22
高校生まで住んでいた団地は、懐かしいというほどの感慨は湧かなかった。でも、ここで生活をしていたという実感は残っている。もちろん思い出も。
その割にしっくりとこない気がするのは、隣を歩くナツのせいかもしれない。外見の変化のせいで、記憶の中の景色とかみ合わないのだ。どこか夢心地にいるような。現実味が遠い。
けれど、エレベーターに乗った所で、意識がくっきりとする。
「荷物、持ってくれてありがとう」
言いながら右手を差し出す。でも、ナツは首を横に振る。
「部屋の前まで持っていくよ」
「え、悪いよ」
「大丈夫。大丈夫」
ナツはこんなに察しが悪かっただろうか。
「でも」
おばさんに見られたら困るでしょ? と言いかけた言葉は、ナツの笑顔で遮られた。
「大丈夫、もう気にしていないから」
「気にしていないのは、ナツ?」
「いや、母さんも、かな」
にわかには信じがたく、言葉を返せず、首を傾げかけたところでエレベーターが止まる。扉の開いた先には、確かに高校までの日常があった場所。その中へ、ナツは何もためらうことなく歩き出す。私は戸惑いつつも、慌ててエレベーターから降りる。
「何かあったの?」
「うーん、母さんは母さんで色々と考えてくれていたってことかな」
「そう……まぁ、そうだろうけど」
「方向性はちょっとあれだったけど」
苦笑するナツの顔は、ちょっと大人びて見える。
いつの間にか身長が伸びてしまったように、私の知らない所でも成長していくのだ。当たり前のことなのに、何故だか寂しさを覚えてしまう。
離れることを選んだのは私自身なのにね。自分の身勝手な感情に嘆息しそうになって、笑顔に切り替えた。
「うん、分かった。また挨拶とかするね」
「おう」
嬉しそうに頷くナツから荷物を受け取る。
「今日は迎えありがとう」
「うん」
後は、そのまま鍵を開けて部屋に入るだけ。でも、足が動かない。ナツも私が入るのを待っているのか、動かない。いや、せっかく迎えにきてくれたんだし、何より1年ぶりに会ったのだ。もっとゆっくりと話したい。
部屋に上がってもらう?
以前なら、おばさんの視線を気にしつつも、口にすることができた。引っ越しの手伝いもしてもらったくらいだ。だのに、今は言葉にできない。
じっと視線を合わせると、そっと外される。
「明日」
不意に言葉を落としたナツの耳が、少し赤い気がする。
「明日、出掛ける時間はある?」
私はゆっくりとその言葉を咀嚼する。これは、多分、間違いなく2人で一緒に出掛けるように誘われているってことだよね?
「……大丈夫だよ」
「じゃあ、ちょっと一緒に付き合ってほしい」
分かっている。行くのに付き合ってくれってことは。でも、その単語は私を落ち着かなくさせる。私まで熱くなりそうで。
「詳しいことは後で電話で話そう?」
早口になっていた。そのことに突っ込まれることもなく、私達は忙しなく別れた。ドアの閉まる音がして、やがてナツの足音が聞こえなくなるまで、私はドアの傍から離れられなかった。
1度大きく深呼吸をしてから靴を脱いだ。
息を整えても顔はまだ熱い。お母さんはこの時間は仕事に行っている。だから誰かに見られることなんてないのに、顔を俯けてかつての自分の部屋に入る。
久しぶりに足を踏み入れた部屋は、埃が積もっているということもなく、静謐だった。物が何もないから視界がうるさくないだけかもしれない。
荷物を置いて窓に寄ると、何年も見続けた景色が広がっていた。団地に囲まれるようにして公園があり、遠くには住宅街があり、ビルなどの建物もちらほらあって、更に向こうには田んぼや山も見える。京都のような整然とした雰囲気はない。だけど、不思議と落ち着くのだ。
故郷なのだと思う。
でも、お父さんにとっては、もう故郷じゃないのかもしれない。
その考えは私の心を冷やす。
お父さんが出ていき、私が出ていったこの部屋は、冷たすぎる。
どれくらい経ったのか、日差しに赤みが混じるようになった頃、ガチャリとドアの鍵を開ける音がする。反射的に部屋から出てドアの近くに寄っていた。
果たしてドアを開けた主は、少し目を見開いた。
「あら、お出迎え?」
「……おかえり、お母さん」
ただいま、と言うべきか一瞬迷って、結局出迎えの言葉を言っていた。
「はい、ただいま。綿実もおかえり」
「うん、ただいま」
そのやり取りが、少しくすぐったい。家族の形を少しだけでも感じられるから。
「ちょっと着替えてくるわね」
中学校の事務職員をするお母さんは、ブラウスにパンツスタイルで私服に近い恰好とはいえ、やっぱり仕事とは切り分けているらしい。そもそも今日は日曜日だから休日出勤になる訳だけど、年度の切り替えとなる時期は何かと忙しいようだ。
そんなお母さんを見遣ってから、私はお土産を取ってくる。部屋を出ると、ラフな格好に着替えたお母さんとちょうど鉢合わせた。
「あの、これ、京都のお土産」
「まぁ、ありがとう」
受け取り紙袋を見たお母さんは、驚きをにじませる。
「あら、これってあの生八つ橋? 綿実、知っていたの?」
あぁ、本当に常連さんだったんだな、と一発で納得できる表情だった。
「ううん。お父さんに教えてもらったの」
「そう、お父さんから」
嫌悪するわけでもなく、懐かしそうに、優しく微笑むお母さんの顔は、幸せそうな妻にしか見えなくて私は何も言えなくなる。
「夕飯の後のデザートにしましょ」
生八つ橋がデザート? という野暮な突っ込みも飲み込んでしまうほどに。
それから私達は台所に並んで夕飯の準備に取り掛かる。その距離は確かに母と娘で、私がこの家族に求めていることは何なんだろう、と自問してしまう。
夕飯の味噌汁は、お父さんが作るものと同じ味がした。




