18
今日も雨だ。
ナツがどんな1年を過ごしたのか。結局、瑠美ちゃんははっきりとは口にしてくれなかった。本人に聞くのが一番だと言われ、確かにそれもそうだと納得してしまって。後で冷静になってみると、ナツ自身に確認したら誕生日のサプライズ感は減るな、と気づいてプレゼントは決められないまま2日。
その帰り道からずっと雨が降っている。
窓を打つ雨の音はリズミカルに聞こえて、割と嫌いじゃない。でも、いざ雨の中を出掛けるとなると、気鬱に感じてしまう。傘に落ちる雨の後も悪くないはずなんだけどな。
アルバイト先に向かう道すがら、私の視線は別の喫茶店に向かう。レトロ感はなく、ちょっと洒落ていて、女子大生でも利用しやすそうな雰囲気。
あの日、そのドアを開けてお父さんが入っていった。知らない女性と。後ろ姿だったから、顔は分からない。私が見ていたことにも気づかれていないと思う。
――どうかしたんですか?
と瑠美ちゃんに聞かれるまで、私の足は動けなくなってしまっていたけど。
――何でもない。
辛うじて言えた言葉は、震えていたかもしれない。
けれども瑠美ちゃんは深く聞いてはこなかった。代わりに最近よく大学のサークル棟にこっそり行く話を明るくしてくれた。傘を持っていなかった瑠美ちゃんと相合傘する道は、気まずい雰囲気にはならなかった。
1人で歩く、今の方が何だか気まずく思える。
別に何かを確かめようとしているわけじゃない。ただアルバイト先に向かっているだけだ。私は歩調を強めた。水たまりで雨水が跳ねた。
もう目と鼻の先にある通いなれた扉を、飛び込む勢いで開けた。
「おはようございます」
挨拶をしながら店内に入ると、清子さんが柔らかな笑みで迎えてくれる。
「おはよう。雨、大丈夫やった?」
「ええ、今はそこまで雨足も強くないので」
私の口調も柔らかくなっていた。
スタッフルームに入ると、既に斎藤くんがいた。帰省から戻ってきてからは、本当によく入っていると思う。小学校も春休みに入ったから、主婦業が忙しくなった結果、学生の入る率が上がっただけとも言える。
「おはよう」
斎藤くんの声も穏やかだ。
「おはよう」
ただの挨拶なのに、ほっと安心する。ごく普通の、日常の言葉なのにね。
雨の日はどうしても客足は遠のく。ランチタイムはいつもとあまり変わりないけど、それ以外の時間帯は空席が目立つ。店内はもともと広くないから目につくというのもある。マスターや清子さんに焦りは見えないので、経営上は問題ないんだろう、多分。
お昼も滞りなく過ぎたところで、休憩時間になった。今日のまかないはオムライスだった。卵にふんわり包まれたご飯は、とても幸福なものに思える。
「いただきます」
小さく言って食べ始めると同時に、休憩室のドアが開いた。斎藤くんかと思ったら清子さんだった。
「私も休憩よ」
「2人同時で大丈夫ですか?」
つい尋ねてしまったけど、清子さんは苦笑する。
「今日はお客さんも少ないからね。取れる時に取っておこうかとね」
「そうなんですね」
「ええ、仕事は男どもに任せて女子会しましょ」
屈託なく言われて、笑みがこぼれてしまう。マスターと斎藤くんには申し訳ないと思いつつも、1人より2人の食事の方がやっぱり嬉しい。
「清子さんと一緒の休憩って珍しいですね」
「そういえばそうやね。まぁ2人休憩がそもそもあんまりないかな?」
シフトの体制上、基本は1人ずつの休憩なのだ。
「確かにそうですね」
頷いた所で、清子さんも向かいの席に座ってオムライスを食べ始める。一口で、幸せそうにほころぶ。それはとても可憐で、思わず見とれてしまった。
「どうかした?」
私の視線に気づいたらしい清子さんが首を傾げる。
「あ、いえ、美味しそうに食べますね」
何と言っていいか分からず、誤魔化すような言葉が口から出ていた。
「そうねぇ。やっぱり旦那の作るご飯は美味しいからかねぇ」
さらりと惚気られている。もうアラフォーだと以前に言われたことがあったけど、その表情は少女のようだった。
結婚しても変わらず、想いを持続し続けるのはどれほどの労力なのだろう。
「清子さんとマスターって結婚して長いんですか?」
「そうね。この店を始める時とほぼ同時だったわね。今年で……もう11年よ」
10年以上。恋愛していた期間を含めればもっと長い時間を共有しているのかもしれない。
「でも、最初は結婚するつもりなんてなかったのよ」
「え?」
「私達、子供ができなかったから」
さらりと言われて、二の句が継げなかった。軽く言われているけど、きっと軽いことじゃない。
「困らせちゃったかしら?」
「い、いえ、その……」
上手く言葉を選べずにいると、清子さんは穏やかな顔のまま話し続ける。左手がそっと下腹部に添えられている。
「あの人、子供が欲しいって昔から言っていたから。私が、まぁ、病気の手術をして子供を産めなくなって、別れようと思ったのよ」
細かな部分は省かれているけど、清子さんの穏やかさは、当時を乗り越えた強さなのだと感じる。
「でもね、それでも構わないから結婚しようと言われて、嬉しかったのよね」
「本当に大事にされているんですね」
「まぁね。子供がいれば、と思うことが全くないわけじゃないけど、2人でたくさん話して決めたことだし、やっぱり幸せだから、結婚したことに後悔はないのよ?」
清子さんのまっすぐな瞳がまぶしい。
とても羨ましい。素直に思う。
子供を望んで得られなかった人生は、完璧なものではなかったのかもしれない。でも幸せだと言い切れる人生は、どんな宝物よりも輝いて見える。
子供がいてもいなくても。
家族の幸せの形は、それこそ十人十色なのだと感じる。
じゃあ、私の家族は今の別れて離れ離れに住む形が幸せなんだろうか。分からない。分からないけど、きっと私の家族には会話が足りていない。
清子さんはたくさん話して決めたと言った。話す時間を作って、寄り添う時間を作ることが出来た。一緒にいる努力をしたのだ。
私はどうだったろう?
離婚した時の記憶はあやふやだ。今からでも話す時間は持てるのだろうか。
オムライスの卵が、口の中でとろけた。




