座る母さんは一回り小さくなったように見えた。

 春の日差しを受ける喫茶店の端の席に、しばし沈黙が落ちる。どう返すべきか、と考えてみるも、おれが答えることではないと分かる。

 カチャリ、と不意にカップをソーサーに置く音が響いた。


「あの、頭を上げてください」


 隣に座る綿実は、落ち着いた声をしていた。母さんと視線をまっすぐに合わせる。


「謝罪は確かに受け取りました。だから、もう大丈夫です」


 綿実の母親を軽蔑し、綿実自身も侮辱した。言葉の暴力をたくさん浴びせた。それを一言で済ませてしまって良いのか。加害者の息子でもある自分が言えば薄っぺらくなりそうで噤む。結局のところ、母さんの暴走はおれのことが心配だったことが原因だ。おれがもっと強ければ、こんなふうにこじれなかったのかもしれない。


「綿実」


「ナツも謝らないでね? 悪くないんだから」


 思わず開いた唇は、綿実の言葉で閉じざるを得なくなる。


「私、おばさんと昔みたいに話したいんです」


「え?」


「小学生の時とかみたいに。……無理でしょうか?」


 母さんが目を見開く。そして瞳を伏せると、淀んだ気持ちが瞼から転げ落ちたように見えた。

 張りつめていた空気が消えて、柔らかい表情を見せる。


「そうね。また昔みたいに笑い合いたいわね」


 ぽつりとつぶやかれた言葉は、懐かしい母親の声だった。

 きっともう大丈夫だ。雪解けしたのだ。あとは春の陽気で水に流れていくだろう。

 それからお互いのことをぽつりぽつりと尋ね合っていった。時間は静かに優しく過ぎた。離れていた時間を埋めていくのは、ゆっくりで構わない。


「今度、華子さんも誘って食事しましょう」


 そう母さんが口にしただけでも大きな進歩だから。

 こうして綿実と母さんの話し合いは穏やかに終えることができた。夕飯の買い出しに行くという母さんと店前で別れ、おれたちは行先を決めることなく歩き出していた。


 春の風が柔らかく頬を撫でていく。

 ウインドウショッピングをするでもなく、2人の足は自然と動いていく。やがて見えてくるのは、高校の通学途中にある公園だ。団地内にある公園より大きく、小さい頃はよく連れてきてもらったものだ。今にして思えば、幼い子供を連れて移動するには少し距離がある気がするけど、スーパーのついでに寄れるなど、都合が良かったのだろう。そして高校生だったおれたちの取り留めない会話が積もった場所でもあった。

 陽気に釣られてか、平日の日中だけど親子連れや老夫婦、散歩している犬の姿が散見される。ほのぼのとした温かさを感じた。

 おれたちは空いていたベンチに座って、そんな景色を見るともなく眺めていた。


「この公園に寄るのも久しぶりな気がする」


 京都で生活する綿実は、感慨深そうに言葉を漏らす。

 おれにとっては、思い出はあれど、懐かしさを感じる場所という訳ではない。今、たしかに隣にいるけど、もう全てを共有できてはいないのだ。一抹の寂しさを覚えて、もっとずっと共有できる方法を模索してしまう。

 京都で就職する、とか。

 あぁ、これじゃ高校生の頃から成長できていないな。いや、自覚しているだけマシなのか?


「ナツ、難しい顔してどうしたの?」


 綿実に怪訝な目で見られている。


「いや、ちょっと将来について考えていた」


「就活、上手くいっていないの?」


「上手くいっていないというか、まだ定まりきってない感じ?」


 大学で習ったことを生かせる職に就きたい、と思ってはいるけど、漠然とし過ぎていて上手く絞れていない。

 それに綿実と3年離れて思うこともある。離れ離れになったからって死ぬわけじゃない。分かっている。でも、どうしようもなく寂しくなった時に埋める方法が、未だに分からない。重いだろうか。


「私は就活してないから偉そうなことは何も言えないけど、今の条件で絞り切れないなら、別の条件も追加してみたら?」


「別の?」


 綿実の提案に、ふわりと欲が形成されていくのを感じる。


「綿実は、さ……」


 言いかけて、言葉に詰まる。視線が地面に落ちてしまう。


「ナツ?」


 1度、深呼吸をする。隣にいる綿実の手のひらを握ると、変わらないぬくもりがある。


「京都で就職したいって言ったらどう思う?」


「京都で?」


「その……綿実と一緒にいたくて……」


 沈黙。砂場で遊ぶ子供の明るく高い声が、よく耳に響いた。

 どれくらい待っただろうか。綿実からの答えがない。おれは思い切って綿実の方を向いた。そして、言葉を失った。

 綿実の顔が耳まで真っ赤だ。


「え? 綿実?」


 なんとか声をかける。ゆっくりと視線が絡み合う。


「あの、それって、つまり同棲しようってこと?」


 同棲!


 今、おれの顔が瞬間湯沸かし器になったことが、自分でも分かる。同棲って……そうなるのか! ただ一緒にいたいとしか考えてなかった!


「あ、えっと、その、綿実を理由に就職先決めるのは嫌じゃない?」


「嫌じゃない……え、プロポーズ的な何かなの?」


 プロポーズ!


「そ、それは、まだだけど! いつかは、その」


 やばい、混乱してる。綿実も混乱してるのか? でも、だけど、綿実の顔は赤いままで、それはとても嬉しそうに見えて。

 もう高校生じゃないんだ、と思った。就職を1年後に控えて、彼女ともっと一緒にいたいと願うことは、未来の扉を1つ開けることなのだ。

 おれは沸騰する頭を何とか冷静にしようと、1度、息を吐く。

 そうすれば見えなかった想いが急速に形作られていくのを感じた。


「綿実と一緒に暮らしたい。だから京都で就職する」


「うん、分かった。待ってる」


 綿実に笑顔が広がる。それはとても綺麗で、ずっと、もっと、近くで見ていたくなる笑顔で。


「ちゅーするの?」


 不意にかわいらしい声が響いた。

 おれたちの目の前には手を繋いだ女の子と男の子。幼稚園児くらいだろうか。砂場で遊んでいた子たちだった気がする。


「ちゅーはしない、かな?」


 綿実が少し硬い声で返事をすると、母親と思しき女性2人に、ごめんなさい、と速やかに回収されていった。おれたちは顔を見合わせて笑みを落とす。親に連れられる女の子と男の子に、かつての自分たちの姿が重なる。

 双子ではなく姉弟のような関係なんだと気づいた時から、随分と遠くへ来たように思う。だけど、今までも、これからも綿実が隣にいる。

 関係は少しずつ変わる。一緒にいたいから変わっていく。そうして辿り着く先が幸せであるように気持ちを伝え続けたい。

 まずは2人きりになったら、ちゅーをしよう。

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