19
綿実がいなくなっても、当たり前に朝は来る。そして相変わらず部活がある。日常は何も変わらない。
「今日は調子いいみたいだな?」
休憩に入った途端に、俊雄から声をかけられた。
「まぁな。悪くはないと思う」
「歯切れは悪いなぁ」
「うっせ」
悪態をついても、俊雄は明るく笑うだけだ。やっぱいい奴だよな、と決して口には出さないことを思う。
実際、調子は良い方なのだろう。もっと綿実のことを気にして、何も手につかなくなるんじゃないか、と考えたりもしていた。挙句、京都まで追いかけてしまうのではないか、と。
だけど、今はそんな気持ちは微塵もない。目の前のこと、部活に集中するのみだ。それはそれで、少し寂しい気がしないでもない。
部活を終えて、部室を後にする頃には、夕闇が迫っていた。だいぶ日は長くなってきたけど、それでもまだ夜の時間が長い。空気には冬の色香が残る。春は近くて遠い。
公園の横を通り過ぎる時に、思わず足を止めていた。でも、誰もいなかった。静かで、まるで時を止めたみたいだった。小指に視線が落ちた。うん、大丈夫だ。歩き出す足のリズムは変わらない。
団地の辺りまで帰ってくると、月が輝きだしていた。
「あら、夏衣くん」
階段を上ろうとしていると、明るい声が耳に届いた。振り向くと、綿実のお母さんがいた。
「こんにちは」
「こんにちは。今日も学校だったの?」
制服姿であることが不思議だったらしい。
「ええ、部活があるので」
「確かバスケ部だったわよね? 大変?」
「まぁ、それなりに」
曖昧に頷いた所で、エレベーターの扉が開いた。普段は2階なので、エレベーターなんて利用しない。だけど、3階に住むおばさんは利用しているらしい。ここで別れるのも何なので、そのまま一緒に乗り込み、2階と3階のボタンを押す。
「ありがとう」
「いいえ」
小さく首を横に振るとおばさんが、あっ、という顔をした。何だ?
「ねぇ、良かったら家に寄って行かない? 渡したいものがあるの」
一瞬、答えに迷った。綿実がいない時に訪ねたことはなかったから。でも、全くの他人って訳でもないし、断るのも変かな。とはいえ夕飯時にお邪魔するのもどうなんだろう。
なんて逡巡している間に、2階に到着して開いていたドアは閉まってしまった。それを了承と取ったらしい。
「うふふ、ありがとう」
おばさんの笑顔は綿実と似ていた。
綿実のいない佐野家は、シンとしていて静かだった。トモキさんとかいう、おばさんの恋人も今はいないらしい。平日だし、まだ仕事なのかもしれない。何の仕事をしているのか、そもそも社会人なのかは知らないが。
「今用意するから、ちょっと待っていてね」
リビングに通されると、慌ただしく奥の方へ行ってしまった。もう夜になるというのに、まだ部屋の明かりをつけていない。立ち上がって、スイッチを押そうとしたけど、何故か躊躇われた。
もう何度も訪れたことがあるのに、ひどくよそよそしく感じてしまう。
「あら、いけない」
戻ってきたおばさんは、パチッとスイッチを押した。部屋は瞬く間に明るくなった。部屋の物やおばさんの顔がくっきりと見える。
「あの、渡したいものって……」
いつまでもいるわけにもいかない、と思って用件を尋ねた。おばさんはにっこり笑うと、1冊の本を差し出した。首を傾げつつ受け取って表紙を確認する。
『たけくらべ』と書かれていた。樋口一葉の文庫本だ。
「これは?」
「あの子の部屋に置き忘れてあったのよ」
「じゃあ、また帰ってきた時にも渡したら……」
「うーん、でもね、何となく夏衣くんに持っておいて欲しい気がしたの」
遮られた言葉は、もう続けられなかった。おばさんは笑顔のままだったけれど、有無を言わせない力があった。何か意味があるんだろうか?
改めて文庫本の表紙を見て、それからぱらぱらとめくってみた。紙がひっつくような、パリッとした音がする。それなりに年月を経ているらしい。でも、それだけだ。何かメモが挟まっているとか、そういうことはなさそうだ。
少し考えて、まぁ次会った時にでも渡せばいいか、と思い直した。
「分かりました。じゃあ、これ預かっておきます」
「助かるわ」
「いいえ、たいしたことじゃないので」
言いながらおれは帰るために立ち上がる。
「あら、もう帰る?」
「はい。夕飯時に長居してもあれなので」
「そう? 私は別に気にしないわよ?」
茶目っけのある声色に、何と答えて良いのか分からず苦笑してしまう。
リビングを出ると、見慣れた扉があった。その向こうに綿実の部屋がある。まるで以前と変わらない。
「中、見てみる?」
おれの視線に気づいたらしいおばさんが、促してくる。本人がいない時に入るのも……と思って断ろうとしたら、その前におばさんがドアを開けていた。
目を見張ってしまった。
何もなかった。部屋は明かりをつけるまでもなく、空っぽだということが分かった。主を失った部屋は静謐で、異世界みたいだった。
勝手に鼓動が速度を上げていく。全身に微かな震えが走るようで、足にぐっと力を入れてこらえる。手に持った『たけくらべ』の表紙が少し歪んでしまったかもしれない。
「見事に何もないでしょう? この部屋の隅にね、ちょうど朝日が当たる辺りに、その本だけあったのよ?」
何で忘れていったのかしらね、とおばさんはどこか楽しげに言う。口調は軽いのに、胸がしめつけられるような、涙をこらえるような気配を嗅ぎ取ってしまう。
「何ででしょうね」
答える声は、ひどく頼りなく響いた。




