20
落ち着かない気分のまま帰宅する。夕飯の支度をしているのだろうか。台所の方から、魚を焼く匂いがする。家に誰かがいる。誰かが住んでいる。ほっとするものがあった。
だけど、優しいものとは限らない。
「夏衣?」
自室に行こうとしたおれの背中に、呪詛を込めたような低い声がかけられる。
「母さん?」
何だ? と思いながら振り返る。表情が暗い。絶望に打ちのめされたように顔は青白いのに、目だけが血走っている。ぞくりと鳥肌がたつ。
「……どうしたの?」
「それはこっちの台詞よ。今までどうしていたの?」
「今まで?」
問い返した途端に気付いた。母さんはきっと見ていたのだ。佐野家を訪れた所か、おばさんと話している所かは分からない。だけど、母さんにとってはどっちも些細なことだ。関わりを持ったことが許せないのだから。
誤魔化すべきか? 見たかもしれないと言っても証拠がある訳じゃない。強引に押し切ることもできるかもしれない。
「今まで、どうして、いたの?」
繰り返される言葉は機械的で、瞳には蔑みの色が滲みだしている。おれに対してなのか、おばさんに対してなのか、それとも綿実に対してなのか。
――親子してなんて汚らわしいの!
いつかの言葉が脳内に響いた途端、すっと冷めていくものがあった。
「佐野さんの家にお邪魔していたよ」
するりと言葉が落ちていた。見開かれた目には、世界の終わりが映っているみたいだった。
あ、と思った時には母さんは台所の方へ駆けていた。そして戻ってきた時には手先がきらりと反射した。刃物だ。包丁だ。
「ちょ、何してんだよ!」
慌てて駆け寄った。後ろで放り投げた鞄の音がする。
「どいて! 今すぐ行かなきゃ!」
「行くって、どこに!」
無軌道に振り回される包丁のせいで上手く近づけない。
「あの女の所に決まってるでしょ!」
「なんでだよ!」
「なんでですって?」
鬼のような形相からは、もう正気ではないのだと感じられた。だけど、おれに出来ることと言ったら言葉を投げかけることだけだった。
「一体、何を怒っているんだよ!」
「あんたを守るためには、もうこうするしかないわ」
守る? おれを? 訳が分からない。綿実はもちろんおばさんにだって、何か危害を加えられたことなんてない。本当に分からない。だけど、このまま外に出す訳にはいかないことだけは分かる。
「待てよ。ちゃんと理由を言えよ」
「理由ですって?」
今さらそんなことを言う必要ない、と体全体で語っている。足は玄関に向かっていく。手元の包丁が、より一層ぎらつくようだった。
「毒婦は放っておいたら駄目なのよ」
一体、何を言っているんだ? 母さんが理解できない。18年近くも傍にいたというのに、まるで得体の知れない存在みたいだった。
だけど、それでも母さんなのだ。
「とりあえず落ち着こう? な?」
「もう落ち着いている暇はないわ!」
母さんの動きを止めようとした俺の左腕と、振り払おうとした母さんの右手が交錯する。あ、と思った時には、一直線に裂かれる感覚がした。切れた、と実感した途端、鈍い痛みがじんわりと広がっていく。
「……っく」
大丈夫だ。痛みはあるけど、ひどいものじゃない。包丁の切っ先が掠っただけだ。左腕の内側に、細い赤い線が浮かび上がってくる。大して深く切れた訳ではないようだけれど、放っておいては駄目みたいだ。
ぽたり、と床に血が落ちるとともに、硬質な音が響いた。包丁が母さんの手から落ちていた。
「夏衣……?」
母さんの肩が震えている。瞳はおれの左腕と床の血を忙しなく行き来している。落ち着きはないけど、正気には戻ってくれたらしい。
「手当すれば心配ないよ」
じわじわくる痛みに声が詰まらないように細心の注意を払う。
「包帯とかって、どこに置いてたっけ?」
「……すぐに持ってくるわ」
母さんの足取りはしっかりとしていた。動揺はしているかもしれない。声が掠れていたから。だけど、救急箱を持ってきた母さんは、ちゃんと母親の顔をしていた。18年近く見てきた母さんの顔だ。手の動きもスムーズで、小さい時、こけたりして怪我をすると、いつもささっと手当てしてくれたことなんかを思い出したりした。
傷口は細長い線が出来ていて、腕に包帯を巻くと仰々しく見えた。とはいえ深く切れた訳ではないから、1週間もすれば傷跡も目立たなくなりそうだ。部活に支障は出ないだろう。ちょっとほっとした。
「ごめんなさい」
包帯を巻き終わると、母さんはぽつりと言った。親から聞く謝罪の言葉というのは、何だか変な感じがした。
「うん」
頷いて、それからどう言葉を続けたら良いか、判断に迷う。怒るのは、何だか違う気がする。かと言ってなかったことにするのも違うと思う。
カチカチと秒針の音がやけに耳に響く。沈黙が重い。
不意に嫌な匂いが鼻についた。
「……魚、焦げてる?」
「あ、忘れていたわ!」
母さんは立ちあがり、台所へ駆けて行く。おれも後へついていく。慌ててキッチンのグリルを開けると、煙が溢れて目をしばたかせる。魚は……炭火ということはないが、食べるのは難儀しそうな状態だ。正直、あまり健康的な食べ物には見えない。
「これは口に入れたくないね」
「そうね。駄目だわ、こんな失敗しちゃうなんて!」
2人して大袈裟に溜め息をつくと、何だか笑いがこぼれてきた。何も解決なんてしちゃいない。おれの左腕は包帯が巻かれ、床には血のついた包丁が転がり、おまけに魚は黒焦げだ。
だけど、笑えた。
「母さん。母さんは何を怖がっているの?」
問いかけの言葉は思いのほか、簡単に口から出てきた。母さんと視線が合う。でも、その瞳にはもう包丁を持ち出すような錯乱の色はない。母さんは生ごみ入れに黒焦げの魚を棄てると、口を開いた。
「あの女、華子さんが最初に付き合ったのはどんな男か知っている?」
「いや、知らないけど……」
「大学生だったわ。まだ21歳よ、あんたと変わらないわ」
声に嫌悪の色が浮かぶ。おれと年が変わらないということは、実の娘の綿実とも年は変わらない相手。
「そんな男が新しい父親候補になる訳もなかった。あの人は、次から次へと男を替えていったわ。それも相手は皆、年若い男ばかり」
母さんの目に射るような力強さが宿る。
「いつか、もしかしたら、いつか、夏衣にも手を出してくるんじゃって思ったら、気が気じゃなかったわ。親子ほど年が離れていることだけでもおぞましいのに、取っ替え引っ替えだなんて、恐ろしいわ。そんなの幸せになれる訳がないもの」
被害妄想と一言では片付けられない。これも母親の愛情、なのだろうか。その重さに戸惑いはある。それと同時におばさんに誘われたら簡単になびくと思われていたのかと考えると、情けない気分にもなる。だけど、今ここでそんなことを言ったって仕方ない。
「そんな心配しなくても大丈夫だから」
言えるのは、そんなありきたりな言葉だ。母さんは力なく頷いていた。納得してくれたかは分からない。だけど、母さんはもう理解できない存在ではなかった。
しばらくして、父さんが帰宅した。惨状に目を丸くしていたけど、事の顛末を聞くと落ち着いた笑みを見せていた。
「もう気は済んだかい?」
「……ええ」
そんな短いやり取りで、通じるものがあるらしい。やっぱり夫婦なのだと思う。
夕飯は黒焦げの魚はなくなったものの、他の料理も形や味付けが歪で、母さんらしくない微妙な出来だった。でも、ちゃんと味のする食卓だった。