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俊雄の親戚が経営しているという旅館は、想像していたものよりずっと立派だった。果たして一介の高校生がここに泊まって大丈夫なのだろうか? なんて心配を少ししてしまった。それも女将と気楽に話している俊雄を見たら、杞憂だと分かった。俊雄の伯母にあたる人らしい。女将だけあって所作は美しいものの、口を開くと友達の母親に似た親しみを見せてくれた。
部屋割は男5人が1部屋、女子の瑠美が1部屋だ。男部屋は狭さを拭えないが、格安で融通してもらっているのだから文句はない。そもそも旅館よりも外にいる時間の方が長いだろうし。
料理は美味しかったし、露天風呂も気持ち良かった。何も問題はない。
唯一、問題があるとしたら明日のことについて皆に相談できていないことかな。楽しい雰囲気に水を差すようで、上手く切り出せない。今もトランプで大貧民をしているけど、何故こんなにも盛り上がっているのか。旅行に出ている特別感のせいなのかな。
どうしたものか……。
なんて思っていたら携帯電話が鳴った。綿実だ。意味もなく咎められているような気分になってしまう。
「わり、ちょっと抜けるわ」
「早く戻って来いよー」
俊雄の気楽な声は何だか助かる。一応手札を隠すように置いて、部屋から出る。室内が騒がしかった分、廊下の静かさが際立つ。おれは声を潜めるようにして電話に出た。
「もしもし?」
「あ、ナツ? 今大丈夫?」
「うん、一応大丈夫。どうかした?」
「あー、うん。ナツからのメール見たら声聞いてみたくなってさ」
歯切れ悪く言われた言葉に、耳が熱を持つ。今誰にも顔を見られたくない。熱を冷ますために外に出ようかと思う。
「なんだよ、もうホームシックかよ?」
茶化すように言ったら、苦笑が漏れ聞こえた。
「そんなじゃないけど……似ているのかな」
「なんじゃそりゃ」
「うーん、ナツもその内分かるかもね」
取り留めの無い話をしながら歩くと、中庭が見えてきた。植えられた木々や池のしんとした雰囲気が、夜の色を深める。見上げた空も星が綺麗に見えるような気がした。旅館がとても大きく感じられる。
「京都での生活はどう? おじさんは?」
少し間が空く。何かマズッただろうか? 表情が見えないのがもどかしい。さらに言葉を重ねようとした時、すっと息を飲む音が聞こえた。
「うん、お父さんとはまだちょっとぎこちない所はあるけど、その内慣れると思う」
「……そっか」
言葉が喉の奥から消えてしまった。離れていた年月の分だけ、心の距離もできているのだろうか。それはおれが踏み込むことのできない家族の話だった。
「うん、まだ3日だしね。これからよ」
3日。綿実が引っ越してまだ3日なのだ。分かっていたつもりなのに。
1日の差が1年の隔たりを生むのなら、3日の差は3年だな。なんて屁理屈をこねてみた所で、現実時間は72時間だ。たったそれだけで、もう寂しい。同じ京都にいても寂しい。こんなんで春を乗り切れるのだろうか。
また明日、と言い合って切った電話の声が遠かった。
なんだかな。おれはどうしたいんだろう。
夜空に浮かぶ月は皓々と輝いて綺麗だけど、答えをくれそうにはない。
「夏衣くん、何しているの?」
ぼんやりとしていたら、声を掛けられた。振り向くと瑠美がいた。みんなといる時は意識していなかったけど、旅館の浴衣を着た瑠美を直視するのは、少し憚れる。
「何って、電話だよ」
「もう終わっているみたいだけど?」
責められている訳でもないんだろうけど、何となく気まずい。
「んー、月が綺麗だなって思ってさ」
「なぁに? 告白してるつもり?」
瑠美がくすくす笑いながら隣に並ぶ。けどおれは意図が掴めず首を傾げてしまう。
「夏衣くんって樋口一葉読んでいる割に夏目漱石の逸話には疎いんだね」
「どういうこと?」
「知らない? 夏目漱石がI love you を『月が綺麗ですね』って訳したって話」
そう言われてみるとネットか何かで見たような……? え、あれ、おれさっき言った? 瑠美に告白したことになってる?
「って、そういう意味じゃねぇから!」
「分かってるって。そんなに全力で否定しなくてもいいのに」
「う、ごめん」
しょんぼりしているように見えるのは本気なのか、演技なのか。どちらにしても申し訳ない気分になる。
「ねぇ、夏衣くんは佐野先輩のこと……」
「え?」
綿実が何だ? 瑠美の横顔を見ると困ったように微笑まれた。
「ううん。何でもない。そろそろ戻ろ?」
「あ、うん。そうだな」
部屋に戻りかけて1度振り返る。夜空に輝く月は、相変わらず美しかった。おれが明日綿実に伝える言葉は、誕生日おめでとうで合っているのだろうか。
ふと降りてきた疑問を胸の奥にしまう。そして瑠美に続いて急いで部屋に戻った。




