18
いつもより早く目が覚めた。今日も部活は朝からある。それでも2度寝が出来そうな時間だ。瞼をそっと閉じてみた。暗闇の中にほのかな陽の光を感じる。再び眠気が訪れる気配はなさそうだった。
ぐっと足に力を入れて、ベッドから起き上がる。そしてカーテンを開けると、朝を迎えたばかりの青空があった。ますます頭が冴えてくる。
だけど、わざと緩慢な動作で着替えを済まし、洗面所へと向かう。
「あら、おはよう。今日は随分早いじゃない」
父さんに愛情たっぷりの弁当を作ることを日課としている母さんは、今日もおれより早起きだ。
「なんか、目、覚めた」
適当に返して、そそくさと通り過ぎる。母さんは無愛想な態度が気に食わないのか唇を尖らせつつも、弁当作りに戻っていった。
洗面台の鏡に映る自分は寝癖がひどかった。あちこちに思い思いにはねる髪は、ちょっと芸術的かもしれない。いや、やっぱただの寝癖だな。念入りに時間をかけて髪を整えた。
朝の身支度を全て終える頃には、いつもとそう変わらない時間になっていた。
それは本当に毎日繰り返しているような朝だったはずなのだ。
でも、団地の外に出ると、綿実がいた。
「おはよう」
ショルダーバッグを1つ肩から掛けただけで、他に荷物らしいものは何もない。まるで近くのスーパーに買い物にでも行くような軽い出で立ちだ。
「……おはよう」
朝日を受ける綿実の顔は眩しくて、目を細める。陽が透ける黒髪は7色に煌めいて、綺麗だった。
「途中まで一緒に行こうよ」
「うん」
事前には約束していない。だけど、自然に頷いていた。歩幅も当たり前のように合わせている。まるでこれから一緒に学校に行くみたいだ。
「随分、荷物少なくないか?」
「他の物は全部運送業者さんが持っていってくれるから」
「それもそっか」
「うん、明日から段ボール箱を開けまくる日々になりそう」
上手く整理できずに、荷物に埋もれている綿実を想像したら、ちょっと笑えた。でも、次の言葉にはぎくりとした。
「さすがに荷解きまでナツには手伝ってもらえないもんね」
「そう、だな……」
「今日はナツって言うなって突っ込まないんだね?」
綿実の軽口にも曖昧にしか頷けなかった。ナツと呼ばれるのも、もしかしたらこれが最後なのかもしれない。
でも、綿実は笑顔で、いつもと変わらない。これが今生の別れになるかもしれないなんて微塵も思っていないのだろう。おれも思いたくない。確かに今までのように気軽に会うことはできなくなる。だけど、電話だってメールだってできるし、何ならスカイプとかを使えば顔を見て話すことだってできる。
何も不安に思うことなんてないはずなのに……。
ぐっと指先に力を入れてみたけど、やっぱりすぐ隣に手を伸ばすことは無理だった。もし触れられたら、何かが違っていたのだろうか。
2人の肩書が幼馴染みじゃなく恋人だったら、不安もなかったのだろうか。
ふわりと風が吹き、2人の間を通り過ぎていく。春というには寒く、冬というには暖かい風。
「桜はまだ咲きそうにないね」
不意に言われた言葉に視線を動かすと、2人でよく寄り道をした公園が目の前にあった。公園の桜は遠目に見ても、まだ蕾が固そうだった。咲くまでには、まだ数日かかるかもしれない。
「桜なら、京都の方が見ごたえありそうだな」
「それはそうかもしれないけど、見慣れた桜が見られなくなるのは残念かな」
さらりと言ってのける綿実の真意は、上手くつかめない。だけど、言葉通りなら綿実も寂しさを感じているのかもしれない。
「おばさんはこっちにいるんだし、来年の春にでも帰省したら見られるんじゃね」
「まぁね。でも後何日かしたら見られるはずなのに、1年後になるって考えると遠いよね」
本当に。本当に気が遠くなるよ。1日と1年の違いは。
「何か怒ってる?」
公園に寄ることなく歩き出した綿実が、顔を覗き込んでくる。さらりと揺れる髪から、優しい匂いがする。嫌だな、いつも耐えているっていうのに。
「別に怒ってねぇよ」
「そう? 眉間にしわ出来ているよ」
「もともと出来やすい顔なんだよ」
「何それ」
綿実の笑い声が、春の空気に溶けていく。より一層清々しく、優しい気持ちにしてくれる気がした。同時に哀しい気もした。
きっと、綿実はおれが隣にいなくなっても笑っていくのだ。
やがて、分かれ道がきた。ここからおれは学校へ、綿実は駅へと行く。背中を向けたら、もう会えない。
すっと綿実が右手の小指を目の前に差し出す。
「何?」
「ゆびきりしよう」
「何で?」
「大丈夫の約束だよ」
綿実の無邪気な笑顔が、幼い綿実の泣き顔と重なる。あぁ、そうか。と、心にかかったモヤが晴れていくような気分だった。
綿実の小指に、おれの小指が、そっと触れる。綿実に触れたのに、不思議と落ち着いていた。じんわりと伝わる体温が、優しい。
「大丈夫!」
力強く言う綿実に、おれも精一杯の気持ちで頷いた。小指と小指が離れても、確かな繋がりがあるのだと思えた。
そうしておれ達は、それぞれの行き先へと歩き出した。




