13
息を潜める気分だった。
母さんに綿実と出かけることを勘付かれる訳にはいかなかった。京都旅行のことですら、まだ良い顔はしていない。綿実と会うわけではない、ということは何とか理解してくれているみたいだけど、京都なのがどうにも解せないらしい。それでも軟化してきてはいる。
なのに、綿実と水族館に行くことが知れた日には……。また無駄に体力を消耗することになるだろう。京都旅行も本当に危うくなる。それは俊雄たちにも申し訳ない。
だからここ数日は必要以上のことは話さないように努めてきた。不自然にならない程度に。
そのことを思うと春休みにほぼ毎日部活があるのは助かることだ。母さんもさすがに部活のことまでは干渉してこない。いつもと変わらない高校までの道程が軽快に思える。
――親子して何て汚らわしいの!
不意に痛烈な言葉がよぎる。あんな言葉をもう聞かせたくも言わせたくもない。何か解決の糸口ってあるんだろうか?
思わず溜め息がこぼれた。
「また時化た顔してんなぁ」
こいつも大概、目ざとい奴だと思う。もう1つ嘆息してしまいそうだ。
「俊雄か? おはよう」
振り向くとやはり当人がいた。
「おはよっ。で? 何悩んでんだ?」
ちゃっかり肩を並べて歩き出している。行き先は同じなのだから仕方ないけど。春らしく柔らかくなってきた空気を、乱されるような気がした。
「別に何も悩んでないよ」
「本当かよ?」
「本当だよ。強いて言うなら京都旅行に行くのがちょっとメンドイ」
冗談めかして言ったつもりが、思いのほか俊雄は深刻な顔をした。
「そうか。やっぱ難しい?」
「いや、まぁ母さんは渋っているけど、別に難しいってわけじゃねぇよ」
何となく言葉尻が弱くなる。隣を歩く俊雄は困惑したような表情を見せた。一瞬、光が通り過ぎるほどのわずかな時間だったけど、確かにためらいがあった。でも俊雄はすぐに力を抜いた顔をする。
「うん、親の説得っていうかさ、旅行って4月1日を挟むから参加しにくいんじゃないかと思ってな」
心臓が高鳴った。一体何を知っているというのだろう。
「別にその日取りは関係ないだろ?」
平静を装った声を出したけど、俊雄は気にした様子もなくさらりと斬り返してきた。
「佐野先輩の誕生日じゃん」
あまりに単刀直入で、どう繋いだら正しいのかよく分からなかった。ひらりと風が吹いて、目を瞬かせると、校門が見えた。その先はもう綿実が通うことのない場所。おれは手のひらにぎゅっと力を入れていた。
「なぁ、前から気になっていたんだけど、俊雄はおれ達のこと、どう思ってんの?」
俊雄は珍しく神妙な顔をした。思わず身構えてしまう。実際問題、俊雄がやたらとおれと綿実のことを突っ込んでくるのは謎だった。
うぅん、と低い唸りが横から洩れる。
「俺さ、前に佐野先輩と一緒にいる所、見たことあるんだよね」
ドキリとした。表立って何かあったことはないはずなんだけど……。いつのことだ? ぐっと耳を澄ます。
「まだ1年の頃だっけ。夏休み前に紅白戦やったじゃん? その時に応援に来ていてさ、夏衣と話している距離が近いなぁ、と思ったんだ」
「紅白戦……」
確かにあった。1年から3年までごちゃ混ぜになって試合をする。引退する3年の餞を主たる目的として毎年ある、恒例行事みたいなものだ。うちの学校のバスケ部は残念ながら強くはないので、夏以降も3年に公式戦があることはまずなかった。
そんな試合で1年だったおれが目立つようなことは特になかったはずなんだが。首を捻ると、俊雄が苦笑した。
「覚えてないのか? お前にタオル渡したりしていて仲良さげだったじゃん。瑠美なんか、マネージャーの仕事とられたって、むくれていたんだぜ」
言われてみると、そんなことがあった気もする。全然知らない人から見たら、1年男子に2年女子がタオル渡したりしている訳で、確かに目立つかもしれない。
「それにさ、その時の夏衣の顔が無理してないっつーか、自然だったんだよなぁ」
「なんじゃそりゃ」
ひとまず突っ込んでおいた。俊雄は困った顔をしただけで、言い返してはこなかった。
特別な関係なんて匂わしたつもりはなかったのに。俊雄に見透かされていたとなると、案外周囲からは浮いていたのかもしれない。今更ながらに気鬱になる。
綿実とは関係のない話で場を繋いでいると、すぐに部室が見えてきた。ちょうど瑠美が出てきた。部活を休むことについてマネージャーには話しておかなくては、と思った所で違和感を覚えた。
瑠美がむくれていた……?
先ほどの俊雄の話がよぎる。ファミレスで話した時は綿実のことを知らない様子だったけど、瑠美は以前から綿実のことを知っていた? 名前と顔が一致していなかっただけか? でも買い出しに行った時も……。
いや、深く考える必要はない、よな。1つ呼吸を置いて、声をかける。
「瑠美、おはよう。早いな」
「おはよう、2人とも。って別に早くないよ。もう10時回るし」
確かに普段なら完全に遅刻の時間だ。けれど今は春休み、十分に早い。と思うのはやっぱりバスケへの志しが低いのか。
だけど、瑠美は言葉とは裏腹に朗らかな顔をしている。おれはさり気ない様子で告げた。
「あ、そうだ。一応連絡事項なんだけど、明日さ、おれ部活来られないんだ」
「え? どうしてよ?」
「ちょっと用事が入っちゃってさ」
「用事?」
曖昧な言葉に瑠美は不審な目を向けてくる。綿実と出かける、と素直に答えるには憚れた。部活を休むこと自体よりも何だか後ろめたく思えてしまう。
「俺も初耳だぞ~」
俊雄が軽い調子で茶々をいれてくる。言うタイミングが悪かったかな。
「うん……ちょっと大事な用事」
歯切れ悪いな、と我ながら思う。瑠美が鋭い視線を送ってくる。
「言えない用事なんだ」
「そういう訳じゃないんだけど……」
「じゃあ、何?」
言っちゃうか? 別に隠すようなことでもないし。じりり、と汗が背中を這っていくのを感じた。ぐっと拳を作った所で、俊雄の呑気な声が響いた。
「まぁ、いいじゃん。1日くらい」
瑠美はすぐに言い募る姿勢を見せたが、被せるようにして俊雄が付け足してくる。
「春季大会まではまだ日があるし、大丈夫だろ?」
納得できない表情を見せたまま、そうだけど、と瑠美は渋々頷く。俊雄の大らかな態度がこんなにありがたく思えたことはなかった。意味深な流し目とにやりと上がった口角は、見なかったことにする。
「じゃあ貸し1つでコーチには適当に言っといてあげるわ」
「サンキュ」
貸しの内容について、今は考えないことにしておこう。瑠美は嘆息1つ洩らして体育館へと歩き出す。内心安心した所で、不意に瑠美が振り返った。
「ねぇ。デート?」
一瞬言葉に詰まってしまった。しかし首を横に振った。デートでは断じてないのだ。それはもう確実に。瑠美は質問した割りには淡白に、ふぅん、と頷いて今度こそ体育館へと足を進めた。
「で、実際はどうなん? 佐野先輩と?」
相変わらず察しの良いことで。だけど、やっぱり素直に頷くことは難しい。
「でも、デートじゃないよ」
すると俊雄も、ふぅん、と相槌を打つ。なんだよ、と思いながらおれは黙って部室のドアノブに手をかける。手が滑って、開けにくい。手のひらを見ると、汗がひどかった。
なんだよ、ともう1度毒づいた。しかし、それは誰に向けたものなのかよく分からなかった。その思いのまま部室へと入っていく。気鬱な匂いが鼻を掠める。深呼吸してから、部室にいた連中に挨拶をする。
明日は本当に晴れるんだろうか、と思いながら。




