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佐野綿実。
その名前が体育館に響いた瞬間、耳たぶが熱を持った。紅くはなっていない、はずだ。けれど確かにボッと体温は上がった。目は、それでも平静を装って彼女を見る。
すらりと立ち上がった綿実は、凛とした背中を向けている。表情は見えない。
背中だけでもいいから、もっと綿実を見ていたい。
ささやかな欲望は、あっさりと裏切られる。続いて呼ばれて立ち上がった生徒によって遮られてしまった。
前方に興味を失って視線が落ちる。膝の上の手のひらが、力一杯握られていることに気づいた。ひっそりと息を漏らして、軽く目を閉じる。そして、またまっすぐに前を見た。
高校生活のラストイベント、卒業式は厳かに静かに進行していた。退屈な空気をまといながら。クラスの代表者が壇上に上がり、校長から卒業証書を受け取っている。無駄に生真面目で誇らしげな頭部はどうでも良かったが、羨ましかった。
代表者になることが、ではなく、綿実と一緒に席を立っていられることが。
おれはただ座っているしかない。君が代と校歌を歌う以外に仕事はない。ただ座っている。
代表者が元の席に戻ると、綿実のクラスが一斉に座った。一瞬だけ鮮やかな黒髪が見えた。そんなことで胸がしめつけられる自分は、やっぱり変かもしれない。
きっと春のせいだ、ということにする。春なんてくそ食らえだ。
卒業式は、なかなか終わりそうにない。名前を呼ばれるべき生徒はまだたくさんいる。ふと隣の席の奴を見ると、あくびを噛み殺していた。苦笑する。
ほんと、さっさと終わってほしい。
遠くの席に座る綿実はどう思っているのだろうか。感傷に浸っているのだろうか。おそらく違うな。
綿実を見送るのももう4度目だ。
幼稚園では泣きじゃくっていた。小学校では微笑んでいた。中学校では澄ましていた。そして、高校では唇を真一文字に結んで、前を見据えていると思うのだ。
どんどん大人びていく綿実。だから、どうしたって1年の月日が埋まらないことは、もう十二分に理解している。
それなのに前を向き続けるのには力がいる。だって1日しか違わないのに……。なじるような想いがよぎってしまう。
4月1日生まれの佐野綿実。4月2日生まれのおれ、鴨井夏衣。
おれたちは生まれた時からの付き合いだ。同じ団地マンションの2階におれ、3階に綿実が住んでいる。同じ時期に妊娠した鴨井家と佐野家には、産婦人科が同じだったこともあって、瞬く間に交流が生まれた。おれたちは双子のようにして育てられた。双子ではなく、姉弟のような間柄だと気づいたのは6歳を迎える頃だった。卒園式の日。
眉間にしわが寄る気がして、卒業式が終わるまで目を閉じることにした。暖房の効かない体育館は、肌寒く、まだ冬の気配を感じる。そのことが少し心を和ませた。
春なんてくそ食らえ、だ。