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四月のすき間  作者: くさき いつき
第1章 四月二日の黄昏
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5

 部室を後にする頃には、もう月が輝きだしていた。夜の空気は鼻先を赤くさせる。カレンダーは確かにもう3月なのに、現実はまだまだ上着が要る。マフラーも上着も要らなくなったら。その時は。

 寒さを紛らわすふりをして、首を横に振る。顔を上げれば見慣れた団地が並んでいる。建設当初は白かったはずの壁も、風雨にさらされてカビ臭い気がする。夕闇の匂いが緩和してくれているのが、せめてもの救いだ。


「ただいま」


 帰宅して、汚れた体操服を洗濯機脇のカゴにぶち込みながら母さんに言う。すぐ傍の台所で母さんは天ぷらを揚げている。


「おかえり、結構早かったわね」


「そう? つーか、母さん、夕飯作るのさすがに早すぎない?」


 日は沈み始めていたが、まだ午後5時半を少し回った所だ。


「今日はお父さんの帰り、早くなるらしいからね」


「出来立てほやほやでお出迎えってわけ」


 茶化してみたが母さんは笑顔で、そうよ、と言って天ぷらの鍋を見ている。結婚して20年近くになるというのに、未だに新婚気分のようで気味が悪い、と内心毒づく。


「冷めなきゃいいね、天ぷら」


 さっさと自室に行こうとしたらズボンのポケットから、軽快な音が流れ出した。携帯電話を取り出して確認すると、綿実からだった。


「もしもし」


「あ、ナツ? 明日の引越しの手伝いのことだけど、今大丈夫?」


 綿実の明るい声に、おれは母さんの視線を気にしながら2階へと上がっていく。


「何? 大丈夫だけど」


「うん、時間のこと言ってなかったと思ってね。2時くらいでいい?」


「別にいいよ」


 ドアノブを回して室内に入ると鞄をベッドに放り投げ、自分自身、ベッドに腰掛ける。スプリングがよく効いていて心地いい。


「あ、もしかして今帰ったとこだった?」


 おれの行動を見透かしたように綿実が言う。少し気分がほぐれるようで、ヤバイな、と思う。


「うん、今部活から帰ったとこ」


「高校生さんは大変ですねぇ」と綿実は含み笑いをする。


「まぁね。で、綿実の方はどうなんだよ? 引越し進んでんの?」


 少し間を置いて、それなりに、と小さな声が耳に届く。どこか距離のある声で、手のひらの携帯電話が冷たく重く感じる。


「なんかあった?」


「別に。思い出の品を整理してると色々とね」


 綿実の家庭のことが脳裏をよぎって返答に困った。幼馴染なのに、理解しきれないことがある。その事実が眉間に皺をよせさせる。


「ともかくさ、明日の2時、絶対来てよ」


 強引な口調に苦笑しながら、分かってる、と答えると電話は静かに切れた。しんとした空気が皮膚を刺す。逃れるようにベッドに寝転がると、遠慮がちなノックの音がした。何、と尋ねるよりも先にドアがそっと開く。菜箸を持ったままの母さんがいた。笑顔はなく、冷めた瞳をしている。だけど、まっすぐに母さんを見る。


「ご飯、できたの?」


「今の電話、佐野さんのお嬢さん?」


 蔑んだ声音にうんざりして、おれは口を閉ざす。それを肯定と理解した様子の母さんは、きっぱりと言った。


「あんな家の娘と仲良くするのは程ほどにしなさいね」


 反対の意思を見せようと立ち上がるよりも先に、ドアは閉じられた。視線を天井に向けると、深い溜め息が漏れる。


――親子してなんて汚らわしいの!


 今でも狂ったような母さんの叫び声を覚えている。くっきりと生々しく。鴨井家と佐野家が仲の良い関係が崩れた時。

 4年前、綿実の両親が離婚した。それでもまだ友好はあった。母さんも親しいとはいえ、他人の家の事情にあれこれ言うほど野暮ではない。だが半年と経たずに綿実の母親が恋人を作った時に、事態は変わった。何を考えているのかしらね、と苦虫をつぶしたような顔で母さんは言葉を洩らした。だけど、おれはまだ母さんの心の変化に気付いていなかった。


 おれが中学1年、綿実が中学2年の初夏。

 母さんが食料の買出しに出掛けた時に、綿実が部屋を訪ねてきた。同じマンションの2階と3階に住む2人なので、それまでもよくあった。来た理由というのも、漫画を借りに来ただけのことだった。

 だのに帰宅した母さんは青ざめた顔をした。


――何をしているの! 夏衣!


 ノックもせずにドアを開けはなった母さんの剣幕は異様に思え、おれも綿実も動きを止めて見ていた。


――何をしていたって聞いてるのよ、夏衣。


――えっと、遊びに来ていただけですけど……。


 すっかり口ごもってしまったおれの代わりに、綿実が細い声で返した。でも母さんは綿実に視線を合わそうとしなかった。じっとりとした目でおれを見ている。


――私は夏衣に聞いているのよ。厚かましい子ね。母親と同じだわ。


 冷たい物言いは綿実を震えさせる。小さく作られた拳が、ぐっとこらえるように後ろ手にされる。唇を薄く噛んだ顔は、下を向いていた。その様子に気付いたおれは、ようやく口を開いていた。


――何を怒ってるんだよ。綿実が来るなんて、いつものことだろ?


 落ち着けるように言った言葉は、でも火に油を注いだ。


――いつもですって? 一体何考えてるの! 離婚してすぐ男作るような淫乱な女の娘なのよ! 何かそそのかされてるんじゃないの?


――そんなことあるわけないだろ。


 即座に否定したが、中学生になって思春期を迎えたばかりの頃だ。綿実の短いスカートは眩しく艶かしくもあったのも事実で……。言葉尻が弱くなってしまう。


――本当かしらね。全く。


 吐き捨てた冷たい母さんの言葉。


――おばさんが考えているようなことはありません。


 綿実が小さく抗議すると、母さんは鼻を鳴らした。信用できるわけないでしょう、と言って、じっと綿実を見た。その両の目は冷淡で蔑んでいた。


――親子して何て汚らわしいの! 出てって!


 ぴしゃりと甲高い声が部屋中に反響するようだった。汚らわしい、と憎憎しく耳にこびりつく。

 床に置いていた鞄をさっと取ると、綿実は何も言わずに部屋から出て行った。追いかけることができなかった。ただドアを閉める綿実の背中はとても勇ましく見えた。


 それ以来、綿実がおれの部屋に来ることはなかった。だけど、おれが綿実の部屋を訪れることは何度かあった。母さんもそのことは黙認しているらしい節があった。言い過ぎたという後悔の表れのようでもあるし、家の外の事には無関心なだけのようにも感じられた。いずれにしても母さんは理解しがたい人になった。

 苦い思い出に大きく息を吐く。薄汚れたベージュの天井に、薄く棚引く空気の流れが見えるようだった。すぐに蒸発して消えてしまうと分かっていても。


 つと立ち上がって窓辺に寄ると、もう藍色に空が塗り替えられていた。山の端がまだ微かに燃えている。細い月が心許なく寂しそうに浮かんでいる。

 視線を落としていくと、父さんの姿が見えた。皺のないスーツをきっちりと着こなしているが、顔はくたびれた様子で重そうだった。さっと視線を外すと、ドアの方へと歩き出す。その1歩が重く、鉛が絡まっているようだった。

 食卓についても気分が晴れることはない。ますます厚く濃くなる。母さんはもう電話のことを咎める様子はなかったが、しんと静かなうねりが漂っていた。父さんも何も言わずにビールを飲んでいる。

 明るい食卓というには程遠かった。今日の部活のことをおちゃらけて話してみても場が明るくなる雰囲気じゃない。そもそも、学生生活について両親に話すことがない。居心地が悪い。心の内で、そっと溜め息をついた。

 綿実の家はどうだろうか、と不意に思考を巡らす。母1人、子1人。しかも子はもうすぐ出て行く。

 父親の元へと。

 陰湿な空気をどうしても嗅ぎ取ってしまう。いつか明るい食卓を囲む日が来るのか、やはり計りかねた。


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