そうおっしゃらずにお茶漬けでも召し上がりませんか?
「あぁ…この部屋ってホント落ち着く」
「落ち着くな。ここは理科室だ…」
白衣を着た壮年の男性が右手を眉間のしわ当たりに置いて、顔をしかめた。
それに対して紺色のセーラー服を着た少女は臙脂色のスカーフを結びなおしてけらけら笑った。先ほどまでソファで右に左にコロコロと転がっていたので髪もぐちゃぐちゃである。
ここは理科室隣の理科の教務員の控え室。
私立の学校であるせいか、泊っても大丈夫なくらいの程度の設備が並ぶ。
大きなソファに事務机、コーヒーメーカーに電子レンジにシンク。
けれど、さすがに風呂場は存在していない。
「だって先生のそばは落ち着くの」
ふふ、と艶めいた年には似合わない笑みを浮かべて腕に顎を載せてソファの上で男を上目づかいで見上げた。 黒く艶やかな髪は方にたどり着くことなく、首にそっとかかるショートヘア。
それはしっくりと彼女の雰囲気に合い、そのおかげでどこか浮世離れした雰囲気が強まる。
男はいかめしい顔だちをさらに強張らせ迫力の増した形相ができあがる。小さい子供なら泣き出してもおかしくはないほどである。
「“だーから子供って嫌なんだよ”とすごい嫌悪感を内心に隠したままきれいな笑顔を向けれる気持ち。先生わかる?」
毎日まいにち、ぐちぐちとうっとうしいったら。と彼女の担任の若くて遊び盛りの女性教員を思い出す。一寸の隙もないメイク、男性受けのいい上品な服装。武装されたフライトアテンダントのように完成された笑顔。
ただし、彼女から流れてくる思考はそれに似つかわしくなく、誰かを呪い、妬み、さげすむといったもので、それを“受け”たせいで気分が悪くなって私も愚痴をはきたくなっても当たり前ではないか。他にもそりゃあ色々いるけど彼女の感情はもはや公害レベルである。
キンキンと耳にいたい声もとても煩わしい。
―だから、ノバの耳にくらいなってよね? 先生。
「あーもー。気持ち悪い」
「だから、なんで俺にそれを言う」
コーヒーを手に取り、ミルクと砂糖を4つ入れて、そばにあるスプーンでかきまわす。じゃりじゃりと砂糖が溶け切らず、底に溜まったように音を立てる。
「先生はほかの人に告げ口したりしないでしょ?」
それにここの部屋居心地よくて……
「薬品のにおいが充満しているのにか?」
その上となりの理科室にはお決まりのように人体模型も存在しており、学校の怪談においては格好の場所ともいえよう。
男は呆れたように溜息をついたかと思うと口寂しさを慰めるように甘ったるいコーヒーを口元へ運ぶ。
「先生のにおいがするよね……」
「それは色々アウトだ。京子」
その発言は誤解を招く、とさらにコーヒーを勢いよく口に運ぶ。
「俺は…人の裏なんて知りたくない。この人こんなこと考えてんのか、とか知りたくない。俺を、人間不信にする気か。俺の心労を増やすんじゃない……」
拙いながらも彼女に対して不満を伝えた。実際、同僚の本音のようなものを知識として得てしまうというのは、つまり彼らの地雷原を知っているようなもので、それに触れないように気を使う労力を更に費やすことになっている。
そのせいで彼らに妙に好かれることもあったりするのだが、彼は気づかない。
気づかないほうが幸せであろうか。
「しかし、ホントに顔色が悪い。保健室にいけ」
「嫌。先生のそばのほうがずっと楽」
うーっと持ち込んだブランケットに顔を埋めた。
男は彼女を困惑した目で見つめる。なぜか妙に好かれている。ほかの生徒は理科室に立ち寄ることはもちろん、廊下ですれ違っても話しかけてくることはないというのにだ。なぜだろう。
彼女いわく、俺の精神のありようが“とっても”好みなのだそうだ。強調されてもうれしくもなんともない。最初は頭大丈夫だろうかと思ったものだが、彼女いわくの“気を受ける”というこの症状は体調が左右されるほどなようで、放っておけなくて今このありさまである。
彼女の体質のおかげで助かった事例もあるから余計にである。
どこがだ…と訊ねてみたが帰ってきた答えは内緒っと、とてもうれしそうな笑顔が返ってくるのみで。結局わからずじまいだ。
確かに男のそばにいる彼女の体調は見た限りではすこぶるよい。普段クラスにいる時よりもずっとである。
「こら、廊下を走るんじゃない」
「っ! はい」
「キミ、遅刻だ。ほら名簿に名前と学籍番号を」
「…おまけは。いや、してくれないですよねスミマセン」
「そこ、じゃべるんじゃない。減点だ」
彼は固い人間だ。融通があまりきかない。
最近の高校生にいちいち注意しても反発されるだけなのだから言わないで放っておけばいいのに。口やかましくて怖い先生という位置に彼はいる。
悪いということを指摘しないで放っておくことはできないというのは私には理解できない。情をかけなくていいのに、そんなにいろんな人になんて。
疲れるだけだし、相手はその気持ちを無下にする。簡単に、あっさりと。
それがモノとして見えてしまうのだから余計にそう思うのだろうか。
「ま、愛は伝わることもあるんでしょうけど」
「……? なんだ。」
「いえ、なんでも。豆大福食べます?」
「……………もらおうか」
甘党なのも好ましい。いい年した大人に対して可愛いというのは失礼だろうか。もくもくと豆大福を頬張る姿は心なしかその表情は緩んでいる。
じーっと、こちらは水筒のお茶を飲みながら彼を見つめ、はぁっと熱い息を彼女は漏
らした。
「あーもう。可愛いなぁっ」
ボス、と右ストレートがソファに打ち込まれる。
「何か言ったか?」
「…いーえ何も。私の分もいります?」
「でも、お前の分がなくなる」
(いえ、食べている姿を見るだけで幸せですから)
「いまお腹すいていないんで、だいじょぶです」
まったくこんなに可愛いなんて犯罪級だ。しかしこんな不可解な思考にたどりつくのは今のところ彼女だけである。
「………ん…ありがたくもらう」
私の体質を知ってからもそばにいることを許してくれる。
それだけで十分私が満たされていることを彼は知らない。
「また来るね」
「俺の心労もそろそろ労わってくれ頼むから」
と胃のあたりを押さえるように言う。これ以上同僚の悪い面は見たくない。
「またケーキ買ってきますね」
「…………あぁ」
結局は受け入れてくれるのに私はつけ込む。
先生も厄介なのに目を付けられたもんだ。