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四月のすき間  作者: くさき いつき
第1章 四月二日の黄昏
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6

 にこやかすぎる笑顔。


「じゃあ、ゆっくりしていってね、夏衣くん」


 綿実のお母さんは苺のショートケーキとオレンジジュースをテーブルの上に置いて、爽やかに去っていた。絵に描いたような娘の友達を歓迎する母親像。

 愉しんでいる。

 内心嘆息しながら、まぁ毎度のことか、と諦めに似た気持ちもある。ちらりとすぐ隣にいる綿実を見る。


「まったく、これから引っ越し準備するんだから、邪魔なだけなのに」


 テーブルの前に座ると、フォークをさっと手に取っている。おれもつられるようにして向かいに座った。


「今食べんの?」


「だって埃まみれのケーキなんて嫌でしょ?」


「まぁ、確かに」


 ちらちらと埃が生クリームの上に載っている。そんな光景を思い浮かべると食べる気力も減退してしまう。慌てて頭から嫌な想像を追い出すと、フォークを持った。苺はまだつやつやと赤い。


「引っ越し作業、どれくらい進んでんの?」


 見たところ普段と変わりない。机の上から物がなくなっているわけでもなく、部屋に段ボール箱が積まれているわけでもない。


「うん、夏物の服とかは片付け始めているんだけどね。まだ全然」


 フォークについた生クリームをぺろりと舐めながら言う。何だか直視しにくい。視線がふらりとさまよい、クローゼットに焦点が合う。


「夏物の服ね。冬服は?」


「え? まだこれからだよ……」


 何の気なしに答えていた綿実の目が、急に見開かれる。


「あ! あのね、服は自分でするからいいの! 夏衣には別のところ手伝ってもらうから」


「別のところって?」


 残念とか冗談でも言ったら鉄拳が飛んできそうだ。それはそれで面白い反応だ、と思いつつもやはり自重する。苺を1口で食べる。


「まずはやっぱり本かな?」


 本? そんなに手伝わなきゃいけないほどの量の本があったかな? 高校の教科書の類は置いていくだろうし。部屋の本棚を見やるが、ダンボール箱2箱、多く見積もっても3箱といった感じだ。そんなおれの視線に気付いたのか、綿実は小さく咳払いする。


「あのね、持って行くのはこの部屋の本だけじゃないの」


 思わず首を傾げると、綿実は視線をドアの方に向ける。綿実の部屋の向かいには、父親の書斎代わりになっていた物置部屋があった。果たして読む機会があったのか、疑問に思える百科事典や文学全集があった気がする。


「大学で必要なの?」


 綿実は文学部じゃなかったはずなんだけどな。


「私が読むわけじゃないから」


 ぽつりと言った。砂に水が滲みこんでゆくような、囁き声だった。じゃあ誰が読む? とは聞けなかった。だけど、綿実が言葉を続けていた。


「お父さんが読むと思うから。本当は出ていく時に持って行きたかったんだろうし。もうここに置いておいても仕方ないから」


 最後におじさんを見たのはいつだったろう。柔らかく笑う人だった印象はある。綿実と遊んでいて怒られることはなかったように思う。だけど顔の輪郭がぼやけて、はっきりとしない。気付けば随分と月日が経っている。時間に身震いするような思いがした。


「なぁ、アルバムってある?」


「アルバム?」と綿実は合点のいかない顔をする。


「うん、アルバム。もうダンボールの中?」


 首を横に振った綿実は、ここにあるよ、とフォークを皿の上に置き、本棚へと体を伸ばしていた。本棚は綿実のすぐ後ろにあったが、大きなアルバムを取り出すのは少し苦労した様子だった。

 そして机の上にアルバムを広げるには、ケーキを片付けなければいけなかった。生クリームを一気に飲み込むと、むせ返りそうになる。


「アルバム見るなんて久し振り」


 呟く綿実はどこか楽しそうだ。

 おれは普段、写真を見返したりする習慣がない。昨年の秋に行った修学旅行のクラスの集合写真も、まぁせっかくの思い出だし、と1枚購入したが、すでに部屋のどこにあるか分からない。そんなのだから、こうして写真を眺めるのは不思議な感じだ。まして人の家族のアルバムなのだ。覗き見るようで悪かったかな、と平然と頁を繰っている綿実を見ても思ってしまう。

 しかし、すぐに苦笑が洩れた。ガキの頃の自分がちょこまかといやがった。幼馴染みか、と実感させられてしまう。

 やがて、おじさんの顔、綿実の父親の姿も出てきた。公園でまだ5歳くらいの綿実を抱き上げている。何気ない、だけどやっぱり笑顔で溢れていた。

 ああ、こんな顔している人だったんだっけ、と思った。

 だけど、スーツを着てしまえば、きっと自分の父親との区別なんてつけられない。街中で、電車の中で見かける社会にくたびれた顔をするおじさん達との区別などつけられるだろうか。触れなければ記憶はあっけないくらいにこぼれ落ちてしまうのだ。

 思い出を回顧させるようなことをして無神経だったか、と眉間に皺を寄せてしまう。



「何、怖い顔してんの?」


 目ざとく突っ込んでくる。しかしその綿実の顔は、アルバムを見ることに不快を覚えている様子はなかった。


「いや、別に」と首を横に振る。


「ん? 何? そういう中途半端なの気になるなぁ。何考えてたの?」


 食い下がる綿実はゆとりのある目をしていた。だから、つい意地の悪い声になっていた。


「べっつに? もう平気なんだ? みたいな? 家族の写真見てもさ」


「まぁね。もう随分前のことだし」


 さらりと言う。だけど、綿実は高校を卒業したら父親の元へ行くんだろ? その真意は図りかねた。やっぱり家族だからなのか。


「それに離れていても家族は家族だから」


「じゃあ、なんで卒業したらおじさんの所に行くわけ?」


 やべ。今のはマズイ。思わずこぼれた言葉に、内心冷や汗を流す。


「うん。大学、お父さんの住んでいる場所の方が近いからね」


「ふぅん。おばさんは何か言っているの?」


 話の方向を変えようとしたが、全然変わっていない、と言ってからすぐ後悔した。何苛立ってんだ。落ち着け。


「お母さんは特に何も言わないよ。離婚と親子の縁は関係ないんじゃない?」


「そういうもん?」


「うん、よく分からないけど」


 笑みを洩らす綿実は超然として見えた。産まれた時からの付き合いだというのに。最近の綿実は隣にいても霞みがかかっているようで、遠く感じる時がある。


「あ、でも、お母さん、今はトモキさんがいるから、ちょうどいいのかも」


「トモキさん? 誰?」


「今のお母さんの彼氏さん」


「え? また変わったの?」


「またって……。もう付き合って1年近いよ。言ってなかったっけ?」


 頷くと思わず嘆息した。離婚してからというもの、おばさんは頻繁に恋人が変わる。1ヶ月ともたなかったこともある。もう充分いい年なのに。おれの母親が毛嫌いしてしまう一端を理解してしまいそうで、少し怖い。

 ケーキとオレンジジュースを運んできたおばさんの笑顔。

 思い返すと、やっぱり毛嫌いするなんてことはあり得ないと感じた。かつて結婚していようと、今何歳であろうと、恋愛してはいけないということはないじゃないか。

 綿実はまたアルバムを見ながら、思い出話を語っている。その記憶にはおれ自身もいる。いつも隣にいたのだ。

 1年、過ごす時間は途中からずれてしまったけれども。

 これからは、今年の春からはもう共有するものもなくなっていくのかな。考えると、背中をひたりと黒い影が這うのを感じた。

 ぱっと顔を上げる。


「綿実、いつまでアルバム見てんだよ。そろそろ引っ越しの準備、やろうぜ」


「え? 何よ、見ようって言ったのはナツじゃん」


 不満を口にしながらもアルバムを閉じている。ケーキも食べたし、腹ごしらえも万端だ。


「アルバム見ていても片付かないだろ。てかナツって言うな」


「分かっているわよ。別にいいでしょ、ナツでも」


「……で、まずは服だっけ?」


「違う! 本よ、百科事典! 文学全集!」


 怒ったふうの綿実の声を聞いていると、いつもの自分でいられる気がした。しんみりしたって仕方ない。おじさんの本が全て片付いた、その後のことも考えない。

 今はただ、綿実の声を聞く。そして綿実の荷物を整理していく。


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