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水族館を後にして、お店を冷やかすだけ冷やかして結局何も買わずに地元に戻ってくる頃には、もう夕暮れ時になっていた。日中は春めいてきたけど、日が傾き始めるとまだまだ肌寒い。
おれ達は暖を求めるようにしてお好み焼き屋に入っていた。
お好み焼きは嫌いじゃなかったけど、特別好きな訳でもなかった。それでも綿実といると、不思議と寄ることが多かった。大して広くもない店内。15人も入ればいっぱいだ。寡黙な店主はずかずかと土足で割り込んでくることもなく、ひたすらお好み焼きを作り、客が途切れば備え付けのテレビをぼんやりと眺めている。かと思えば水のおかわりをなくなる前に用意している。その適度な距離が心地良かったのかもしれない。
「ねぇ、見て見て!」
豚玉とミックスがそれぞれテーブルの鉄板に運ばれてくるのを待っていたかのように、綿実は携帯電話を見せた。イヤフォンジャックにピンクのイルカのカバーがついている。今日、水族館で買ったものだ。
「早速、つけちゃった」
「……良かったな」
どう答えれば良いか分からず、無難な返事をしていた。
「ねぇ、ナツもつけてよ」
「え、今?」
「うん、今」
おれも半ば無理やり青いイルカのイヤフォンジャックカバーを買わされていた。今日の思い出だの、お揃いだの言われると悪い気はしなかったが、それ以上に恥ずかしい。
「別に後でいいじゃん」
じっと綿実に見つめられる。まっすぐな瞳に射抜かれる。無言なのにすごい圧力だ。
「わ、分かったよ、分かった! 今つければ良いんだろ?」
鞄から携帯電話とイヤフォンジャックカバーを取り出して付ける。男が持つにしては、ちょっとファンシーすぎやしないだろうか。しかし、綿実が満足するなら良いか、と開き直ってみる。
「これでオッケー?」
「うん、良い感じになったね」
綿実は自分と俺の携帯電話を交互に見て、微笑んだ。
「ねぇ、イルカの超音波ってどれくらいまで届くんだろうね?」
「さぁ、結構遠くまで届くらしいけど……」
「ここから京都ぐらい?」
「それは、さすがに無理じゃね」
「無理かぁ」
呟く綿実の瞳にまつ毛の影が落ちる。どこか寂しげにも見えて、焦りを覚えてしまう。
「まぁ、でも、ほら、電話なら余裕で繋がるだろ」
何を当たり前のことを、と笑われるかと思ったけど、綿実は小さく頷いただけだった。
そして、おもむろにお好み焼きを食べ始めた。おれも釣られるようにして食べる。鉄板の上のお好み焼きは熱く、じんと体の奥を焦がすような気がした。もう何度も綿実と一緒に食べた味。だけど、もしかしたら今日が最後になるのだろうか。
もう数日の内に綿実は引っ越してしまう。
その事実は随分前から理解しているつもりだったのに。今になってすとんと腑に落ちた気がした。
「なぁ、引っ越しの準備は終わりそうか?」
「うん、もう大体終わったかな。後は引っ越し当日まで使うものが、ちょっと残っている感じかな」
「そっか。じゃあもう大丈夫そうだな」
「色々と手伝ってくれて、ありがとね」
綿実は落ち着いた表情をしている。この慣れた土地を離れることに対して、もう寂しさを覚えることもないんだろうか。
「ナツは京都旅行、行けそうなの?」
「あー、多分。当日までに母さんの機嫌を損ねなければかな?」
実際の所、当日までに母さんに心から賛成してもらうことは無理だと思っている。でも、父さんは理解してくれているし、行けないこともないと思う。母さんの本音は見えるようで見えない。
「ふぅん。じゃあ、引っ越し早々、ナツとばったり会っちゃうかもね?」
「どうだろうな。京都って言っても広いし」
そもそも綿実の引っ越し先の住所をまだ知らないことに思い至る。京都っていう漠然とした情報しか聞いていない。会いに行くとか、それ以前の話だった。
「なぁ、そういえば」
住所ってどこだ? って聞こうとした時に、カランカランという大きな鐘の音がした。来店を告げるドアベルだ。一瞬、気を取られてしまう。中年夫婦といった感じの2人が、店主の低い声に迎えられている。
「そういえば、どうしたの?」
綿実が首を傾げる。何となく別に今聞く必要もないか、と思い直していた。当日までに聞けば良いし、何なら引っ越し後に電話やメールで聞いても良い。
「何でもない」
「そう?」
頷いてお好み焼きを口に運ぶ。やっぱりじんわりとくる。今は、ことさら距離を意識するような会話はしたくないと思った。今は、目の前にいる綿実との時間を楽しみたい。
夕飯の時間が近づいてきて、にわかに店内は活気づいてきた。狭い店内は、すぐに人口密度が上がる。綿実とも近付いたような錯覚を覚えそうだ。お好み焼きから立ち上る湯気が、幼馴染みの境界を曖昧にするようだ。
ろくに冷まさずに口に運んだお好み焼きのせいで、火傷しそうになる。綿実に心配されながら、水で流しこんだ。ヒリヒリするような痛みがあった。
お好み焼きを食べて店を後にする頃には、外はすっかり夜だった。街灯の向こうに見える暗い空には、小さな星が煌めいている。息を吐くと、白いモヤが棚引いた。数時間で冬に逆戻りしたみたいだ。
「帰るか」
「うん」
綿実のスプリングコートの裾から見える足は寒そうだった。だけど、結局いつもの距離で歩き出す。手が触れ合えそうで、触れ合えない。
おれは溜め息を隠すようにして、もう1度白い息を吐いた。




